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back.gif第13弁論


Lysias弁論集



第14弁論

アルキビアデスに対して






[解説]

 富と出自と弁舌と、ソクラテスにも愛された美貌と才知と……、当時のアテナイ人たちが望んだであろうあらゆる徳を有していたアルキビアデスを抜きにしては、ペロポンネソス戦争期後半の「世界」を語ることはできない。

 彼の母親は、アテナイの名門貴族アルクマイオン家の一員であり、父親はアテナイの富豪エウモルポス一族に属した。BC 446年、父親がコロネイアで戦死したため、母方の叔父ペリクレスの後見のもとに養育された。ソクラテスを始め、当時のアテナイの(ということは、世界の)最高の知性と交わり、その知識・教養を吸収していったが、徳操を身につけた形跡はない。彼の富の規模は、BC 416年のオリュンピア祭に、戦車7台を参加させ、1・2・4位を獲得した事実が雄弁に物語っている。

 先祖代々スパルタの国賓待遇(proxenos)であったにもかかわらず、彼が歴史の舞台に登場するのは、BC 420年、ペロポンネソス半島に反スパルタの共同戦線を張るべく策謀する将軍としてであった。策謀は挫折したが、民主派の政敵ヒュペルボロスをニキアスと手を組んで追放した後、将軍に再選された。メロス人たちが、半年の篭城の後、ついに屈して、成人男子全員が処刑、婦女子は奴隷にされたメロス島の悲劇(BC 416)は、この時の一挿話にすぎない。

 シケリア遠征をめぐってニキアスと対立したが、アテナイ民衆はアルキビアデスを支持した。――ペロポンネソスの後背に位置し、これの生命線ともいうべきシケリア、イタリア、さらにはカルタゴを征服し、ここから軍資金と糧食と傭兵とを入手、さらにはイタリアにふんだんに産する木材を用いて兵船を建造して、もってペロポンネソス全周域を封鎖。陸上部隊をもって諸都市を陸沿いに襲撃すれば、ペロポンネソスも屈服させるは易く、かくしてギリシア全土に号令し得よう。――これは、シケリア遠征の目的を、アルキビアデスが後にスパルタ人に語った言葉である。そこには多分にハッタリがあろうが、彼の構想の大きさを知ることができよう。

 だが、シケリア島に到着後、ヘルメス神像毀損事件に連座したかどで本国に召還されたので、途中で脱走。アテナイは彼の財産を没収、欠席裁判で死刑を宣した〔BC 415〕。亡命したアルキビアデスは、こともあろうにスパルタに投降し、シケリアに救援軍を送ることと、アッティカのデケレイアに要塞を築くことを進言した。これによって、アテナイのシケリア遠征は未曾有の惨敗を喫するとともに、デケレイアの要塞は、以後、最終的な敗戦(BC 404)に至るまで、アテナイの喉元に短剣をつきつけた等しい結果を招いた。

 さらに、スパルタのためにペルシアとの合意を取りつけるべく、ペルシアのリュディア太守ティッサペルネスのもとに赴いたが、ギリシアのいずれの国にも全面的勝利を許さないのがペルシアの国益にかなうと進言し、ティッサペルネスの信頼を獲得した。その一方で、故国アテナイへの凱旋を画策し、ペルシアとアテナイとの仲介を餌に、「四百人」政権を樹立しようとしていた寡頭派と接触した〔BC 411〕。しかし、ティッサペルネスがスパルタとの同盟を支持しているのを見て、今度は、サモス島に拠って「四百人」政権に対抗する民主派に接近した。そして、サモス島民主派の領袖トゥラシュブウロスの斡旋で将軍に選ばれ、キュジコスでスパルタ艦隊を撃破した(BC 410)。これを土産に、彼は故国アテナイの土を踏んだ。

 しかし、BC 407年、小キュロスが西小アジアの太守となるに及んで、小キュロスはスパルタ提督リュサンドロスに積極的な財政援助を行った。これに対して、アテナイは窮乏していた。アルキビアデスが海兵たちの給料と食料の調達に奔走している留守に、彼の命令を無視した一艦隊がエペソス沖で海戦に及び、敗北した。それは小さな事件にすぎなかったが、〃アルキビアデスに出来ぬことはない。もしあるとすれば、それは彼にやる気がないからだ〃と信じていたアテナイ人たちは、彼を将軍職から罷免してしまった。アルキビアデスは弾劾を恐れて、ケルネソスにある自分の所領に隠退した。

