アッティス崇拝は初期キリスト教に強い影響を与えた。
アッティスは、紀元前204年に神々の太母であるキュベレーCybeleがプリュギアからローマにもたらされたときに、一緒にやってきた。 2神はバチカン丘の神殿に祀られた。そしてその後600年もそこに祀られた[1]。最初アッティスはキュベレーから引き離され、そして下位の神とされた。その理由は、皇帝アウグストゥスがキュベレーをローマの至高の母神としたからであった。「ローマ人たちは、昔からの伝承に従って、キュベレーをローマ帝国の女神として崇め続けたために、アッティスを寛大に扱ったのである」[2]。
アッティスはキュベレーのこの世の化身である処女神ナナNanaが生んだ息子である。ナナはアーモンド、あるいはザクロ(いずれも女陰の象徴)を食べて、奇跡的にもアッティスを懐胎した。このためアッティスは「父親のいない神」、つまり処女神の息子の典型であった。アッティスは成人すると、人類を救済するために殺されて、供犠のための生贄となり、救世主となった。アッティスの肉体はパンとして崇拝者たちが食べた[3]。しかしアッティスは「宇宙を統ーする最高神」[4]として復活した。アッティスの顕現は「花婿万歳、新しい光万歳」という言葉で告げられた[5]。アッティスは、彼に仕えた聖職者と同様に、去勢され、マツの木に十字架刑にされた。アッティスの聖なる血が流れて、地上の罪をあがなった。
アッティスの受難は3月25日に記念された。それはアッティスが生誕した冬至の祭典日である12月25日のちょうど9か月前の日である。アッティスが死んだ時刻は、また、彼が懐胎された時刻、あるいは再び懐胎された時刻でもあった。アッティスが再びこの世にその姿を現すために母親の胎内に入ったことをしるすために、彼の木-男根が母親の聖なる洞穴に持ち込まれた。処女母神ナナとは実際はキュベレー自身であった。ナナは、シュメール人のイナンナ、カナアン人のマリアンナ、サビーニー人のアンナ・ベレンナ、そして北欧の生贄として死んでいく神バルデルの母ナンナ、であった[6]。
キリスト教徒は、彼らの救世主の懐胎と生誕の日がアッティスの日と同じ日であると主張した。その結果、例によって論争が起こった。そのとき、キリスト教徒は彼らの大好きな論を用いた。つまり、キリスト教が生まれる前に、悪魔がキリスト教精神をまねして、異教の秘儀をこしらえたのだ、というのである。テルトゥリアヌス(155?-220? キリスト教初期の著作者であり神父で、異教徒を両親として、カルタゴに生まれた)は「悪魔の偶像崇拝の秘儀を見ると、それは(キリスト教の)聖なる秘儀の主要な部分をそっくりまねしていることがわかる」[7]、と言った。
アッティス信奉者たちは、結局、アッティスが生贄となった日をキリスト教徒に奪われてしまった。ユスティニアヌスが、 3月25日はお告げの祝日とする、と決定した。したがってお告げの祝日はイエス懐胎の日となり、イエスは、アッティス同様、9か月後の冬至の日に生まれたということになった。そしてすべての神々と同じように、太陽にたとえられ、「世界の光」と呼ばれるようになった[8]。
この3月25日という日はまた、聖処女ユーノーが魔法のユリを食べて救世主たる息子マルスを奇跡的に懐妊した日でもあった。そのためにマルスMarsの名前にちなんで、3月Marchの名づけがなされたのである。そしてまた中世フランスではお告げの日をNotre Dame de Mars (マルスの聖母)と呼んだ。656年トレドで開かれた第四回公会議において、 3月25日は聖母マリアの祝日として、公にキリスト教の教義に組み入れられた。しかし、その象徴には、依然として、異教の女陰 yoniのしるしが残った[9]。プリュギアでマルスに相当する神はサテュロスの1人マルシュアスで、マルスと同じく木に吊され、キュベレーの息子とされた。マルシュアスとアッティスは同一の神であると言われた[10]。
