出版案内

境界の詩歌

3

 Books Guide 

ホーム
出版案内
本のご注文
リンクページ
ゲストルーム


境界の詩歌 1
境界の詩歌 2
境界の詩歌 3
境界の詩歌 補遺


2021年5月13日、中田紀子より(現代詩人会理事)

 『日本詩独訳の際の問題点』では、日本語詩を他言語に訳す難しさに触れられたとのこと、共感いたしました。昔、宗左近の「燃える母」を英訳したことがあ り、ひどく悩み(3年間)ましたので、『境界の詩歌』は読了できておりませんが、息子がドイツにおり独語も少し勉強しておりますので、とても興味深い論文 です。

2016年7月1日、K. H 氏より 

 色美しい山あじさいや火垂るの飛びかう水無月に思いがけなく立派なご本を頂戴し、読ませて頂くうちに無知なる自分の姿 にすっかり落ち込んでしまいました。 はるか昔の少女の頃に赤い鳥全集や坪田譲治、西條八十、堀口大学、薄田泣菫、又ヘルマンヘッセやハウットマンに共鳴 し子供心をゆすられた思い出があるだけで、只今は万葉の植物を知る位にて目を病んでからは読書も遠のいている有様、詩歌はその人の生きざまの心情によって その心を読みときます。
 ドイツで日本人の詩歌の心を翻訳なさり、国民性や言葉の色、香りをご研究なさったご様子、すばらしい翻訳家学者様でいらっしゃる事を知りました。啓蒙の 到りです。前へ進む気持ちもおとろえ、近頃は昔のことを大切に思う様になって来た私には再び詩のもつ意味を与えて頂き、高度なお勉強となりました。 (略)。


2016年6月1日、K. M&S.M 氏より
 立派な御著書、拝受致しました。永年の御活躍がつぶさに伝わる数々、感動致します。


2015年11月7日、K. L 氏より
(略)。表現が凝縮された詩歌の翻訳は文学的な素養や背景が問われる大変な翻訳作業です。かつて一度だけ言葉遊びの多用 された翻訳を手がけたことがございますが、通常よりも時間を要した大変な思いをいたしました。文献の揃わぬドイツでこの作業に御一人で臨まれた入魂の一 作、最後まで楽しく拝読させて戴きました。


2014年10月3日、Y. W氏より
(略)。翻訳に関して一言。私は、幼い時に既にフランス語をやったためか言語に非常に興味を持ち、英語、イタリア語等も 勉強、そして本を読むときは出来るだけ翻訳物でなく、オリジナルで読むことを心がけています。というのは、翻訳はいくら上等な翻訳であってもどうしても著 者の気持ち、表現したいことが確実に書き出されていないということ。それこそ各々の文化が持つ独特な生き方、言い回し方が元に、どうしてもズレが生じてし まうこと。いくら微妙な違いだといっても、やはりオリジナルで読むか読まないかでは読んだ時に受ける印象は、結局最終的には相当な差。詩歌でない書物でさ えオリジナルと翻訳でそれだけの差が生じるのですから、言葉で描きだされるコンテキストが限られている詩歌の確実な翻訳は私は到底無理だと思っています。 成功したとしても思っても、何か物足りないと思わされることが普通ではないでしょうか?
(中略)
 第1部だけでなく第2部も私には非常に興味あることで、特に母親/子供関係、子供の教育はバイリンガルになるとMuttersprache/Zwitsprache(注:母国語/第二言語)が非常に強く響きますから……。


2014年9月15日、M. I.氏より(英文学)
「童話を読む」は特に興味深い。作者は5編の「赤頭巾ちゃん」を取り上げている。ペローの赤頭巾ちゃんの教訓は、「用心 深くあれ」というものである。グリムの赤頭巾ちゃんは、「大人によって設定された規範にあわせて行動せよ」というものである。これらの伝統的な赤頭巾ちゃ んは自ら行動を起こさず、常に受身である。これに対して、20世紀に入って創作された赤頭巾ちゃんたちは賢く立ち回り、行動的であり、自分の力で戦う。こ のような意識改革にはフェミニズム運動の力が大きいと著者は述べているが、正しい指摘であると思われる。更なる追求を期待した。


