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back.gif古代ギリシアの武器


古代ギリシア案内

古代ギリシアの船舶






初期のギリシア船

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 古代人にとって、叙事詩は、われわれのいわゆる百科事典のごとき役割をも果たしていた。まこと、われわれは、ホメロスの叙事詩によって、船の作り方まで学ぶことができる。『オデュッセイア』(第5巻228-261)の記述と、いくつかの壷絵から、われわれは初期のギリシア船を復元することができる。それが上図である。

 これは帆走することも漕ぐこともできる海賊船の特徴を備えている。船が浜に引き上げられたときや、凪のためにオールで漕いでいるときは、帆柱は船尾にある支持台上まで倒されていた。出航するときは、帆柱は定位置まで引き起こされ、帆柱の先端から船首近くの両舷側上の点を結ぶprotonoiと呼ばれる2本のロープで支持された。

 船足を速めるためには、船体を軽くしなくてはならない。船体を軽く、しかも丈夫なものにするため、彼らが選んだのは、堅いオーク材を使った竜骨を除いて、たいていは松(peuke)〔"pinus maritima"という種類らしい〕や樅(elate)といった軟らかい樹であった。
 しかし、軟らかい樹は水分を吸収しやすく、そのため、彼らは頻繁に船体を浜に乗り上げさせ、人力で陸に引き上げて、乾かせる必要があった。彼らの船の 船尾が高くそり上がっているのは、浜に乗り上げやすくするためである。そこには、浜に降り立つための梯子が用意されていた。


「長船」と「丸船」

 船にいかなる機能を要求するかによって、船体の形や大きさは大きく異なる。これを区別するために彼らが用いた最も単純な用語は、「長船」と「丸船」であった。

 「長船(makra naus)」は、言ってみれば軍艦や海賊船であり、帆走によって巡行ないし長い航海にも使えるが、主たる目的は海戦時に高速で漕ぐように設計されている。名のとおり、船体の長さと船幅との比は10対1という細身である。横から見ると、船尾が反り上がり、前方へと曲がった船尾柱が目につく。

 さらに眼をひくのは、船首の衝角(embolos または embolon)で、竜骨と内竜骨の延長のように見える。初期には船首飾りのようなものであったのが、前5世紀に入ると、これは二つの鑿のような青銅の刃となっており、ひとつは水上、他方は水中に入っている。衝角と船首柱との結合部は、水の抵抗を少なくするように形づくられており、体当たりをして相手の船体を破壊する武器と、水切りと、両方の機能を持っている。

 「丸船(strongyle naus)」は、船の長さと船幅とが4対1というずんぐりむっくり形で、帆走専用の商船・輸送船である。戦闘には参加できないので、衝角はついていない〔曵かれることもあるところから"horkas"、また後のガレー船という語と関係するかも知れない"gaulos"などという言い方もある〕。積載量を増すため、船首と船尾側は丸くふくらんでおり、一般に船底は大きく広がって、まったく平らといってもよいくらいに平べったくなっていた。このような船体では水の抵抗も強いが、彼らが望んだスピードからすれば、たいした問題ではなかった。
 普通の小さめの商船は120-150トンの積載量を持っており、積載量が400-500トンの船も決して稀ではなかった。

 舵は船尾の近くの船体の横か、もっと一般的には船体の両側に一本ずつ付いていて、一本の木の柄で連結されていたと考えられる。「長船」の場合であれば、45度の角度で水につかっており、船尾よりも少し飛び出していた。操舵は、とりわけ海戦時における絶妙の操舵は、高度な技術を要し、操舵手は固有名詞で文献に散見される、それほど重要視されていた。
 
  地中海とその気候は、古代ギリシア人の航海に厳しい制約をもたらしていた。ヘシオドスは、「陽の曲がり目〔夏至〕のあと50日から」後、遅くとも新酒の季節までを航海の季節としている〔『仕事と日々』663-675参照〕。冒険好きの船乗りたちも、3月下旬から4月の上旬までを、「やや危険だが航海可能」とみなし、6月の初めから9月中旬までを「安全」、それから11月上旬までを「不明」とし、それ以外の季節は、どうしても船を出さねばならない緊急の場合以外は「絶対にだめ」であるとみなしていた。毎年5ヶ月間のほとんどは、貿易港の全商業活動が事実上閉鎖されていたのである。

  古代ギリシアの帆船は、充分な追い風を受ければ、4〜5ノットの速度で航行できた。気象条件に恵まれれば、ペイライエウスからナイル河口のナウクラティスまで、7〜8日でたどり着くことができたのである。


櫓座の変化

 古代ギリシアの典型的な戦艦は「長船」であり、海戦時にはオール(kope)によって推進した。長い航海には帆柱や帆桁や横帆などを使用できるが、出撃のさいには「長船」の性能を最大限発揮するため、それらはすべて取り外し、浜に残して出かける〔ヘレニカ、第1巻1章13参照〕。だから、当然、敵の残した帆を、ちゃっかり横領するというようなことも起こったのである〔ヘレニカ、第2巻2章29〕。

 オールと、これを漕ぐ技術は、当時も今も変わりはない。変わっているのは、次に挙げる2点ぐらいである。
 1)今はU字形のオール受けの切れ込みを入れるが、昔は「櫂栓(kleis)」〔kleis は「鍵」の意味で、ちょうど昔の鍵の先端のような形をしていた〕を船べりに垂直に打ち込み、これにオールを革紐(troposとか tropoterと呼ばれる)で結んで漕いだ。
 2)現代の国際競漕用ボートでは、すべて滑席(sliding seat)が採用されているが、古代ギリシア人の櫓座は固定式であった。したがって、尻に水脹れができるのを防ぐため、漕ぎ手には自分用の座布団が支給されていた。

