女たちの勇徳
Plutarchus : Aetia Graeca [Sp.] 291d-304f
底本は、THESAURUS LINGUAE GRAECAE CD-ROM #D
〔設問1〕「エピダウロス*のコニポデス(konipodes)およびアルテュノイ(artynoi)とは何者か?」
政事に〔従事していた〕のは180人であった。そして、この中から評議員を選ぶことになっていたが、これをアルテュノイ(「統治者たち」)と呼んだ。他方、民衆の大部分は、通常、地方で暮らしていた。そして彼らはコニポデス(「汚れ足」)と呼ばれていたのであるが、それは、推測可能なとおり、都市に降りてくるたびに、埃まみれの足によって識別されたからである。
*ソロニカ湾、アルゴリス東端の都市。12Km内陸部にアスクレピオスの礼拝所がある。
〔設問2〕「キュメー人たちのところのオノバティス(onobatis)とは何者か?」
女たちの中で、姦通の罪で捕らえられた女を、彼らは市場に引き立てて行き、誰にでもよく見えるように、所定の石の上に立たせることになっていた。それからさらに、驢馬に乗せ、彼女は町をぐるりと引き回されたうえ、もう一度同じ石の上に立たねばならなかった、そうして、余生を不名誉なものとして過ごさねばならなかったのである、オノバティス(「驢馬乗り女」)と命名されて。このことからその石を彼らは不浄とみなしていたので、お祓いをするを常とした。
さらに、彼らのところには番人(phylaktes)という一種の役職があった。この役を受け持った者は、たいていの場合は牢獄の監視にあたったが、夜会評議会があるときには、これに出席し、〔〕王たちの手を引いて連れ出し、彼ら〔王たち〕に対して評議会が、〔王たちが〕不正であるか否か、秘密裏の票決によって判決を下すまで、監禁することになっていた。
〔設問3〕「ソロイ*人たちのところのヒュペッカウストリア(hypekkaustria)とは何者か?」
アテナの女神官をそういうふうに彼らが呼ぶのは、ある種の供犠や聖餐を厄祓いとして彼女が執り行うからである。
*キリキアの海港都市、ピュラモス河口の西。
〔設問4〕「クニドスのアムネーモネス(amnemones)とは何者か、また、アペステール(aphester)とは何者か?」
最善者〔=貴族〕階級から選抜された60人を、彼らは、終身、監督官のようなものとして、つまり、最重要案件の先議委員として登用した。そして、この者たちが「アムネーモネス(「忘れられた人々」)」と呼ばれた所以は、想像できるところでは、執務審査を受けないからであろう、――神かけて、博覧強記の人たちという意味でないかぎりはであるが。そして、〔この人たちに〕議案を尋ねる人が「アペステル(「解散権所持者」=「議長」)」である。
〔設問5〕「アルカディア人たちやラケダイモン人たちのところのクレーストイ(chrestoi)とは何者か?」
ラケダイモン人たちがテゲア*人たちと和解して、条約を締結し、共同の標柱をアルペイオス河畔に建てたが、その中に、他の事項といっしょに、「メッセニア人たちを領土から放逐すること、ただし、クレーストイ(「冥福者」)となすことは認めず」ということが記載されていた。そこで、これをアリストテレスは説明して〔断片592〕、殺害するを得ずの意で、意図するところは、テゲア人たちの中にいるラコニア親派を助けるためだと主張している。
*アルカディア南東の都市。
〔設問6〕「オプウス人たちのところのクリトロゴス(krithologos)とは何者か?」
ヘラス人たちの大多数は、太古からの供犠に大麦を使ったが、〔これは〕市民たちが新穂に捧げたものである。そこで、供犠のときの役人、つまり、その新穂を運ぶ人のことを、クリトロゴス(「大麦集め」)と彼らは名づけた。彼らのところでは、神官は二人であって、ひとりは神の供犠に、もうひとりは精霊の供犠に配された。
〔設問7〕「浮動雲(ploiades nephelai)とは何か?」
