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境界の詩歌

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境界の詩歌 補遺



   
境界の詩歌
Poesie auf der Grenze


内藤 恵子
Keiko Naito

第1部
 I Schwierigkeiten der Uersetzung japanischer Gedichte
  Vorwort
  1 Funktion der technischen Hilfsmittel der japanischen Gedichte und
         Molichkeiten ihrer Uersetzung
   (1) Makurakotoba - Kissenwort (Langgedicht)
   (2) Honkadori - Anspielung auf ein anderes Gedicht (Kurzgedicht)
   (3) Kakekotoba - doppelsinniges Bindewort (Kurzgedicht)
   (4) Engo - Beziehungswort (Kurzgedicht)
   (5) Kireji - Abschnittswort (Haiku)    
  2 Wesensart der Ausdrucksweise in jeder Gedichtform
   (1) Langgedicht
   (2)Kurzgedicht
   (3)Haiku
   Texte und Literatur

 II Schwierigkeiten der Übersetzung japanischer Gedichte の注釈的補足          日本人の詩情・40年前の思い出・ 外的風景と内的風景・切字「かな」と「や」
   掛詞

第2部
 I 教育学的論考
    母性保護論争について                   
    自己表現の一考察
    『母親の態度・行動と子どもの知的発達』の日米比較研究における比較研究の問題点
     童話を読む
 II 翻訳
    西ドイツにおける女性と職業(内藤バルバラ著 Barbara Naito)
    ドイツ連邦共和国(西ドイツ)における女性学研究について  
       (アンケ・ヴィ−ガント著  Anke Wiegand)
    ドイツ連邦共和国における女性の立場(アンケ・ヴィ−ガント著Anke Wiegand)         チェコスロバキヤにおける女性平等について 
       (ボオフスラバア・ フォン=コップ著 Bohuslava von Kopp)

とがき

 シュ ツッツガルトで論文を書き終え、帰国して以来、私はそれまでやってきたこととすっかり手を切り、ドイツ文学に背を向けてきた。文学そのものに向って行こう という気持ちがなくなっていた。論文を書くために日本語詩を読む努力が、それまで漠然と感じていた不安を明確なものにしていった。ドイツ文学、特にドイツ 語詩の理解の難解さ、自らの理解の不十分さ、自らの非力を明確な形で感じるようになっていた。ドイツ語詩を読む時、その内的世界へどうしても入り込めない ことに苛立ちを感じ、自ら持つ理解能力での咀嚼の不可能性をもどかしく思った。そんな折、日本語詩を読まねばならない立場に立ち日本語詩と対峙して初め て、詩的世界が身体に染み込むように、身体に直接触れるような親近感を持って迫って来たのである。日本語詩は自分の内面へ取り込むことが出来、自らが持つ 理解能力で咀嚼し、自らの解釈をある種の論理性を持って提示することが出来るように思えたのである。ドイツ文学に抱いた絶望的な理解不可能性は異文化理解 の難しさに根ざしていることも知った。(抜粋)                                 
(ドイツ語の文字表記はできません。ご了承下さいーー編集部 )

(p302の「フアウルト」は「フアウスト」の間違いです)

*下記の日付けの後、最近の読後感は、「境界の詩歌 3」の頁に続きます。


■2022年12月14日、小川恭平氏より
『境界の詩歌」の”Schwierigkeiten der Übersetzung japanischer Gedichte”は特に興味をもって拝読しました。それにしても日本語のローマ字表記は大変読みにくく、万葉集は全歌があったので、対照して読みました が(135番なんて特に厄介な歌をよく使われましてね)、他は(古今集usw.)手元に無かったので読むのに難渋しました。 (略) 

私が思っていたことは、詩の翻訳は不可能であるということでした。私が講釈するまでもないのです が、詩というものは、意味だけでなく、その言語の音が詩そのものの成り立ちの大きな部分をなしているわけで、音韻機構の異なった多言語への移し替えはそも そも不可能だ、と考えます。例えば日本の古典詩の代表である長歌や和歌/短歌、俳諧など、言うまでもなく7音、5音の組み立てでなっていて、早い話が、こ れを他言語に移すことはできないと思います。逆に漢詩の七音絶句だの五言絶句だの、欧州語のHexameterだのPentameterだのを日本語の詩 として、例えば、7/5音の詩に移すことはまずできないでしょう。例えば、S.153/155の俳句の独訳だってドイツ語の詩になっているか? 少なくと も意味だけは正確に写せばいい、とも言えるけれど、あなたがKakekotobaで言っておられるようにdoppelsinnigをどう処理するか、の問 題が出てくるでしょう。氷川玲二『ことばの政治学』(同時代ライブラリー、岩波書店1995)に挙がっているシェイクスピアのソネットNo.137では 詩句のなかで少なくとも三つの意味を取っています。そうなると、たとえ系統の近いドイツ語に移すことだって困難なことではないか。