 BC 405年、アテナイの艦隊はヘレスポントスにあるアイゴス・ポタモイに結集し、リュサンドロス率いるスパルタ海軍と対峙していた。これを見たアルキビアデスは、布陣の仕方について忠告したが、将軍たちは聞き入れなかった。そのため、アテナイ艦隊は壊滅し、これが、翌BC 404年の無条件降伏の直接の契機となった。

 降伏後もなお、アテナイ人たちはアルキビアデスの潜在力に期待を寄せていた。彼に敵意をいだく者たちもまたそれを恐れていた。「三十人」僣主の領袖クリティアスは、アルキビアデス抹殺をリュサンドロスに依頼し、スパルタ本国もまた暗殺指令を出していたと言われる。この時、アルキビアデスは、ティッサペルネスと対立的な立場にあったプリュギア太守パルナバゾスのもとに身を寄せていたが、リュサンドロスの依頼を受けたパルナバゾスの手の者によって、遊女のティマンドラと寝ているところを襲われ、殺害された(BC 404)。その最後の様子を、プルタルコスの「アルキビアデス伝」は、次のように伝えている。――

 刺客の一団は、家に踏みこむ勇気もなく、ただ周りを取り囲んで火を放った。そして、炎の中から跳び出してきた彼を迎え討つ勇気もなく、遠巻きにしたまま、槍と矢の雨を注ぐばかりだった。ペルシアの刺客たちが去った後、ティマンドラはアルキビアデスの屍を抱き起こし、自分の上衣でくるみこみ、手持ちの金をはたいて、麗々しくこれを葬った。このディマンドラは、シケリアの地から捕虜として連れて来られていた女だったという。

 このアルキビアデスの息子は、父親と同名であった。ヘルメス神像毀損事件によって父親が亡命した時(BC 415)、まだ4歳にも満たなかったという〔 イソクラテス「一揃いの〔戦車用〕競走馬について」45〕。しかし、徳操の無さを別にすれば、美貌はもとより、富も才知も父親と比べるべくもなかった。あの高名な弁論家イソクラテスでさえもが、彼が別の訴訟沙汰で被告になった時、彼の弁護に立ったが、彼の性格の長所について、何か語るに足るほどのものを見つけだすことが何もできなかったほどである。

 その小アルキビアデスが、再び裁きの庭に引きずり出された。原告はアルケストラティデスという人物である。告訴事由は不明である。しかし、これには二つの追加告発が用意されていた。それが、第14弁論と、第15弁論である。しかし、この二つの弁論が、同じ一つの軍事犯罪容疑を取り上げたものであることは、一読して明らかである。

 アテナイの法制においては、軍事犯罪に対して特定の処罰法規が存在したと考えられる。処罰の対象となる軍事犯罪は、次の三つである。――

(1)軍務忌避(astrateia)
(2)戦線離脱(lipotaxion)
(3)戦場における怯懦(deilia)

 BC 395年、ボイオティアの救援依頼によって、アテナイ軍がハリアルトスに出陣したおり、小アルキビアデスは、重装歩兵に登録されたにもかかわらず、そして、騎兵の資格審査を受けていないにもかかわらず、騎兵として勤務した。これは軍務忌避であり、持ち場を放棄した戦線離脱であり、さらには、重装歩兵よりも安全な騎兵を選んだゆえに、怯懦にあたる、と告発者は主張するのである。

 馬と騎馬斥候と、騎兵に付属して闘う歩兵の審査は評議会が直接に行ったが、騎兵の登録は次のような手続きを踏んだ。――先ず、民会で十人の登録官(katalogeis)が挙手によって選出され、この登録官が新たに騎兵となる者を登録する。この登録簿を、騎兵長官(hipparchos)と部族騎兵指揮官(phylarchoi)とが受け取って、評議会に提出する。評議会は、現役騎兵の名簿から、身体の具合で騎兵たりえぬと誓う者を削除し、新たに登録された者を招集する。そして、健康上あるいは資力の点で騎兵たりえぬと誓う者があれば、これを免除し、それ以外の者は、騎兵たるに適当か否かを評議員の挙手採決で決定する。合格した者は木版に登録し、そうでない者は免除する。この木版は封印され、次の登録の時まで保管される。(『アテナイ人の国制』第49章)

 小アルキビアデスは、この手続きを踏んでいないというのである。もちろん、将軍や政府高官が一役買わないかぎり、不可能な芸当であるが、アルキビアデスの人望は、父亡き後もなお、その出来の悪い息子でもかばってやりたいと彼らに思わせるほどの威力を持っていたのである。


 book.gif参考: イソクラテス第16弁論「一揃いの〔戦車用〕競走馬について」
 
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