きわめて雨もよいの循環する雲を浮動(雲)と呼ぶならわしであったとは、テオプラストスが『気象について』第4巻に述べているところである。そのくだりは次のとおりである、「この浮動雲も密雲も、不動にして色は純白であるから、雨を含んでもおらず霧になるのでもないから、実質的にかなり異なることを明らかにしている」。
〔設問8〕「ボイオーティア人たちのところのプラテュカイタス(platychaitas)とは何者か?」
家の隣の人たちや地所を接する人たちのことをアイオリア方言でそういうふうに呼ぶが、それは、隣のものを持っている人たちの意である。法の番人の法習から、ひとつの条文――もっとたくさんあるのだが――を援用しよう……。
〔設問9〕「デルポイ人たちのところのホシオテール(hosioter)とは何者か、また、月のひとつを彼らがビュシオス(Bysios)月と呼ぶのはなぜか?」
ホシオテール(「聖者」)と彼らが呼ぶのは供犠に捧げられる生け贄のことで、聖なる者(hosios)として宣明された場合に〔そう呼ばれる〕。聖なる者は終身の5人で、この者たちは〔神託の〕解釈者たちといっしょになって多くの事に当たるとともに、またいっしょに犠牲祭を執行する。デウカリオーン*の血筋を引くと思われているからである。
*人類が大洪水で滅びたとき、彼だけはプロメーテウスの忠告で、箱船に乗って助かり、後の人類の祖となる。
また、「ビュシオス」月とは、多くの人たちは「physios(「芽生え」月)」の意だと信じている。なぜなら、春が始まり、この時期に多くのものが芽生え、花開くから、と。だが、真実はそうではない。というのは、φの代わりにβをデルポイ人たちが用いることはないからである。なるほど、マケドニア人たちは「Bilippon」とか「balakron」とか「Beroniken」という言い方をするけれども、しかしそれはπの代用であって〔φの代用ではない〕。というのも、pateinをbatein、pikronをbikronと、彼らは法則どおりに呼ぶからである。だから、「bysios」はpysiosであって、この月に彼らはお伺いを立て、その神〔アポロン〕のお告げをいただく。それがその意味するところであり、父祖伝来のしきたりである。すなわち、この月に託宣が行われ、その第7日目がこの神の誕生日だと彼らは信じていて、polyphthoonと彼らが名づけるのは、phthois(菓子)が焼き上げられるからではなく、お伺いが多く(polypeute)、お告げが多い(polymanteuton)からである。すなわち、月ごとに占いが下されるようになったのは後世のことで、昔は、ピュティア*が託宣したのは一年のこの日だけであったと、これはカッリステネス〔オリュントス出身、アリストテレスの親戚。アレクサンドロス大王の随行史家。前327没。Fr. Gr. Hist. 124 F. 49〕とアナクサンドリデースが記録しているところである。
*デルポイの神託所の巫女。
〔設問10〕「ピュクシメーロン(phyximelon)とは何か?」
小さくて地を這う植物の一種で、これの芽を家畜が襲い、摘み取り、傷めつけ、その生長を台無しにする。が、ぐんぐん延びてある程度大きくなり、草食動物の害を逃れると、それが「羊逃れphyximela(phyximelonの複数形)」と呼ばれる。典拠はアイスキュロスである〔断片447〕。
〔設問11〕「アポスペンドネートイ(aposphendonetoi)とは何者か?」
エレトリア*人たちはケルキュラ島〔イオニア海に浮かぶ島、コルキュラ島とも言う。〕に居住していた。ところが、カリクラテースがコリントスから軍勢を引き具して出航して、戦争で征服したので、エレトリア人たちは艦船に乗り組んで家郷へ帰航した。ところが〔家郷の〕市民たちがそれと予知して、彼らを領地から閉め出そうとし、投石具攻撃によって下船を妨害した。そのため、〔相手は〕数も多く情け容赦のない連中だったので、説得することも強行突破することも出来ず、トラケー方面に航行して、土地――昔、オルペウスの先祖のメトーンが住んだと記録されている――を占領し、その都市をメトーネーと名づけたが、先住民たちからは「アポスペンドネートイ(「投石具で排撃されし者たち」)」と添え名されたのである。
