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私が以前勤務していた設計事務所(GK設計)で、 世界都市博覧会の基本構想計画に従事していた頃、 環境共生を意識した。 当時日本では、 その概念すら認識されていなかった時であるが、 我々は環境共生をテーマに「エコパーク」や「エコスポット」といったアイディアを提言しようとしていた。 既にドイツでは「ビオトープ」が全国で普及していることを私はその時知った。
ここで紹介するのは、 丁度その頃、 神奈川県が造園計画を進めていた「県立座間谷戸山公園」である。 所謂日本で最初の都市型ビオトープ公園である。 くしくもそこは我が家のベランダから望める里山であった。
都市化が進み、 急速に自然が失われつつあるこの地は、 農耕地、 雑森林、 湿地、 溜池、 湧水等の里山の風情を残す数少ない場所であった。 これらの特色を活かし、 身近な自然に生きる数多い植物や野鳥、 昆虫等が観察でき、 里山の維持管理にも参加ができる公園として造られた。 整備された駐車場やサイン等を見なければ一見して公園とは解りにくい程そのままの自然なのである。 お陰でアオバズク等の野鳥が見られるほかに、 夏には山から多種な蝉がベランダに飛来することが多い。 園内では蛍が見られ、 マムシやヤマカガシも生息する。 「里」「谷戸」「山」とそれとなくやんわりとゾーン分けをしてある。 足を踏み込むと時空をトリップしたかと思うほど都市の中に昔懐かしい里山が出現する。
コンテクストを持たない空間意識が、 緑の塊が減っていくことで遠近感が喪失し、 自分が存在する定点の在処が無くなり自己喪失に繋がることは明白である。 存在と意識の拠所を求めて都市住民は浮遊する。 選択した労働形態から、 自らの生命(食料。 安全)管理を他者に任せた我々は、 生まれ落ちた時そこにあった自然を、 ノマドのごとく探し求めなければならないのである。
ビオトープネットワークは多面的な環境保全機能として期待が大きい。 対症療法的な人工的環境浄化装置は限界である。 経済効果として環境庁では換算化の試算が始まっている。 結局は生態系の維持保全のほうが健全で安全な街なのである。 しかし、 都庁舎がアナクロ的なシンボルであると同様に、 テーマパーク的な臨海副都心の模造街路ビーナスフォートのように、 模造自然を点在させることは避けたい。 本質的なホメオスタシスな環境共生都市の流れを崩すからである。
都市型ビオトープ「座間谷戸山公園」の事例から
都市に埋没する意識の在処をレギュレートする里山(神奈川県座間市)
グラフィス環境計画
白濱力
都市の中の自然生態観察公園「谷戸山」
谷戸山の遠景
公園内の管理棟
水鳥の沼
都市の肥大化を制御
私は都市部でのこの環境保全の意味性に着目した。 単に自然との共生や景観と行った枠では収まりきれないことに気がついた。 いわゆる都市の自然破壊と産業主義に繋がったコルビジェの高度管理社会が構成する無機質都市空間の肥大化は際限なくスプロールするアメーバーのようなリゾモーフィズ化する問題である。
失いかけている「トポスの意識」
都市の郊外化は我々にアノニマスな風景を増幅させたと同時に「トポス(場所)の意識」を失わせ人生の有様までも変化させた。 日本経済のパイロットシティーゾーンといえるR16沿いは自立経済を持たない中間マジョリティーが流入してきた地である。 都市生活に憧憬を持ちながらも、 疲弊しきった心の癒しに原風景の里山を求めるのは、 最近静かなブームを起こしたPSの「僕の夏休み」の30万本の販売数からも読みとれる。
コンテクストを持たない空間意識の危険性
郊外化でスモールタウンとコロニーが癒着し始め、 面に成長する市街地で、 地権者の利権や、 造成費のコストバランスから取り残された土地が幸い里山として残ってきた例が多い。 アメーバの活力は、 用途指定だけでは制御しきれない。 哲学のない都市計画と強力なプラス思考の果て、 経済という高度管理社会の中では止めようもないのだろうか。
正常な状態を維持する役目
巨大都市は、 里山のプロットをやがてコード化していくであろう。 産業という人間社会活動のプラス方向のドゥーイングによって制御しない限り都市のエントロピーが増大するが、 それはあたかもアメーバが飲み込む様の反動としてレギュレーターの役目を担うであろう。
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