奥の細道挿入句の読み方14

 

波の間や小貝にまじる萩の塵

〈推測する読み方〉
浜辺のさざ波の底には、西行上人の歌によまれたますほの小貝が散らばっている。よくみるとその小さな桜色の貝殻にまじって、どこからともなく吹き寄せられた萩の花片が、かすかな赤みを帯びて散らばってみえる。
〈体感する読み方〉
ますほの小貝は萩の花そっくりで、波がゆらゆら揺れてその底に貝が洗われていると、萩の花びらが塵となって揺れている様だ。萩の花みたいだと思って渚で水底の貝に目を凝らしている芭蕉。読み手は波のゆらぎの中に赤みがかった水底の貝を眺めている。

(四十五)大垣
蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ

〈推測する読み方〉
はまぐりの身とふたがはなればなれになるように、親しい人々と別れて、行く秋とともに伊勢の二見えと、私は旅立つ。
〈体感する読み方〉
(句の前書きとなる文章)
(親しき人々みな日夜訪ひて、蘇生の者に会うがごとく、且悦び且ついたはる。旅のもの憂さもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮拝まんと、又舟にのりて)切角合えた親しい人々と別れるのは、秋の淋しさと共に、つらい気持だ。芭蕉はそんな人たちの心も推し量って書いている。読み手はそんなやさしさが伝わって「秋ぞ」と言う強い言い切りに、芭蕉の存在が肌に触れるばかりに感じられ、三百余年と言う時間が今の瞬間となってしみわたる。

奥の細道の読み方がこれで全部終了しました。次回からは京都俳句会出版の著書〔宇宙は 俳句〕より抽出して意義のあるものを掲載したいと思います。 次ページは先般セカンドホームページに掲載しています文章ですがよろしかったらお読み下さい。