*エウボイア島のエウリポスの南東の都市。
〔設問12〕「デルポイ人たちのところのカリラ(Charila)とは何者か?」
デルポイ人たちは9年周期の三つの祭礼を順次執り行っているが、その中のひとつを彼らはセプテーリオンと呼び、もうひとつをヘーローイス、もうひとつをカリラと〔呼んでいる〕。
まず、セプテーリオンは、ピュトーに対するその神〔アポロン〕の戦いと、その戦いのあとの、テムペーへの逃走と追跡の模倣であるらしい。というのは、逃亡したのは〔アポロンで〕、殺人のとがでお祓いを必要としたからだとある人たちは主張し、またある人たちは、ピュトーが傷を負って道――現在われわれが聖道と呼んでいる――を逃げるのを、〔アポロンが〕後をつけたが、その命終にはもう少しのところで間に合わなかった、という。というのは、彼がそれ〔ピュトー〕をつかまえたのは、傷が原因でたった今死んだばかりで、その子どもによって供養されているところだった、そしてその子の名前はアイクスだったと、そう言われているからである。つまり、セプテーリオンとは、以上のこと、あるいは、何か別の以上のようなことの模倣なのである。
次に、ヘーローイスの大部分は、テュイアスたち〔複数はThyiades〕がよく知っている秘儀的伝説を有しているけれども、祭事から判断するに、明らかに、セメレーの勧請であると想像できよう。
また、カリラについては、何か次のような神話が語られている。――旱魃のせいで飢饉がデルポイ人たちに降りかかり、〔デルポイ人たちは〕生子や婦女を連れて王の門前に出向いて嘆願した。そこで王は大麦と豆を、彼らの中のよく知っている者たちに分け与えた。全員に〔与えるには〕充分でなかったのである。すると、まだ小さな、両親のいない孤児の女の子がやって来て、うるさく強請んだので、彼〔=王〕は履き物で彼女を打擲し、顔めがけて履き物を投げつけた。すると彼女は、かなりの赤貧で〔保護者のいない〕独り身であったけれども、その性格は卑しくはなかったので、道をあけて、帯(zone)を解いて、みずから縊れはてた。やがて飢饉は広がり、疫病さえも加わったとき、ピュティアは王に、自殺した乙女カリラを宥めるよう託宣した。そこで、やっとのことで、それはあの打擲された女の子の名前だということがわかったので、お祓いをふくんだ一種の供犠を彼らは厳修したのであるが、これを今に至るもなお9年後ごとに執り行い続けているのである。すなわち、王は、大麦と豆を、外国人たちであれ市民たちであれ、全員にふるまいながら首座につく一方、カリラという子どもの像が運ばれてくる。そこで、全員が〔ふるまいを〕受けると、王は履き物でその像を打擲するが、テュイアスたちの指導者が持ち上げて、とある岩の割れ目の場所に運び、そしてそこで、縄を像の首に巻きつけたうえ埋める――カリラが縊死したとき埋葬した場所にである。
〔設問13〕「アイニアン人たちのところのプトーキコン・クレアス(ptochikon kreas)とは何か?」
アイニアン人たちの移住は何度も起こった。すなわち、まず初めはドーティオン平野のあたりに住んでいたが、ラピタイ人たち*1によってアイティキア方面に追い払われた。そこからアラウウア河流域のモロッシアの領土を占領し、これによってパラウウアイ人たちと名づけられるにいたった。その後、キッラ*2を占拠した。〔〕しかしキッラでは、神の命により、王オイノクロスを石打の刑にした後、イナコス河流域の、イナキア人たちやアカイア人たちの居住していた領地を占拠した。ところが、託宣があって、それは、この土地を分け与えた者たちは、全領土を失い、すすんで〔与える〕者から受け取った者たちは、それを獲得するであろうというものであったが、このとき、アイニアン人たちの中で名の知れたテモーンという人物が、襤褸と頭陀袋を身につけて、乞食のような格好をしてイナキア人たちのもとに赴いた。すると、高ぶりから、さらには嘲笑せんとして、王は彼に土塊をくれてやったところ、受け取って頭陀袋に納め、明らかにその贈り物を喜んでいるふうであった。というのは、何をせがむでもなくすぐに立ち去ったからである。これに長老たちが驚き、神託のことを思い出して、王のもとに赴いて、蔑ろにしてはいけないこと、ましてかの人物を行かせてはならぬと進言した。ところがテモーンは彼らのたくらみを察知して心急いて逃走し、アポロン神に祈って牡牛100頭の生け贄を誓って逃げおおせた。