勿 論、名訳というものはあります。例えば、上田敏の「海潮音」がそうであり、永井荷風の「珊瑚集」がそうでしょう。しかし、各詩をあたったわけではないので すが、上に書いたようなイチャモンを付けようと思えば付けられる訳詞もあることと思います。勿論そんなことはしても意味ないのでするつもりはありません。 重要なことは、訳詞が詩になっていて、訳者が詩人で、原詩に触発されて新しい日本語の詩を創作したのだと考えます。

そうなってくると、一体、詩とは何なのか? 文学の解説書を読め ばいろいろ書いてある。しかし、私はそんなものは一切無視して、こう定義づけます:詩とは、書いた人(若しくは詩集/歌集/句集を編んだ人)が「詩」で ある、と認識した文字列、または、読んだ人が詩であると、と思った文字列。そこには定型・非定型の区別は存じません。

例えば、日本古来の7/5音の文字列が詩だ、と言ったにしても、すぐ例外が出る。万葉集の巻頭の歌:籠もよ み籠持ち み掘串もち この岡に 菜摘ます子・・・(雄略天皇作とされる)は7/5音ではないけれど、万葉集の篇者が詩(長歌)として編集したから詩です。

近代・現代において5/7 音の文字列の連続という形式上のしばりは無くなった。例えば:馬 軍港を内臓している(放送大学教材「文学批評への招待」P.34)。なおこの編の筆者は 「「詩」と規定する基準などどこにも存在しない」と書いている。定義できない学者なんか廃業しろ、と言いたい。)が詩として挙がっていて、私の上述の「定 義」によれば、作者または編者が詩だ、としたから詩でよかろう、と思っています。あなたはこれを詩と受け取りますか。                                                   

勿論、逆に定式に合っているからと言って詩とは言えないものもある。例えば;こ の土手に 上がるべからず                警視庁は立派に5-7-5で揃っているけれど、これを詩と言う人は居ますまい。近代において形式 上のしばりが出回っているけれど、出来としては「この土手に・・・」と五十歩百歩なのではないか? (略)

  ※編集者より:小川氏より、以下のように誤字のご指摘がありました。                                 『境界の詩歌』p302の「フウルト」は「フウスト」の間違いです。申し訳ありません。

2022年3月7日、小池玲子氏より
(前略)長い間の経験と研鑽に基づかれた、素晴らしい内容です。

2010年11月3日、T. C.さん(著者の高校の恩師)より 

 先日は御大著を御送付いただき厚く御礼申し上げます。御家庭を持ちながら長い間研究に専念された事に誠に驚異的に感じられました。この様な立派な御研究 をなさったのですから、ドイツ国から何等かのお誉めの言葉が有っても当然だと思います。私もドイツ哲学、文学に非常な敬意を持って居り、ニーチエのワーグ ナー張りのリズムを持った詩、箱根に行った時のロダンの彫像(バルザック)に書かれたリルケの言葉「悲劇的な誇張の瞬間」はドイツの詩を研究したいと思ふ 希望を強めた次第でしたが、時遅く、私の持っているドイツ語の知識では以前からの数理的研究をスポイルするのみで残念ながらドイツ文学に手を染める事が出 来なかったことは痛恨の極みです。
 最後に書かれた「女性学」についての御研究、今も未だ盛んな様ですが、アメリカでは聞く処によると、最近男子高がふえ、男性、女性はそれぞれ独特な才能 を持つといふ様な言葉を述べる人もふえ、世の中は絶えず変り行くものの様に思われます。私が何十年もの間師事した日、米の偉い先生も居られなくなり、宿題 も未だ残り、私も老体にムチ打ちながら、日々を  過ごして居りますが、私ももっと早く研究に目覚めていたらと思ふこと切です。(略)今後共、御大切にな さり、御研究をつづけられる事をお祈り致します。(略)

2010年6月6日、S. 石川. F.より (ドイツ語の文字表記はできません。ご了承下さいーー編集部 ) 
 Sher geehite Frau Naito,
 Das war ja eine groァe ・erraschung, Ihr Brief und Ihr Buch! Da ich selbst Haiku schreibe, auch Renka mitmache, war/ist mein Intressee 歟er Kireji und Haiku groァ,ich Ierne viel ...1000 Dank!

 Sie haben ja ein weites Feld bearbeitet (auch mein Mann ... ... war DAAD Student). P嚇agogik ist ein wichitiges Gebiet. ........

 (日本語訳:著者)
 拝啓、思いがけず、お手紙と御本を頂き、大変(驚き)うれしく思いました。私自身俳句を作り、又連歌作りにも加わっておりますので、切字や俳句に対して大いに関心がありましたし、今もなおあります。沢山のことを学んでおります。.. ...幾重にも(千回)お礼申し上げます。 

2010年4月7日、物部円柿氏より                                                   

 ○ この分(私見の限りにて)(第1部について、ボチボチによる外ありませんが)「この分」がかの地にて日本の詩句世界のよき紹介モノ、又解説に資するものなら、若者の労はそれなりに価値有す事でしょう。又「あとがき分、P325 後段→326 前半については、コチラも同感です。
 ○ なお(ついでながら、又僭越にし!):P112 に見る「ふる池や」句、これについてはいわゆる蕉風確立の句云々と評されたりしてあると思います。「この著」が日本の詩歌世界についての stylistique 一般を述べんとしたものかとは思いますが、)P116、2―3行目、die Ruche zur Tranzendenz とまでふれ及んでいるのなら、詠み手世界の内的世界=ある種一種の覚醒体験というその機縁(ただし、P189、ラストOK.と)lie le trancendantal このような点にも補足的説明の有ったなら……などと思ってみたりし!……―もっとも、今時点では、決してコチラ分際云ての言ではありません。(以下略)

