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back.gif第1巻・第7章


Xenophon : Hellenica



第2巻






第1章



[1]
 さて、キオス(1)にあったエテオニコス麾下の将兵たちは〔 第1巻 第6章 36節以下〕、夏の間は、季節の収穫物とこの地での賃働きとによって暮らしていた。ところが冬になって、暮らしが立たず、裸体・裸足となったので、お互いに結託して、キオス(1)に攻撃を仕掛けようと申し合わせた。そして、この〔申し合わせ〕に満足した者たちは、自分たちがいかほどの人数なのかがお互いわかりあえるように、葦の葉を身につけることに決めた。

[2]
この申し合わせを聞き知ったエテオニコスは、葦組の人数の多さに、事態をいかに処すべきかに窮した。公然と事を構えるのは、相手が武力に訴えて、都市を占領したり、敵にまわったりして、彼らが優勢にでもなろうものなら、事態をすべてだめにしないともかぎらぬ危険性があったばかりか、また逆に、同盟者たちの多くを破滅させるのは、その他のヘラス人たちにまで離反の念を引き起こし、かつは、将兵たちがこの事態に嫌気がささないともかぎらぬ恐れがあるように見えたからである。

[3]
そこで、彼は自分もいっしょに懐剣を携えた15人を引き連れて町中を行進し、たまたま遭遇した一人の男――眼炎を患って医者の家から出てきたのが、葦の葉を持っていたので、殺害した。

[4]
そのため騒ぎが起こり、その男が殺されたのは何ゆえなのかと尋ねる者たちがいたので、葦の葉を持っていたからだと、報せをまわすようエテオニコスは命じた。この報せを聞いて、葦の葉を持っていた者たちはみな、また、耳にした者も次々と、持っているのを目撃されたのではないかと恐れて、それを投げ捨てた。

[5]
その後で、エテオニコスはキオス(1)人たちを呼び集め、船員たちが報酬を受け取って革命なんぞを起こす気にならないよう、金銭を寄付するよう頼んだ。そこで彼らは寄付した。同時にまた〔エテオニコスは〕艦船に乗り組めという合図を発した。そして、船の横を一つひとつ順番に通り過ぎながら、何が起こったかは何も知らないふうに、あれこれと督励し、かつ、忠告を与え、さらには各人に月々の報酬を支払ってやったのであった。

[6]
 その後、キオス(1)人たちとその他の同盟者たちはエペソスに寄り集まって、出来した事態について評議し、使節団をラケダイモンに送って実状を申し立て、リュサンドロスに艦隊の指揮をとらせるよう要請することにした。彼は以前の海戦のさい、つまりノティオン海戦〔 第1巻 第5章 11-14節〕に勝利したときにも、同盟者たちとは良好な関係にあったからである。

[7]
かくして使節団が派遣されたのであるが、彼らといっしょにキュロスのもとからも同じことを言って使者たちが〔派遣された〕。そこでラケダイモン人たちは、リュサンドロスを副官(epistoleus)とし、艦隊指揮官(nauarchos)としては アラコスをつかわした。彼らの法律によれば、同一人物が二度艦隊指揮官になることはできなかったからである。しかしながら、彼ら〔ラケダイモン人たち〕が艦隊を引き渡したのはリュサンドロスに対してであった。かくして戦争の25年間が過ぎた。

[8]
 また、この年に、キュロスも アウトボイサケスミトライオスとを殺害した。彼らはダレイオス〔2世〕の父親 クセルクセス〔アルタクセルクセス1世〕の娘、つまり、ダレイオスの妹の息子であったが、自分に謁見しながら、長袖(kore)に両手を通すこと(これは、ひとり王に対してのみ行うことであったが)をしなかったからである。――長袖というのは、小袖(cheiris)よりも長いもので、この中に手を入れると、何もすることができないのであった――。

[9]
そこで、 ヒエラメネスとその妻とは、ダレイオスに向かって、彼のとんでもない暴慢を見過ごしにするのは恐るべきことだと言い立てた。ダレイオスは使者を送って、病と称して彼を呼びもどした。

[10]
 さて、次の年〔BC 405 〕になって、――〔スパルテでは〕監督官になったのは アルキュタス、アテナイでは アレクシアスが執政官(archon)となったが――、リュサンドロスはエペソスに到着すると、エテオニコスをその艦隊もろともキオス(1)から呼び寄せ、また、その他すべての艦船を、いずこにあろうとも寄せ集め、これらを補修するとともに、アンタンドロスにおいて他の艦船を造船した。