 漕ぎ手たちの数と配置には、数かぎりない変化が見られた。ホメロスの時代の漕ぎ手は、櫓座は1段で、両側にオールが対称的に並んでいた。急を要する伝達書や、重要人物などの輸送に使われた快速艇には、約20人の漕ぎ手が乗っており、ギリシア兵をトロイまで運ぶような大きな船は、「50人の漕ぎ手」を意味するpentekontoros (naus) と呼ばれた。この船は、簡単に見積もっても30.5メートル(100フィート)ほどあったと考えられる。

 紀元前8世紀の中ごろから、櫓座を上下2段にした船が現れる。そしてさまざまな試行錯誤の結果、彼らは第二の櫓座を、第一の櫓座の下に持ってゆくことを工夫した。そのため、船体にオールを通すための一列のオール孔があけられ、櫂栓を保持してオールの推力を得るための補強材が、オール孔の下部に取り付けられた。しかし、これによってオール孔は喫水線からたったの45Cmになり、海水の侵入の恐れが出たため、askoma と呼ばれる革の袋を、オールの周囲と孔の周縁に取り付けた。

 かくして、紀元前6世紀の後半頃、古典期海戦の華ともいうべき「三段櫂船(trieres)」が登場した。最も問題になるのは、第三の櫓座の位置であるが、船べりから張り出した舷外材(par-ex-eireria)によって、第三の漕ぎ手たちの席は船べりのすぐ上ないし水面上に張り出しぎみに置かれ、その櫂栓を支えるレールは船べりの上方約30Cm、外方へ60Cmほど張り出していたと考えられる。これによって重心が下がって船が安定するとともに、オールも他の漕ぎ手たちと同じ長さのものを使用できるようになる。それでも、一番上で漕ぐ者たちの役割は辛いとみなされており、給料も他の漕ぎ手よりも多くをもらったと言われている。
 ちなみに、最上段の漕ぎ手はthranites〔「高い腰掛け(thranos)の上の漕ぎ手」の意〕、中段の者はzygites〔「横梁上の漕ぎ手」の意〕、下段はthalamites〔「船倉(thalamos)の漕ぎ手」の意〕と呼ばれた。thalamitesは危険も大きく、最も不快な思いもしたはずである。
  「アポッロンにかけて、ほんまにthalamax〔thalamitesに同じ〕の口の中に屁をひりかけて、同じ釜の飯食った仲間を糞だらけにする……」
          〔アリストパネス『蛙』1074-75〕
        

三段櫂船

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 図や碑文、ペイライエウスにあった船渠の遺跡などから、三段櫂船の大きさや、漕ぎ手の数、配置など、おおよそ次のように推定されている。

 下段と中段の櫓座には、船の両側にそれぞれ27人の漕ぎ手がおり、上段の台にはそれぞれ31人の漕ぎ手がいた。しかし、船体は船尾でゆるやかに上方に曲がっており、櫓座のスペースが制限されていたから、おそらく上段では余ったthranites4人ほどがそこに配置され、その中の一人が、船首ではなく操舵手の近くで整調手として漕いでいたものと思われる。これで全部で54+54+63=170人の漕ぎ手がいたことになる。これに、操舵手(kybernetes)、水夫長(keleustes、「命令を下す者」の意味で、漕ぎ手に号令をかけた。ヘレニカ、第5巻1章8参照)、指揮官(trier-archos)、少数の艦上戦闘員(naubates)などを加えると、全乗り組み員は200人をちょっとこえたと思われる。

 専門家の計算によれば、この戦艦の推定速度は、驚くべきことに約11.5ノット。現代のレース用8人乗りボートをうわまわる速さである。もっとも、最高速度は10分そこそこしか維持できなかったであろうが……〔計算の詳細については、ランデルズ『古代のエンジニアリング――ギリシャ・ローマ時代の技術と文化――』地人書館、1995.11、p.249-253〕。このような艦船が、このようなスピードで水を切って進む光景は、さぞかし壮観であったろうし、その衝角が敵艦船に撃突する衝撃は凄まじいものであったと考えられる。

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 三段櫂船は装備が単純で、すべてが、漕いで敵に衝角で体当たりをするために作られたものであった。したがって、船長室はおろか、船員室、食料庫、そして調理室さえない。そのため、食事をとるときは、陸に降りなければならなかった。

 また、三段櫂船は安定性を犠牲にしてスピードが出るように設計されていた。したがって、静かな水の上での性能はすこぶるよいが、荒れた海などでは速くもなければ、安全でもなかった。海が荒れはじめると、艦船を出すのはあまりにも危険であった。アルギヌウサイの海戦で、勝利をおさめながら、目の前に漂流する戦友たちを、嵐のために救出できなかったのは、やむを得ないことだったのである〔ヘレニカ、第1巻7章参照〕。

[参考文献]
 以上の記述は、
 J. G. ランデルズ(監訳者:久納孝彦、訳者:宮城孝仁)『古代のエンジニアリング――ギリシャ・ローマ時代の技術と文化――』(地人書館、1995.11) に拠る。
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