*1 ラピテース族。テッサリアの山岳地帯に、先住民族ペラスゴイを追い払って住んでいた。
*2 ポーキスのクリサ湾岸、デルポイの停泊所。
こういう次第で、王たちは一騎打ちをしたのであるが、アイニアン人たちの王ペーミオスは、イナキア人たちの王ヒュペロコスが犬を連れて自分の方へ前進してくるのを目にして、第二の戦闘者を助っ人にするとは、やり方が義しくないと主張し、そこでヒュペロコスが犬を追い払って向き直ったとき、ペーミオスが石を投げつけて抹殺した。かくして彼らはその領地を所有し、イナキア人たちをアカイア人たちもろとも追い出し、くだんの石は聖なる石として崇め、これに供犠し、犠牲獣の脂身で包み込むのである。また、アポロンに牡牛100頭の犠牲を捧げるたびに、ゼウスに牡牛を生け贄にし、選び抜かれた部分をテモーンの子孫に切り分け、これをプトーキコン・クレアス(「乞食の肉」)というあだ名で呼ぶのである。
〔設問14〕「イタケー人たちのところのコリアダイ(Koliadai)とは何者か、また、パギロス(phagilos)とは何のことか?」
求婚者殺戮〔『オデュッセイア』第22巻〕の後、殺された者たちの親類はオデュッセウスと反目したが、仲裁者として両派に呼び寄せられたネオプトレモスは、オデュッセウスには、移住して、血の汚れゆえにケパレニア、ザキュントス、イタケーを避けるよう、また求婚者たちの仲間と家の者たちには、オデュッセウスの家に不正を働いたことの償いを毎年彼に納めるという裁定を下した。そこで彼〔オデュッセウス〕はイタリアに移り住んだ。他方、償いの方は、〔オデュッセウスは〕息子に捧げることで納めるようイタケー人たちに命じたのである。で、〔その償いの品は〕大麦粉、ぶどう酒、蜂巣、オリーブ油、犠牲獣として「パギロス」より年長のもの、であった。「パギロス」とは羊のことであると、アリストテレースが述べている〔断片507〕。ところで、エウマイオスの一統をテーレマコスは自由人として同市民たちに融合させたが、コリアダイ(「家畜番」)の一族とはエウマイオス*1の血を引く者であり、ブウコリダイ(「牛番」)のそれはピロイティオス*2の血を引く者である。
*1 オデュッセウスの豚飼。
*2 オデュッセウスの牛飼。
〔設問15〕「ロクロイ人たちのところの犬たちの木(xyline kyon)とは何か?」
〔デウカリオーンとピュラーの第二子〕アムピクテュオーンの子ピュスキオス〔=ピュスコス〕の息子がロクロスであった。この〔ロクロス〕と〔エーリス王オプースの娘〕カビュエーとから生まれたのがオプウスである。この〔オプウス〕に対してその父は仲違いし、おびただしい市民を引き具して植民について占ってもらった。するとその神は、いずこなりと、たまたま犬の木に噛みつかれしところに国を樹立すべしとお告げになり、別の海に渡ったとき、犬の棘(kynosbatos)*を踏みつけた。そしてその傷に苦しめられて、その場所で何日も過ごしたが、その間にこの地方を調査し、ピュスケース、ヒュアンテイア、その他――オゾライ・ロクロイ人と呼ばれる人たちが居住しているかぎりの諸都市を樹立したのである。
*学名Rosa sempervirens。英語はwhite rose。常緑の低木。「低木と高木の中間のもので、柘榴のような赤い実をつける」(テオプラストス『植物誌』第3巻8-4)。アテナイオス『食卓の賢人たち』70c-d参照。