[11]
その一方で、キュロスのもとに赴き、金銭を要請した。しかしキュロスは彼に、王から受け取ったものばかりか、それよりもなおはるかに多くを費消したと言って、艦隊指揮官たちの各々が受け取った額を示したが、それでもやはり同じように供与した。

[12]
リュサンドロスはその金を受け取って、三段櫂船ごとに三段櫂船指揮官を任命し、船員たちに未払いの報酬を支払ってやった。他方、アテナイ人たちの将兵たちも、サモスで航海の準備を整えていた。

[13]
 かかるおりに、キュロスはリュサンドロスを呼び寄せた。それは、父親のところから自分のもとに使者が来て、病気のために自分を呼んでいると〔使者が〕告げたためであるが、この時、彼〔キュロス〕は離反した カドゥシオイ人たちを討つために、彼らに近い メディアタムネリアにいた。

[14]
リュサンドロスが来着するや、〔キュロスは〕はるかに多くの艦船がないかぎりは、アテナイ人たちと海戦することを禁じた。なぜなら、王にも自分にも多くの金銭があり、したがって、これを使って多くの艦船を帆走させられるのだから、と。さらに、諸都市からの年賦金――彼の私的なものであった――をすべて彼〔リュサンドロス〕にあてがい、手持ちの金銭をも与えた。そして、ラケダイモン人たちの国に対してはもとより、リュサンドロスに対しても個人的に、いかほどの友愛を感じているかを思い起こさせたうえで、父王のもとへと上っていったのであった。

[15]
 さて、リュサンドロスは、キュロスが自分のものをすべて彼に引き渡したうえで、呼びもどされて病父のもとへ上った後、軍隊に未払いの報酬を支払い、カリアのケラメイコス湾に向けて船出した。そして、アテナイ人たちの同盟国にして名を ケドレイアイという市に攻撃を仕掛け、次の日の攻撃では総攻撃で攻略し、奴隷として処分した――そこの住民たちは〔ヘラス人と異邦人との〕混血であった――。そして、ここからロドスへと引き上げた。

[16]
対してアテナイ人たちの方は、サモスから進発して大王の領土に仇を成し、キオス(1)とエペソスに乗り込み、海戦の準備を整え、もとからの将軍たちに加えて、メナンドロス、 テュデウスケピソドトス(1)を追加選任した。

[17]
リュサンドロスの方は、ロドスから イオニア沿岸ぞいにヘレスポントスへと航行しながら、商船の通行を妨害し、自分たちのもとから離反した諸都市を攻撃していった。対して、アテナイ人たちも、キオス(1)から船出したが、外洋航路を採った。

[18]
アシアは彼らに敵対的だったからである。これに反しリュサンドロスは、アビュドスからラムプサコスへと――ラムプサコスはアテナイ人たちの同盟国であったけれども――沿岸航路を進んだ。アビュドス人たちもその他の人たちも沿岸に出ていた。嚮導したのは、ラケダイモン人 トラクスであった。

[19]
かくして、その都市に攻撃を仕掛け、総攻撃で攻略し、酒も穀物もその他の必需品もたっぷりある豊かな国だったので、将兵たちはこれを略奪した。だが自由な身の者たちすべてをリュサンドロスは放免した。

[20]
他方アテナイ人たちの方は、その航跡を進みつつ、ケルソネソスの エライウウス市に艦船180艘で投錨した。ここで彼らが朝食をしたためている最中に、ラムプサコスの事件が報告されるや、ただちにセストスに向けて船出した。

[21]
そこでただちに糧食を補給するや、ラムプサコスの対岸 アイゴス・ポタモイへと航行した。ヘレスポントスはここからおよそ15スタディオン隔たっていた。その地点で彼らは夕食をとった。

[22]
他方リュサンドロスの方は、その夜、夜明け前に、艦船に合図を送り、朝食をとったうえで乗り組ませ、海戦の準備をすべて整え、掩蓋(parablemata)をも張り出したうえで、持ち場から誰ひとり動かず、また船出もしないよう言いつけた。

[23]
これに対してアテナイ人たちの方は、陽がのぼるや否や、港に向かって海戦用の戦列で戦闘配置についた。だが、リュサンドロスは反撃に乗り出そうとはせず、かくて日も遅くなったので、〔アテナイ勢は〕再びアイゴス・ポタモイへと引き上げた。

