佐々木さんのおっしゃる生活風景の空間と、 象徴性をもった空間とは扱い方が違うという話は、 とてもよく分かります。 基本的には、 あまり寿命の長くないものはプロが関わらなくてもいいものが多いと思うんです。 しかし永続性があって公共性の高いものはあまり失敗してほしくない、 水準の高いものが欲しいわけで、 そういうものについては専門家が関わるべきではないかと思います。 そうした違いが一つあると思います。 花壇などは、 しょっちゅう変わりうるものの典型で、 そもそも生えているもの自体も変わるわけです。
だから基本的にはサイクルの長短の問題と言えます。 しかし、 日本のまちは花壇だけではなく、 建物などいろんなサイクルの短い装置があります。 では短いから専門家は関わらなくてもいいのかというと、 それは疑問だと思います。 もっとわれわれを取り巻いているものが耐久性を持って欲しいという思いもあるわけです。 しょっちゅう変わってしまうものではなくて、 自分が生まれてきてそこを去っていく期間を、 ある程度もってほしいという感じがとてもするんですね。 そのためには、 やはりそれに耐えるような質のものであってほしいわけです。
先ほどの三面張りの話にしても、 もしプロとして多自然型がいいと思っているのであれば、 それはずっと言い続けなければいけないと思うんです。 それが職人気質ということです。 言い続けるということは、 ある意味では佐々木さんのおっしゃる話し続けるということだと思います。
難しいのは、 プランナーの仕事はモノの形を決めることだけではないことです。 例えば三面張りにするか多自然型にするかを決めることが仕事ならばそれで良いわけです。 ところが一方で全然違う仕事も行政から託されている。 住民の意見をまとめるプロとして、 これだけの金を払っているんだというわけです。 これは全然違う話で、 こちらのプロであろうとすれば、 自分の意見は抑えてどうやってまとめるかが仕事になります。
実は環境デザイナーとかプランナーは、 モノづくりの専門家としての側面と、 人を説得する専門家、 極端は言い方をすれば、 芸術家と政治家を一緒にした職能としてイメージされていて、 仕事もそういう恰好で出てくるわけです。 その分自分の中で、 いろんな矛盾を来しているわけです。
住民参加だけで言えば、 自分が調整する人間なんだと位置づければ矛盾なく出来るであろうし、 モノづくりの専門家と位置づければそれはそれでいい。 しかし、 環境デザイナーというのはそれだけではいけないという所に矛盾があって、 そのあいまいさが後継者・学生にとっても、 環境デザインがどういう職能なのかを分からなくしているわけです。 そういう意味では難しい問題なのですが、 逆に言えばそういう職能であるからこそ意味があるかもしれないんですね。
環境デザイナーには
芸術家と政治家の両面が求められる
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