ところで、ロクロイ人たちがオゾライと呼ばれるのは、ある人たちによればネッソスのせいだと言い、またある人たちは、ピュトーのせいであって、それらが海によって打ち上げられて、ロクロイ人たちの地で腐敗したからだという。さらには、羊皮や山羊皮をこの人間どもは身につけ、たいていは山羊群と交わっているので悪臭紛々だと〔言う〕人たちもいる。が、正反対に、この地は花に満ちていて、その芳香にちなんでその名をつけたと〔言う〕人たちもいる。アムピッサ*のアルキュタスもそのひとりである。すなわち、彼は次のように書いている。
葡萄冠せし、かぐわしき、恋しきマキュナよ。
*デルポイの西北西、オゾライ・ロクロイの首邑。
〔設問16〕「メガラ人たちの言うアパブローマ(aphabroma)とは何か?」
ニソス――ニサイアは彼にちなんで命名された――が王支配していたとき、ボイオーティア出身のアブローテーを娶った。彼女はオンケーストスの娘であるが、メガリスの妹でもあり、どうやら、知慮深さにおいて秀逸であったとともに、慎み深さにおいても飛び抜けていた女性であったらしい。だから、彼女が死んだとき、メガラ人たちは心から哀悼し、ニソスも、彼女の永遠の記念と名声を不動のものとしたいと望み、女性市民たちに、彼女がいつも着用していた衣服を着用するよう命じ、その衣裳を彼女にちなんでアパブローマ(「アブローテーにちなんで」の意)と名づけた。そして、この女性の名声には神も援助したように思える。というのは、この着衣を変えようとメガラ女たちはしばしば望んだけれども、神託によってこれを妨げたからである。
〔設問17〕「ドリュクセノス(doryxenos)とは何者か?」
昔、メガリスは、市民たちが5群に分割されていたので、村々に分かれて住んでいた。つまり、ヘーラエイス民、ピラエイス民、メガレイス民、キュノスウレイス民、トリポディスキオイ民がそれである。ところが、コリントス人たちは(メガリスの地を自分たちに臣従させんものといつも画策していたので)彼らに対してお互いどうしの戦争を仕掛けてきた、とはいえ、その戦いぶりたるや、適正さゆえに穏やかで同族的なものであった。すなわち、畑仕事をしている相手に不正を働く者は誰ひとりおらず、捕らえられた者たちは、所定の身代金のようなものを支払えばよかった、それも、彼らは解放した後で受け取った。つまり、前もって徴収するのではなく、槍の穂先にかかった者の身代金を受け取ろうとする者は、自分の家へ案内し、塩と食卓を分かち与えた上で家郷へ送り返した。だから、身代金を払った者は称讃され、以後ずっと、受け取った者の友人として過ごす、長柄に掛けた者からドリュクセノス(「長柄の客友」)と呼ばれてである。これに反し、踏み倒した者は、敵国人からはもとより、同市民たちからも不正・不実な者と思われたのである。
〔設問18〕「パリントキア(palintokia)とは何か?」
メガラ人たちは僭主のテアゲネースを追い出して、しばらくの間、分別を持って国制にたずさわっていた。その後、民衆指導者たちが、プラトンの言を借りれば、多くの生粋の自由を〔『国家』562d〕彼らに浴びせかけて完全に堕落させ、富裕階級に対して他の点でも常軌を逸したふるまいに及んだばかりか、貧乏人たちが彼らの館に押し掛け、宴楽とぜいたくな食事を所望するようになった。そして、もしもそれに与れない場合は、全員に強制力と暴行とを適用するのだった。かくして、ついには条例を制定して、以前にたまたま支払ったことのある利子を、貸し主たちから返却してもらうことにした、成立した条例をパリントキア(「利子返却令」)と呼んでである。
〔設問19〕「アンテードーン――ピュティアスが、「澱のある酒を飲むべし、汝はアンテードーンに住さざればなり」と言った――そのアンテードーンとは何か(そもそも、ボイオーティア人たちのアンテードーンは葡萄酒が豊かでないのか)?」
昔、カラウレイア島*を彼らがエイレーネーと名づけたのは、エイレーネーという女性にちなんでである。彼女はポセイドーンと、アルペイオスの娘メランテイアとの間に生まれたと神話されている。しかし後に、アントスとヒュペレーの一統がここに定住したとき、この島をアンテードニアとかヒュペレイアと呼んだ。ところで、その神託は次のような内容だったと、アリストテレースは主張している。
