一つには、 価値は人間にしかないからだ。 「絶滅するウサギの身になって考えよう」とマニアックな自然保護派の人が言っていたが、 所詮、 考えるのは人間でしかない。 ウサギの身になるのが楽しいかどうかは人間の勝手だ。 その証拠に誰もゴキブリの身になって考えない。 ただ、 ウサギやゴキブリが住めないほど環境が目茶苦茶になったら、 人間も確実に滅ぶ。 それが恐い。
二つには、 もし日本人が、 本当に自然と共生することが大好きだったなら、 近代以降の自然破壊もなかっただろうし、 公害があんなに野放図に広まることもなかったに違いない。
江戸時代は環境共生的だったと言われるが、 それは自然となじむしか生きる道がなかったからにすぎない。 技術も資力もそれ以外許さなかった。 その耐えに耐えた恨みつらみをこの数十年で晴らしてきたのではないか。 エネルギーと資源が無限に手に入るなら、 ゆけゆけどんどんでゆきたいのが本音である。 その証拠に、 自動車の売れ行きが伸びれば世の中が明るくなったと言い、 落ちれば悪い兆候としてマスコミは報道する。 世の大勢はそれをおかしいとは思わない。 環境だ、 資源だといっても、 景気優先の議論にはそのような視点は一つもない。
だから、 環境がちょっとした流行になっていても、 10年後には奇妙に禁欲的な考え方とうち捨てられていても何の不思議もない。 だからこそ、 「環境共生は快適」にならなければならないのだ。
それは「環境と言えば行政が仕事をくれる」といった風潮に安易には乗りたくないというプライドかもしれない。 あるいは、 環境という言葉で攻めてきて、 地域のさまざまな要素を切り捨ててしまう単純さへの反発もあるだろう。 だいち単なる流行に付き合ってられるか、 である。
また根本的には都市は反環境的だからでもある。 都市づくりは、 森を切り開き、 神々を追出して自らの神殿をつくりあげる人間の性に深く根ざしている。 たまたま「環境」という文字が入っていても、 都市環境デザインが環境の仲間だというのは馬鹿な誤解に過ぎない。 だからか、 フォーラム委員会の議論でもっとも盛り上がったのは「俺達はピラミッドをつくりたいんだ、 それが本音なんだ」といった話題だった。
確かに大きな物を作るのは楽しいかもしれない。 だが、 本当にそうだろうか。 ピラミッドや1000m、 2000mのビルを作ることにしかデザイナーの愉楽はないのだろうか。 だいいち、 作る過程はともかく、 つくられた物は快適だろうか。
エネルギーや資源が高騰し、 あるいは気候変動が誰もが堪え難いようになれば、 嫌でも浪費的なあり方は続けられない。 だがその前に、 何が本当に快適なのか、 表面的な流行より少し深いとこで変わっているようにも思える。 超高層もかっこ良いけれど、 もう胸がときめくことはない。 むしろ古い街並みや緑に包まれた集落に「癒し」を感じ羨ましく思う人が増えている。 もちろんそういった思いと矛盾する多くの従来型の都市的な快楽への思いが交錯しているのだが、 確かにそういう気分も本物としてある。
だからこそ、 専門家には、 そんな思いに正面から応える物をつくって見せてほしいのだ。 それが快適ならその流れは本物になるに違いない。 胡散臭さにたじろかず、 人間にとって快適な空間とは何かに再び正面から向き合うべきだろう。 それが環境ともう一度折り合いをつけるデザインに繋がると僕は信じている。
環境共生は快適であらねばならない
学芸出版社
前田裕資
環境指向は本物か
昔、 東洋と西洋の自然に対する態度、 みたいなものが盛んに言われたことがあった。 いわく西洋は自然を征服しようとする。 東洋は自然と共生してきた。 ………これは嘘だと思う。
作ることの快楽か
この小冊子の準備をはじめて驚いたのは、 会員のさめた目だった。 環境共生は関心がない、 環境共生は胡散臭いなどなど、 環境を大切にしようという世間の流れに距離をおこうという人たちが少なくない。
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