2013年3月9日、K. S.さんより

(略)「境界の詩歌」、目を見張りながら読ませていただきました。(略)「境界の詩歌」で取り上げられている日本の古典 詩の理解と翻訳上の問題点(日本語の部分しか読めないのが残念です。時間をかけて、取り上げられている詩を読み解きたいと思います。)(略)。学問として の分野の書物は殆ど読んだことのなかった“女性”というタイトルのもとに論じられる母性、教育、仕事。そのどれをとっても、女性の一人として常に疑問を感 じ、関心を持っていたものばかり。自己表現もしかり。童話についても興味はつきません。海外での女性をとりまく諸問題の考察も、全て心躍るものばかりでし た。
 文章が、通常私が接しているものとは異なり、何度読み返し、構文の把握を確かめないと、理解できないような論文型であるのも(当然のことですが)とても 新鮮でした。情に流されるという表現がありますが、情に流して文を書く、その日を生きるという、理づめでない私の弱点がここにも発見できました。これだけ 興味のあるものばかりなのに、なぜ強い関心が向かなかったのか……と思うと、「童話を読む」に論じられているように、私も全くペローとグリムの中の赤頭巾 ちゃんの一人なのでしょう。「このチャンスが女性に与えられることが少ないのは、女性は一人前の大人になることを期待されないからではないだろうか」 (P262)というくだりは、心に強く残りました。 
 この世の中で一番愛し、尊敬していたと信じていた父が子供の頃、九月生まれの私の誕生日にくれた「九月姫とウグイス」という童話にも、「女はこうあれか し」みたいな、男の視点の枠組みがあったのだなあと、苦笑いしながら、複雑な気持ちを抱きました。いつの頃でしたか、英文のコラムを読む授業の際、アメリ カでの女性学のはしりのような(?)記事に出会いました。女性が正当な権利を手に入れる為に、仲間達と奔走し、あと一歩というところで頓挫することが多 い。その際、うらぎり者はいつもこちら側(on our side)にある、という一文が、ずっと心の隅に残っています。意志の強さや、かんばりが要求される時に、その強さを発揮しなければならない場面で、一人 の女性が男性に“女らしさ”を持ち出して、計画をブチ壊してしまう、みたいな記事でした。 
 一般の私達は、気づき、積極的にその問題を研究し、本にまとめる等という大仕事はできません。内藤さんのような研究者の方々が、こうして本にして下さ り、私達がぼんやりと持っている不合理への不満を、筋道だてて整理をし、どうあるべきかを示して下さることは、私達がまわりの友に、そして子供や孫に、言 葉をかえしたりしながら伝え広めてゆけるという夢を与えて下さったように思います。(略)孫娘達に根気よく語りかけてゆきたいものです。(略)
 すばらしい御本をありがとうございました。とても楽しい経験でした。(略)


2011年1月21日、K.A-L氏(ミュンヘン在住)より
(略)表現が凝縮された詩歌の翻訳は文学的な素養や背景が問われる大変な翻訳作業です。かつて一度だけ、言葉遊びの多用 された翻訳を手がけたことがございますが、通常よりも時間を要し大変な思いをいたしました。文献の揃わぬドイツでこの作業に御一人で臨まれた入魂の一作、 最後まで楽しく拝読させて戴きました。(後略)


2010年11月21日、B. S.氏(文学修士)より

 Schwierigkeiten beim Ubersetzen japanischer Gedichte

 Keiko Naito, M.A., japanische Literaturwissenschaflerin, untersucht in ihrer Arbeit, "Poesie auf der Grenze" die Schwierigkeit der Ubersetzug japanischer Gedichte ins Deutsche.

 Dabei geht sie ausfuhrlich auf funf technische Hilfsmittel ein, die in japanischen Gedichten besonders haufig Anwendung finden - das "Makurakotoba" ("Kissenwort"), das "Honkdori" (Anspielung auf ein anderes Gedicht), das "Kakekotba" ("doppelsinniges Bindewort"), das "Engo" ("Beziehungswort") und das "Kireji" ("Abschnittswort").

 Somit erhalt der Leser einen Einblich in die grundsatzliche Andersartigkeit der japanischen Lyrik, die der Ubersetzung starke Grenzen zieht. Durch das "Kakekotoba" ("doppelsinniges Bindewort") kann der Dichter zum Beispiel mit den gleichen Worten zwei verschiedene Aussagen erzeugen. Dies gelingt, weil es im Japanischen wesentlich mehr Homophone gibt als im Deutschen. Der Ubesetzer muss sich bei der Uberstragung fur eine Interpretation entscheiden. So geht zwangslauflig viel von der poetischen Kraft und Schonheit des Originals verloren. Andereseits entsteht manchmal durch die Ubersetzung eine neue poetische Wirkung, die vom Original nicht ausgeht.

 Der zweite Teil der Arbeit untersucht den Einsatz der typisch japanichen Hilfsmittel und die Moglichkeiten der Ubersetzung in den drei Hauptformen der japanishen Lyrik - dem Langgedicht, dem Kurzgedicht und dem Haiku.