「澱のある酒を飲むべし、汝はアンテードーンに住さず
聖なるヒュペラにも住さざればなり。かしこにては澱なき酒を汝は飲みしゆえに」
これはアリストテレースの主張である〔断片597〕。しかしムナシゲイトーンは主張する〔FHG III p.158〕――アントスはヒュペレーの兄であったが、まだ幼少のときに行方不明になった。そこでヒュペレーが彼を捜してさまよい、ペライのアカストスのところにたどりついた、そこでたまたまアントスは酌を仰せつかって隷従していた。さて、宴会になったとき、僕童がその兄に盃を差し出しているときに認知して、彼に向かって静かに言った。
「澱のある酒を飲むべし、汝はアンテードーンに住さざればなり」と。
〔参考〕アテナイオス『食卓の賢人たち』31b-c。アリストテレスが『トロイゼンの国制』で述べているように、トロイゼンにはアンテドニアス、ヒュペイアスと呼ばれる葡萄があって……。
*アルゴリスの東岸、アイギナ島の南の小島。
〔設問20〕「プリエーネーで言われる〔オークの〕木の影とは何か?」
サモス人たちとプリエーネー人たちとはお互いに戦争し、〔〕他の場合には程々に損害を与えたり与えられたりしたのだが、大きな戦いが起こり、サモス人たちの1000人をプリエーネー人たちが殺害したことがあった。その後の第7年目に、彼らはドリュス〔オークの木〕と呼ばれる地でミレートス人たちに突撃をかけ、同市民たちの最善者たちや第一人者たちのほとんどを失った。賢者ビアス*もプリエーネーからサモスに使節となって行って、好評を博したのは、この時であった。しかしプリエーネー人たちの女たちにとって、この受難は悲惨で、災禍は憐れむべきものであったので、〔オークの〕木の影(ho para dryi skotos)が最重要事の呪詛や誓言として確立したのである。自分たちの子どもたちや父親たちや夫たちがその地で殺されたからである。〔アリストテレース断片576Rose編参照〕
*イオニアの政治家、前6世紀。プリエネの人で、七賢人の一人。イオニアとリュディアとの間の交渉で頭角を現す。ペルシアに征服された後、「一団となって」移住し、サルディニア島に新しい自由な都市を建設しようとイオニア人に提案した。最も有名な言葉は、「大部分の人間は悪人である」。
〔設問21〕「クレーテー人たちの間で言われるカタカウタイ〔katakautesの複数形。〕とは何者か?」
言い伝えによれば、テュレーノイ人たちは、レームノス島やイムブロス島に定住していた当時、アテナイ人たちの娘たちや妻たちをブラウロンから掠奪し、その後、放逐されてラコーニアの地にたどりついて、彼らと地元の女たちとの交わりは子どもたちを成すまでになったという。しかし、猜疑と誹謗を受けて、またもややむを得ずラコーニアの地を後にして、子どもたちや女たちを連れてクレーテー島に乗り込んだ。ポッリスやデルポスを嚮導者としてである。そしてその地で、クレーテーを占領していた連中と戦争をしたが、その戦闘において戦死した者たちの多くが埋葬されぬままなのを座視していたという。それは、初めは戦争と危険のために暇がなかったからであり、後には、時間がたって屍体が崩れ、融けだしてしまったため、これに触れるのを避けたからである。そこでポッリスは、ある種の栄誉や特権や免除を思いつき、これのあるものを神々の聖職者たちに、他を、亡くなった者たちの埋葬者に授けることにし、しかもこれの起こりを地下の精霊たちに帰して、彼らが〔その特権を〕いつまでも奪われることのないようにした。かくして、前者を神官、後者をカタカウタイ(「火をつける者たち」)と名づけたという。
その後、デルポスと籤で分割し、彼らは別々に為政して、その他の人道的なことともども、諸々の不正事――他のクレーテー人たちなら、お互いにこっそりと連れ去ったり運び去ったりして、体験するのが常であるような不正事――からも免れた。すなわち、彼らは何ひとつ不正せず、まして何も盗むこともなく、奪い取ることもなかったというのである。