胸を張ろう日本語を使って暮らす民族である事を

そして日本語で綴る俳句と言う、日本固有の世界一の文学形式を持つ国民だと言う事を。
私は俳句を深く研究していて、俳句の母胎である日本語の素晴らしさに気付いた。
そこで日本語がどう素晴らしいかと言う事を、俳句と言う文学形態を発生させる仕組や言葉が、発達した過程等色々な面から日本語の素晴らしさを説いて、日本語はこんなに素晴らしいのだと、その日本語で暮らす私達は心豊かな国民なのだと、皆で誇りを持って暮らそうと呼びかける事にした。
芭蕉の開発された日本固有の文学形態を説明しようと思うのだが、その前に言葉の比較の為に、日本語と英語との違いをまず書いてみようと思う。
誰でも日本人は日本語と英語の違いを強く感じさせられていると思う。
それは発音の仕方が根本的に違うので、会話が思うように行かないのだと気付いた。
又私は英語の発音が聞こえないと言う壁が前にあるのだと気付いた。
そこでそれを克服するために英会話のテープを何千回と聞いた。
どうにか音が聞き分けられるようになった。すると今度は発音の元が根本的に違うのだと気が付いた。私達の先祖がまだ手が今のように使えず、口だけで食物を取っていた頃の形態が目に浮かんだ。菜食動物だったご先祖さん達は、山野に生えている草や木を口で噛み切って食べていただろう。それに引き換え肉食だった欧米人のご先祖は、動いている物を口で捉えて食べていたと思える。この違いは考え方も大きく違うだろうし、先ず口で動くものを捉えそれを食べなければならない。
頭の使い方が違うのと同時に、舌の動かし方が巧妙で高度に発達したであろう。
そしてその巧みな舌使いで音を発した場合、複雑で高度な音が発せられる事になる。
動かない草や木を食べるのと、動くものを捉えて食べるのとでは、舌の動かし方が全然違っただろう。私はここに英語と日本語との根本的な発音の違いが有るのだと気付いた。
日本人でどれだけ英語に堪能な人だと言えども、あの英語の美しい発音は真似できない。
そこで日本人は英語コンプレックスがあると言われるが、英語コンプレックス等と思わず、英語は世界共通語で英語のよさはしっかりと認識した上で、日本語は英語に比べて発音がシンプルだがそこが、後で書く俳句の四次元的な働きを発生させられる処で、何処の言葉より研ぎ澄まされた言葉なのだと言う事を認識して欲しい。
日本民族の多くは中国系の遺伝因子を持っているだろうし、又朝鮮民族の遺伝因子を持っている人達が混じり合って、今日の日本国民になっているだろう。と言う事は日本語は中国語と朝鮮語をルーツとしているだろう。そのどちらもの言葉の良い所が洗練され淘汰されて、又折々に双方の国の言葉の影響を受けながら今日の日本語が完成されてきたと思える。
そうした日本語が何処の国の言葉より優れているのは、当然の成り行きだ。
考え方も生えている食物を皆で分け合って生きてきた草食人種は、他人のことを考えてまじめに暮らす性質があり、それも遺伝因子の中に組み込まれているだろう。
日本人は発音と同じく何でも単純な事を基礎にして発達して来た。
色んな文化も平面的又直線的なイメージを基にしている。その顕著なものが着物だ。
直線と平面を組み合わせて、体系とは違った形の美を生み出しているのに比べ、洋服は体の線をそのまま生かした形で、曲線を操る高度な考え方で、美しい形を完成させている。
機能的には洋服が優れているが、着物は自然に無かった形で美しさを作り出している。
これも物を食べる時の単純な口や舌の動かし方と同じで、シンプルなことが元になっている。
俳句もシンプルな日本語ゆえの音の組合わせで、四次元機能が発生する所まで機能させる事が出来る。私は俳句歴五十年の中で研究し実作して来た経験から、芭蕉が開発された俳句形式程優れた日本独自の文学形態は何処にも無いと言い切る。これは俳句の母胎となる日本語の高度な形態を駆使して、十七文字で宇宙の広さと時間の長さだけ、動くドキュメンタリーが表現出来るからだ。それも単なる短文詩で無く読み手の中へのりうつって、読み手の作品に変貌させる力を内包している。この様なドキュメンタリーポエムは日本語でしか書けない。
又俳句は崇高な精神性を要求されるもので、精神的には宗教よりも真実性を要求される。
文学的な形態から言っても世界最短の韻で表現し、しかも読み手に渡った時には瞬間に変貌して読み手のものになってしまう。作者は地球上の出来事で心に感じたままを読み手に渡す。しかも感動したと言う表現は一切文字面には書かず、現実に存在する事物と動詞と助詞だけで表現する事が出来る。句によっては動詞すら省略してしまう。
此処まで削ぎとって何処で何がどうだと言う三点を、文字で書くだけで先に書いた凄い働きをする俳句は、科学現象を駆使する高度な技術より高度なものだ。そう主張し言い切れるのは、人にのりうつる四次元的な働きを作者と日本語で発生させられる処だ。
俳句は芭蕉が三百年余り前に発明された文学形態だが、ここに至る迄にもう三百年程前の室町時代に遡るらしい。
その頃色々な文化が芽生えた様で、俳句も最初は言葉遊びから発生したらしく、これも日本語の、七五調と言われるリズムの故だと思える。その後俳諧とか連歌とか色々な形態を経て、その結果芭蕉が連歌の発句と言う挨拶句を宗教の域にまで昇華させて、純文学と言う処へ到達させられたのだ。
又日本語ゆえに凄い働きをする俳句と言う文学形態は、国民の誰もが簡単に楽しめる詩形でもあり、日本人はそんな文化を持っている国民なのだ。
日本人は何でも人の真似が上手で外国で開発された物を真似て、それを発達させうまく取り入れてしまうと、古来から外国の人に非難されて来たと言われるが、その通りで色々な文化を外国から教り、そのお陰で早く欧米の文化に追いつけたと思う。
そうした恩恵に対して感謝しなければならないが、日本から輸出している文化もあるのだからそう言う事にこだわる事はない。
私は俳句と言う日本固有の文化があるのだと言う事を、外国の人達にも知って戴いてこの素晴らしい、俳句を発生させる日本語を使って暮らしている民族なのだと、誇りを持って外国の人達と接する事を願う。

平成十八年三月   俳人 磯野香澄

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