アジア太平洋の地域の都市環境デザインの新しい流れ
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3 台北市都市設計の実施過程


1 初期の模索(〜1980)

画像ti022 改行マーク都市デザインの実施経過の年表です。

改行マーク台湾で都市デザインが考えられ始めたのは1970年代なかばからだと思いますが、 その時に制度の実施をすぐに検討したわけではなく、 アメリカ留学帰りの先生や留学生達が都市デザインの思想や実例等を伝え、 それからどういうものを対象に、 どういう手法でコントロールするかなどについて、 論議を拡げたわけです。 しかし、 こういう新しい制度をいきなり既存の都市計画制度の中に導入するのは困難であり、 また問題でした。

改行マークその時、 ちょうど市街地の東側に軍の工場跡地があり、 そこを副都心につくる動きがありました。 そこで検討中だったアーバンデザインの考えを実現するため、 台北市政府が台湾の大学に研究計画を委託すると共に、 東京のKMG建築事務所にも依頼しました。 そして今日も見えられている土井先生や大村先生をはじめ都市計画研究所の方々と一緒に、 この「信義計画」とよばれる副都心地区の都市デザインを検討しました。 この検討した結果に基づいて市政府がさらに実施案を制定しました。


2 制度化が動き出す(〜1985)

改行マークいきなり全市的に制度を実施するのは難しいので、 まず副都心だけやってみようということでした。

改行マークその時、 対象地区内の建物のデザインをいかに前もって制定したガイドライン通りにコントロールできるかが課題となりました。 これを検討した結果は、 審議会を作って対処するという結論でした。 しかし前例がないため、 2年間ほどの議論を経て82年にようやく審議会が動きはじめました。 ようするに、 建物や空間のデザインを審議するために、 台北市政府がデザインガイドラインを先に作り、 それを基本に、 委員達が建物の審議を行なうことになったのです。

改行マークデザインガイドラインの内容は敷地の大きさ、 空地の位置、 壁面線、 ペデストリアンシステム、 グリーンベルの指定などです。

改行マークしかし建物のデザインについて、 ガイドラインだけに従っても、 町並や環境にふさわしいものが必ずしも作られるわけではないので、 副都心地区内の各建物について審議会で議論していこうという方針でした。

改行マークこれに対応するため台北市政府も内部(当時は都市計画処の中)に都市デザインチームをつくりました。


3 適用対象の拡大(〜1991)

改行マーク1984年には、 敷地内に公開空地を提供したらボーナスをあげるという制度が実施されたため、 以前より大きな建物が建つようになりました。 これについて、 85年ごろから大規模開発になった建物のうち、 敷地が3000m以上、 延べ床面積が10000m以上のものは、 都市デザインの審議の対象となりました。


4 制度の充実へ(〜1995)

改行マーク90年ごろからは公共施設や公共工事(橋など)も対象になりました。

改行マーク一方、 審議対象となる物が多くなるにつれ、 民間(施主や建築家)からの反発も強くなり、 そのため、 審議対象を検討し、 延床面積を3000m以上、 敷地規模は6000m以上までに緩和しました。

改行マークこの間、 市政府のほうは都市デザインチームを都市デザイン課とし組織を拡大しました。

改行マークこのように、 台北の都市デザイン制度がだんだん整備されたのです。


5 新しいうごきと住民の参入(1996〜)

改行マーク95年ごろからは建物のデザインだけではなく、 建物と都市計画との関係が問題になりはじめました。 例えば都市計画の指定で高い容積が許容されている敷地では、 都市デザインを実施しても良い景観を創出しにくい場合があります。 その結果、 都市デザインに伴って土地利用指定も変更できるシステムに整備し、 委員会名も「都市設計及土地使用コントロール審議委員会」に変えました。

改行マーク96年には新たに住民参加の問題が入ってきています。 都市デザインの審議と住民参加(例えば建設敷地周辺の住民は審議に意見を出すこと)との関係が市民主義を掲げている新しい市政府の政策の中に重視されるようになりました。 住民参加をどう位置づけるかがまだはっきりしていませんが、 新しいテーマになりました。

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