 Die vorliegende Arbeit erhoht das Verstandnis fur die Besonderheiten der japanischen Lyrik im allgemeihen und schafft Verstandnis fur die Schwierigkeiten der Ubertragung.
 Da den meisten dutschen Lesern die beim japanischen Leser automatisch hervorgerufenen Assoziationen nicht moglich sind, geht viel bei der Ubersetzung verloren.
 Keiko Naito nennt als eines von zahlreichen Beispielen ein Haiku von Matsuo Basho (1644-1694), Japans beruhmtestem Haiku-Dichter. In diesem speziellen Haiku kombiniert Basho in typisch stark verkurzter From die Worte "Baum", "Suppe und saurer Fisch" und "Kischblute".
 Nur wem die japanische Sitte vertraut ist, zur Kirschblutenzeit auf blauen Plastikplanen unter den bluhenden Krischen ein Picknick zu machen (oft mit Suppe und saurem Fisch), der kann ein Stuck weit nachvollzeihen, welche inneren Bilder von Fruhling, Feier undd Schonheit das Haiku Bashos fur seine Landsleute hervorrufen kann. Hier kann die Ubersetzung zwar die Worte ubertragen, doch die Assoziationen, die ganz selbstverstandlich beim japanichien Leser erzeugt werden, nicht vermittein.
 Und manchmal ruft die Ubersetzlung auch die falschen Assoziationen hervor, wie Keiko Naito an einer Gedichtubersetzung klar macht, die im japanischen Original die Assoziation eines Liebersgedichts weckt, in der deutschen Ubersetzlung jedoch religiose Anklange hat.

 Besonders interessant sind die ausfuhrlichen Einzelanalysen, die die japanische Literaturwissenschaflerin vorlegt, die in Stuttgart Germanistik studiert hat. In der Fulle der unterschiedlichen Beispiele verschwindet allerdings manchmal der rote Faden ein wenig.
 Weniger und dafur detailliertere Analysen der Gedichte und der vorliegenden Ubersetzungen waren hilfreich gewesen, das Gelesene besser aufnehmen zu konnen.

I st eine gute Ubersetzung also moglich? Das abschliebende Urteil fehlt in Keiko Naitos Arbeit, auch wenn man als Leser den Eindruck gewinnt, dass sie wohl mit "Nein" antworten wurde.

 Gerade in Deutschlan gibt es allerdings viele Menschen, die japanischen Gedichte, von allem Haiku, lieben. Offensichtlich geht auch von den ubersetzten Gedichten noch ein Zauber aus, der wirkt. Auch 300 Jahre nach Bashos Tod.                  B. S., M.A.  B.S.(文学修士)

 (ドイツ語の文字表記はできません。ご了承下さいーー編集部 )

著者による上記「B.S.氏の批評」の訳
 「詩歌の批評」
 著者「境界の詩歌」では、日本語詩のドイツ語への翻訳の難しさに着いて論じられている:ここでは日本(語)詩に特にひんぱんに使用されている五つの史的 技巧(枕詞、本歌取り、掛詞、縁語、切字)について詳細に検討されている。これによって読者は翻訳の限界を思わせる日本抒情詩の根本的な特異性を知ること になる。
 例えば、掛詞によって同一語で二つの異なる表現が可能になる。日本語にはドイツ語より同音異義語が多い。訳者は翻訳の際、その内の一つの解釈を選択しな ければならない。そのため必然的にオリジナルの美しさや詩的な力が失われる。一方、翻訳によってオリジナルには無い、詩的効果がある。生まれることもあ る。二部では、日本叙情詩の主要な詩形、長歌、短歌、俳句における日本詩特有の五つの技法の使われ方(導入)とその翻訳の可能性について検討されている。 それによって日本叙情詩一般の特異性の理解を高め、その翻訳の難しさが理解される。大抵のドイツの読者にとって、日本人には自動的に呼び起こされる連想は 不可能である。そのため、翻訳において多くのものが失われる。例として、松尾芭蕉(1644-1694)日本の最も名高い俳人の一句が多くの句の中から取 り上げられる。芭蕉はこの俳句特有の短縮された詩形で、木、汁、なます、そして櫻という語を列挙している。この芭蕉の句が同国人(日本人)達に、春、祝 い、美しさのどのような内景(内的光景(イメージ)を呼び起こすことが出来るかを、日本の習慣(花盛りの櫻の下でブルーシートに坐りピクニック(花見)を する。(時には汁となますを携えて))を知っている者のみが(それを)一歩踏み込んで把握出来る。
 翻訳は語を訳すことは出来るが、日本の読者には自明なこととして生み出される連想は伝達出来ない。さらに翻訳では過った連想を呼び起こすこともあるとし て、著者はオリジナルにおいては恋の歌を連想されるものがドイツ語では宗教的な響きが込められていると一つの例を上げて明らかにしている。
 シュツッツガルトでドイツ文学を学んだ文学研究者の著者が、個々の歌を詳細に分析していることは興味深いが、しかし、その例が多量であるため一貫性(赤 い字)が失われることがある。もう少し少ない、その代わりに詳細な詩の解釈とその翻訳であったら、読んだものをよりよく把握することを助けたかもしれな い。
 それではよい翻訳は可能か? この論文の結論では、その答えは出されていない。とはいえ、読者は著者が恐らく“no”と答えるであろうという印象を抱く。
 ドイツには日本の詩、特に俳句を好む人々がたくさん入る。翻訳された詩からでもなお明らかに生きた魅力が出てくる。芭蕉の死後300年経っていてもである。


エディット・パルク Copyright(C)2001