〔設問22〕「カルキス人たちのところの子どもたちの墓(ho paidon taphos)とは何か?」
クスウトスの子どものコトスとアイクロスとがエウボイアに居住するためにやってきたのは、アイオリス人たちが島の大部分を押さえていたときであった。しかしコトスには、この領地を買収すれば、うまくゆき、敵国人たちを凌ぐことがきようという予言があった。そこで少数の者を引き具して上陸し、たまたま海岸で遊んでいる子どもたちと出くわした。そこで彼らといっしょに遊び、親愛の情からたくさんの異国の玩具を示した。すると、子どもたちが〔それを〕手に入れたいと熱望しているのを目にしたとき、彼らから土をもらわないかぎり、他の仕方では与えることを拒否した。すると子どもたちは、そのとおり地面からつかみ取って与え、玩具を受け取ると立ち去っていった。しかしアイオリス人たちは何が起こったかを察知し、敵国人たちが自分たちのところに乗り込んできたとき、怒りと苦痛とからその子どもたちを惨殺した。それでも、町からエウリポスへ通じる道のそばに埋葬し、この場所が子どもたちの墓と呼ばれているのである。
〔設問23〕「アルゴスの混然一体の始祖(mixarchagetas)とは何者か、また、エラシオイ(elasioi)とは何者か?」
カストールのことを彼らは混然一体の始祖と呼び、〔カストールは〕彼らのところで埋葬されたと彼らは信じている。一方、ポリュデウケースの方は、オリュムポスの神々の一人として彼らは崇拝している。また、てんかんの発作を逸らせることで評判の高い人たちをエラシオイ(「退散させる人たち」)と名づけているが、その者たちはアムピアラオスの娘アレクシダの子孫と思われている。
〔設問24〕「アルゴス人たちの間で言われるエンクニスマ(enknisma)とは何か?」
誰か同族か知己の一人を亡くした人たちにとって、その弔いの後すぐアポロンに供犠し、さらに30日後にはヘルメスに〔供犠するの〕がならわしである。なぜなら、死者たちの身体を大地が受け取るのと同様、魂たちをヘルメスが〔受け取る〕と彼らは信じているからである。〔〕また、アポロンの祭司に大麦粉を与え、犠牲の肉を受け取り、この肉を炙る――その火を〔途中で〕消した場合には、縁起が悪いとして、別の〔炉〕から点火して――〔この肉を〕エンクニスマ(「屑肉」?)と彼らは命名している。
〔設問25〕「アラストール(arastor)、アリテーリオス(aliterios)、パラムナイオス(palamnaios)とは何者か?」
むろん、アリテーリオスと呼ばれる人たちとは、飢饉(lomos)の際に粉ひき(alon)を狙ったり(tereo)略奪したり(diarpazo)する連中のことだと言う人たちを信ずる必要はない。むしろ、アラストールと呼ばれたのは、忘れられないこと(alesta)、すなわち、いつまでも記憶されるようなことをしでかした者のことであり、アリテーリオスとは、〔相手が〕邪悪(mochtheria)なために、遠ざかって(aleuo)自衛するのが美しいような相手のことである。〔……〕このことを、ソークラテースの主張〔FHG IV p.498〕では、彼らは青銅の書版の中に記載していたという。
〔設問26〕「牛をカッシオパイアからアイノスまで男たちが牽いて行くときに、国境まで乙女たちが付き添いながら、
おまえは祖国の愛しき地に決して帰りませんように
と歌うのは、いかなる考えによるのか?」
アイニアン人たちはラピタイ人たちに追われて、まず最初にアイタキア近辺に住み、次いでモロッシスとカッシオパイアあたりに〔住んだ〕。しかしその地からは何ら有用なものを得ることがなかったばかりか、難儀な近隣住民に悩まされたので、キッラ平野にやってきた。王オイノクロスが彼らを導いたのである。ところが、その地で大きな旱魃に見舞われたので、伝えられるところでは、神託によってオイノクロスを石打にし、ふたたび放浪して、この地――彼らが現在領有している、善くて実り豊かな――にたどりついた。ここからして、当然ながら、彼らは神々に祈るのである――昔の祖国に立ち返りませんように、ここで幸せに留まれますように、と。