 ○ 第2部について、(Sais-je? Que suis-je? という道ゆきとしての旅を専らとし。)著者自身に質す。“さてアナタ自身の、その謂う当面す課題それのための解法とは何?(裏面、フォ ンコップ私見に当方は全的に同意し=そのチェコの現況、又、施政に)。この国にあっての男女格差ヶ状況は、“いわずもがな!概ね人々の(“有権者やセン キョ”)半分が著者と同様、ジョセイであり! 約’70年来、男女平等論の展開の永きの事実有り=啓蒙etc.ないしソレに類す諸活動、運動 etc. 即ち各選挙機会にあり、ただちにでも「その意、いの所」の成ろうハズ!… その、では何故に未だし成らぬのか。その因や如何??――ましてや、婚姻前姓? =Maider name 認容の動勢も有る今、いったい(アホウな男ら諸輩は別とし…)ダレが“夫の姓に改名シタイ”のか?? その各自各自自由に!とまで条件付きであるのに。 “又、アナタ自身の心の深層について尋ね及んでみてみたのでしょうか?(以下略)


2010年1月2日、H.U.さんより

(略)まことに立派なご本をお出しになりました。厚くお礼申しあげるとともにお書きになったものに対し、深く敬意を表します。いろんな意味で興味深いものがあると同時に教示されるところ、また多々ありました。

  それにしても、Prof.Martini の要請があったとはいえ、翻訳の難しさの視点から日本文学の特質に切り込んだとは、ずい分困難な仕事だったことでしょう。その意味では対象を古い時代の歌 謡や俳句、なかでも枕詞、掛け詞、本歌取り、縁語、そして切れ字に限定して論じられたのはまことに当を得た選択だったと思います。

  日本の詩歌をドイツ語に訳すことの難しさは格別です。まず両方の言語に通じていなければならない。しかも、詩歌を解する解釈力と鋭い感性がなによりも前提 として求められています。たとえば、芭蕉の「古池や…」の句、蛙は一匹と解して不定冠詞で訳すのが一般的ですが、蛙は一匹ではない複数だとイメージする金 子兜太のような俳人もいると翻訳はさらに困難さをましてきますね。

 同様 に「枯枝に…」の句の鴉も果して一羽なのか、つがいなのか、それ以上の数なのか、冠詞に加え、名詞に複数形がない難しさが浮上してきます。内藤さんはこの 句で視覚的イメージに加え、鴉の啼き声という聴覚的イメージも重視され、もの寂しい秋の夕暮れの心象風景を重視していますが、小生にはその啼き声が聞こえ ないのです。啼いているか否かはここでは句の解釈の外にあると思いますが、どうでしょう。しかし、逆にそれをも重く見て、句の深みを掘り起こしていくとい う読み方があってもよいのかもしれません。あれかこれかではないところに凝縮された詩歌の味わいがあるのでしょう。直訳か意訳かの問題も永遠の課題です が、これも答えは見出せませんね。問題になっているのは、原詩にどれだけ忠実か、原詩のこころをどれだけ多く見るかにあるようです。この両極の間に無数の 段階があります。文学の解釈・評価・鑑賞に客観的基準がない以上、当然のことかもしれません。Prof.Martini が、小生が当時かかわっていた Doblin の作品を、ドイツ人の下敷を顧慮しないで日本人の視点で読み解いてほしいといったことば、なによりもそのことを表しているように思えます。

  それにしても文学のみならず、フェミニズムの問題、教育学関係のお仕事 etc. とひたすら諸種の問題をつねに問題意識をもって取り組んでこられた内藤さんの情熱とエネルギーには驚かされました。ひょっとするとあなたは一生なにかを探 究してやまないかもしれませんね。論文やエッセーに限らず、俳句や短歌などの分野でも間違いなく良いものがうまれそうですね。心から期待しています。 (略)


2009年11月27日、Y.T.さんより

(略)若い頃、ドイツの雑誌UNIVERSITASに俳句論を書いたことがあり、ご高著所収のドイツ語論文は私の関心を大いにそそります。しかしそれ以上 に興味深かったのは、先生のご来歴で、かつて女性が京大に入り、卒業後も活躍することがどれほど難しいことであったかを改めて思い知らされました。(略)


2009年11月25日、T.S.さんより
(略)独語と日本語の同時解説は内藤様のご力量の成せる業と思います。この度ご出版されたことは、内藤様自身へつきつめた窮極のものが投影されて、跳ね返って、さらに内側が強靱になられ、言葉の迷宮に深く入っていかれると思います。(略)

境界の詩歌 2 (Vorwort )に続きます。

感想は、境界の詩歌 3 に続きます。

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