アッティスが死んだ日は「黒い金曜日」、または「血の日」であった。アッティスの像は神殿に運ばれて、木にくくりつけられた。そのとき、再生した男根と新たな豊穣を表すアシの笏を持った「アシ捧持者」が付き添っていた[11]。その儀式の間、入信者たちは去勢されたアッティスにならって、自ら去勢し、雄ウシの供犠において生贄とされて去勢された雄ウシの男根とともに、女神にその切断した男根を捧げた[12]。こうして切断された男根はすべて太母神の聖なる洞穴に置かれた[13]。
アッティスは死んで埋葬された。そして冥界へと降りた。 3日目に彼は生き返った。アッティスを崇拝する人々は、「アッティスは救済された。あなたがたも試練を受けると救済されるであろう」[14]、と告げられた。アッティスが復活したこの日は、陽気に騒ぐ日としてカーニバル(canival=どんちゃん騒ぎ)、あるいはヒラリア(hilaria=陽気なこと)と呼ばれた。人々は町へ繰り出して踊り、変装してねり歩き、ふざけまわって、ひとときの情事にふけった[15]。この日は日曜日であった。アッティスは新しい季節の太陽神として、栄光に輝いて現れた。キリスト教徒たちはアッティスの秘儀に由来する復活祭Easter Sundayを、カーニバルの行列とともに、以後ずっと続けてきた。アッティスは、キリストと同じように、「太陽が初めて昼を夜よりも長くする」日に復活したのである[16]。
3世紀のナアセン派の人たちはアッティスを神々の諸要素が混在している神として崇拝した。彼らの賛歌の1つに次のようなものがある。「アッティスをたたえよう。レアーの息子をたたえよう。とどろきわたる太鼓やアシ笛や、イーデー山のクレースたちの叫びでほめたたえるのではなく、リラをかなでるポイボスのミューズのように旋律をかなでてたたえよう。万歳! 万歳! 彼は牧神パーンだ。彼はバッカスだ。彼は白い星座の羊飼いだ」[17]。
4世紀の碑文ではアッティスにはメノテュラノスMenotyrannusという添え名が付された。ギリシア語tyrannos (神、主)にMenまたはMennuがついてできた添え名である。このMenまたはMennuはウシル〔オシーリス Osiris〕を表す。再生した淫猥な月-雄ウシのウシル〔オシーリス〕、「自分の母を妊娠させる神」ウシル〔オシーリス〕である[18]。
異教徒たちは、ときどき、ヒラリア祭をその聖なる週の最後の日に祝った。つまり4月1日に祝って、「四月馬鹿」、あるいは 「カーニバルの王」、あるいは「愛の王」のカーニバルとした。これらはすべて、本来、アッティスのことを意味した名なのであった。アッティスはまた古代ローマのパリーリア祭(神パレースの祭典)のグリーン・ジョージGreen Georgeと同一視された。そして聖なる木にその像が生贄として吊されて、「復活の月曜日」に礼拝された。 18世紀の人々は、依然として、 3月25日は昔は新年の日であって、 4月1日は聖なる週が終わる「8日目」にあたる、と言った[19]。
グリーン・ジョージGreen George
春の精で、ローマのパリーリア祭の英雄-生贄に由来する。中世およびそれ以降、バルカン諸国では、後は新緑の葉でおおわれた枝を身にまとった若者として表され、象徴的に「生贄として捧げられた」。
キリスト教徒の中には、キリストは4月1日に十字架に揚げられたのであって、そのために、「四月馬鹿の日」の行列に参加する「フール」は、十字架をかついで群衆から嘲笑されるキリストになるのである、と主張する者もいた。しかし春の「聖なる週」は、本当は、キリスト教のものではなかったのである。それははるかな大昔からインド・ヨーロッパに広く伝承されたものが起源となったものであって、おそらくインドのホーリー祭にさかのぼるものであろう。ホーリー祭とは春の再生をどんちゃん騒ぎをして祝った祭りであった[20]。
Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)