[24]
このときリュサンドロスは、艦隊一の快速船数艘に、アテナイ人たちについてゆき、彼らが下船した後、何をするかを望見し、帰帆して自分に報告するよう命じた。そうして、それら〔快速船〕がもどってくるまでは、艦船から下船させなかった。かくして4日間、彼は同じことを繰り返した。

[25]
アテナイ人たちも挑発に船出し続けた。ところで、アルキビアデスは、自分の城塞から望見していて、アテナイ人たちが浜辺に係留し、近くに都市ひとつなく、必需品は艦船から15スタディオン離れたセストスまで取りに行っているのに反し、敵方は湾内や都市周辺にすべてを保有しているのを眼にして、あなたがたの係留の仕方はよろしくない、と彼は言った、そして、港と都市に近いセストスの方へと〔係留地を〕移動するよう勧告した。
 「そこにいれば」と彼は言った、「望むときに諸君は海戦できるだろう」と。

[26]
ところが将軍たちは、とりわけてテュデウスとメナンドロスは、彼に引き下がるよう命じた。今は自分たちが将軍なのであって、あなたではないのだから、と。そこで彼は立ち去った。

[27]
が、リュサンドロスの方は、5日目にアテナイ人たちが挑発に押し寄せた後、配下の追跡者たちに言った、――連中が下船してケルソネソスじゅうに散開するのを望見したら、(じっさい、これを彼らは普段の日よりもはるかにより甚だしくしたのだが、それは、食糧を遠くから購入するため、また、リュサンドロスが反撃に船出しなかったことで、彼のことをすっかり侮っていたためであるが)、自分のもとに引き返し、その航行の途中で楯を張り出すように、と。彼らは彼が命じたとおりに事を行った。

[28]
そこで、リュサンドロスは、最高速度で急航するようただちに合図を送り、トラクスも陸戦隊を率いてともに出撃した。対してコノンは、この来襲を目にして、総力を挙げて救援しようとして艦隊に合図を送った。しかし、兵たちは散開しきっていて、艦船のうち、あるものは二層魯座についていたが、あるものは一層魯座だけであり、まったく空座のもあった。そこで、コノンの艦船、および、他にも彼の配下の7艘の艤装した三段櫂船は、一丸となって船出し、 パラロス号もそうしたが、他のすべての艦船をリュサンドロスは陸地近くで拿捕した。そして、大部分の兵士たちを陸上に寄せ集めた。だが、何人かは城塞に逃げ込んだ。

[29]
 コノンは9艘の艦船で逃れたが、アテナイ人たちの事業は潰えたとわかったので、ラムプサコスの岬 アバルニスを占拠し、そこにおいてリュサンドロスの船の大きな帆布を手に入れた後、自分は8艘の艦船で キュプロスエウアゴラス(1)のもとに、パラロス号の方は出来事を知らせるため、アテナイへと引き上げた。

[30]
リュサンドロスの方は、艦船・捕虜・その他のすべてをラムプサコスに連れ帰り、また、将軍たちのうち、他の者たちもだが、ピロクレスとアデイマントスをも捕まえた。また、以上の戦功を挙げたこの日、出来事を報告するため、ミレトス人の略奪者〔海賊〕 テオポムポスをラケダイモンに送ったが、この男は三日目に到着して報告した。

[31]
その後、リュサンドロスは同盟者たちを集めて、捕虜たちについて評議するよう命じた。この時とばかりに、アテナイ人たちに対して多くの告発がなされ、それまでに働いた違法ばかりか、海戦に打ち勝った場合には、生け捕りにされた者たちすべての右手を切り落とすべしとの決議をしたことがあること、あまつさえ、、二艘の三段櫂船――コリントスのとアンドリアのと――を捕捉したことがあったが、そのさい、兵士たちを次々と海にことごとく投げ込んだことがあるということ――ピロクレスがアテナイ人たちの将軍だった時で、この男が彼らを亡き者にしたのである――。

[32]
他にも多くのことが述べられ、捕虜たちのうちアテナイ人たちであるかぎりの者は、殺害すべしと決められた。ただし、アデイマントスは別であった。彼のみは、民会において手の切り捨ての決議に反対したからである。しかしながら、一部の人たちによって、艦隊を裏切ったとして責められる羽目になったのであるが……。さて、リュサンドロスは、ピロクレスに対して先ず質問し、アンドロス人たちやコリントス人たちを海に投げ込んだような男は、ヘラス人たちに違法を働くことを最初に始めたのだから、いかなる目に遭うのがふさわしいかと言ったうえで、その喉をかき切った。
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