景観からの復興まちづくりの諸側面
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復興の展開

 

震災3、 4年後

 
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復興の展開(神戸市長田区、97年7月)
 
 さて、 震災後どのように街が変わってきたかということで、 97年に色々な調査をやりました。 これがそのときの状況です。

 例えばこれは長田の山の方の家ですが、 ほったらかしでまだ再建どころではない状況のお家もありました。 斜面地でなかなか工事しにくい場所ということもあって放置されていたわけですが、 道路沿いの使いやすい宅地であれば、 再建できなくても土地を売れば分譲住宅がすぐ立ち上りますし、 別の所でも長屋建て住宅を土地所有者が手放して、 ディベロッパーが住宅地として売る例が目立ちました。

 被災した人達は不幸な状況ですが、 大阪などの被災地周辺は元気なんですね。 ですから住宅地を売ると買いに来るんです。 1回地震があったからもう100年くらい地震が来ないだろうという読みもあるし、 値段が下がっていますから、 この際神戸市民や芦屋市民になれるんだったら、 といった具合に住宅が売れるだろうという読みが働いたようです。

 

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復興の展開(西宮市、芦屋市、97年7月)
 
 芦屋や西宮あたりの復興では、 全体に木造2階建てで再建が進むのですが、 中には先ほどと同じように自分で再建できずに土地を手放すケースもあり、 分譲の「のぼり」が被災地に目立つという、 なかなか奇妙な状況でありました。

 また一方では再建できないまま空き地化してそのままという所もあります。 震災のときに家を取り壊して空き地になり、 それが再建できず空き地のままで残っているのが、 2割くらいという状態です。

 なぜ残っているかというと、 おそらく借地に家を建てていたようなケースで色々権利関係の問題が絡んでいるとか、 例えば所有者が高齢でかつ子どもが東京などで暮らしており、 家をもう一回建てる事がなかなかできないとか、 そういったそれぞれの家の事情で空き地が残っている可能性があります。

 

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復興の展開(芦屋市中央区 1998年)
 
 これは芦屋の中央地区で、 4年後の写真です。 区画整理のための換地等が済んで、 基盤整備は段々進んでいるのですが、 4年経ってもまだ住宅の再建には至っていません。

 調査当時は右の写真のような仮設のプレハブを建てて、 商売をやったりしている人達もたくさんいましたけれども、 まあおよそ商売になりそうもない状況でした。

 

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復興の展開(西宮市森具地区、1998年)
 
 これは西宮の森具地区です。 区画整理地区で道路基盤の整備が始まっていますが、 まだ住宅の再建には至っていないという状況がついこの間まで続いていました。

 

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復興の展開(淡路地域、1997年8月)
 
 同じ頃に淡路に行くとどんな様子だったかと言いますと、 お寺の門が倒壊してしまったのですが、 地震から2、 3年でこのお寺の門が寄進ですぐ再建されていました。

 また北淡町では一転してまだ再建できておらず、 そろそろ仮の区画整理の換地ができたところに住宅が建ち始めたような状況でした。

 実は震災のときに瓦が問題になりました。 震災の直後に「瓦は重いから地震に弱い」というデマが流れたせいで、 阪神間から瓦屋根が少なくなってしまいました。 淡路は瓦の産地ですが、 地震の影響で瓦産業がかなり下り坂になったのですが、 淡路ではやはり瓦の好きな人が多く、 修復でも再建でも淡路産の瓦を使ってる場合が多いのです。

 淡路では台風があるので重たい瓦を利用していたわけですが、 現代的な要求に合わせて軽量瓦の生産に着手しており、 最近は従来型ではなく軽量瓦が多く生産されるようになっているようです。


震災6年後

 
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復興の展開(新長田駅北地区、2001年)
 
 今から4年前にもいくつかの地区を撮影しました。

 新長田駅北地区ではコンサルタントの久保さんがこの地区の計画にずっと携わっておられまして、 まちづくりと一緒に産業復興も一緒に考えていかなければならないということで、 靴をテーマにした施設を造ったり、 区画整理後に建物が建つときにはできるだけ町並みを創っていくようにしないといけないということで、 「まちなみガイドライン」をつくって復興に取りかかってきました(住民主導まちづくりは、 複雑系参照)。

 写真左は靴をテーマとした施設の一部です。 表周りに店舗を配置して、 中に空間を持ってきています。 産業のための施設ですが教室やホールもあります。 このような施設ができてはいましたが、 その時点ではまだほとんどが空き地の状態でした。 写真右はアジアギャザリーです。

 

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復興の展開(芦屋市若宮地区、2001年)
 
 芦屋では若宮地区の復興に現代計画研究所の江川さんが携わられて、 改良住宅地区事業が行われました。 これはその後色々論議を呼んだのですが、 ここでは元々住んでいた人達のための住宅再建が考え方の基盤にあったため、 地区の中に残っている住宅をそのまま残しながら事業を進めていくというやり方がとられました。 その結果、 後で出てくるような復興公営住宅のように戸数を沢山建ててる事業とはまた違った事業に展開することができました。

 ここでは元々あった街のコンテクストとでもいうべきものを復興しようとする努力がなされたわけです。

 

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復興の展開(芦屋市中央地区、2001年)
 
 その頃、 同じ芦屋の中央地区では、 基盤整備も進み建物もどんどん建ち始めますが、 やはりまるで新興住宅地的景観になっていきました。 もちろん設計はそれぞれ建築家がやっていて、 なぜそうなるのか色んな要因があると思いますが、 とにかくかつての芦屋をイメージさせる雰囲気はなかなか作れないようです。

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