〔設問27〕「いったいどうして、ロドス人たちのところでは、オクリディオーンの英雄廟に伝令使が入ることはないのか?」
もしかして、オキモスが娘のキュディッペーをオクリディオーンに娶せたからなのか? つまり、オキモスの兄弟であるケルカポスが、その娘に恋をして、伝令使を説得して(というのは、伝令使を介して花嫁をもらい受けるのが習慣だったので)、キュディッペーを受け取ったら、自分のところに連れてくるようにさせたのである。そしてそのことが実行され、ケルカポスはその処女を連れて出奔し、後になって、オキモスが年老いてから舞い戻ってきた。しかし、ロドス人たちの伝令使は、出来した不正が原因で、オクリディオーンの英雄廟に近づいてはならないという習慣ができあがったのである。
〔設問28〕「いったいどうして、テネドス人たちのところでは、テネースの神殿に横笛吹きは入ることを許されず、神殿の中ではアキッレウスの話をすることさえも〔許されないのか〕?」
もしかして、継母がテネースのことを、自分と交情しようとしているといって中傷したとき、横笛吹きのモルポスが彼のことで偽りの証言をし、それが原因でテネースは妹を伴ってテネドスに逃亡する羽目になったからなのか? さらに、言い伝えでは、アキッレウスの母テティスが、アポッロンに罰せられるからと、テネースを抹殺することのないよう強く諫止し、家僕の一人に下命して、アキッレウスがうっかりしてテネースを殺害することのないよう注意し、思い起こさせるようにさせた。しかし、〔アキッレウスが〕テネドスを襲い、テネースの妹――美しかった――を追いかけたとき、テネースも立ち向かい、妹の前に立ちはだかって守ろうとし、妹は逃れ去ったが、テネースは殺された。かくしてアキッレウスは、斃れたのが誰か知って、家僕を殺した。そばにいながら、思い起こさせなかったからである。他方、テネースを、〔アキッレウスは〕現在神殿がある場所に埋葬したが、〔この神殿には〕横笛吹きが入ることもなく、アキッレウスが名指しされるこももないのである。
〔設問29〕「エピダムノス人たちのところのポーレーテース(poletes)とは何者か?」
エピダムノス人たちはイッリュリア人たちと隣り合っているので、彼らと混然一体となっては市民が堕落すると感じ、また、変革を恐れて、そういった契約や交換目的に、毎年、自分たちのところで資格審査に通った者の中から一人を選任した。この人物は異邦人たちのもとに通い、同市民たち全員に市場と販売の場を提供したが、彼がポーレーテース(「売却官」)と命名されていたのである。
〔設問30〕「トラキアのアラウウ浜(Araou akte)とは何か?」
アンドロス人たちとカルキス人たちとは、住むためにトラキアに航行し、サネーという都市を、〔相手の内部の〕裏切りによって共同で手に入れる一方、アカントスを異邦人たちが放棄したと伝え聞き、斥候二人を派遣した。そこで、彼らがその都市に近づいてみると、敵国人たちは完全に逃げ去っているのを察知したので、カルキスの〔斥候〕はカルキス人たちのためにその都市を占拠しようとして先に駆け出し、アンドロスの〔斥候〕の方は、追いつけないので長柄を投げたところ、一投にして門扉に突き刺さったので、アンドロスの子どもたちのために槍の穂先でこの都市を先に占拠したと言い放った。こういう次第で、仲違いが起こったが、戦争によらず、エリュトライ人たち、サモス人たち、パロス人たちを、万事についての裁定者として起用することになった。かくて、エリュトライ人たちとサモス人たちはアンドロス人たちに票を投じたが、パロス人たちはカルキス人たちに〔票を投じた〕ので、その場所の近くでアンドロス人たちは彼ら〔パロス人たち〕に対して、パロス人たちには女を〔妻として〕与えないし、彼らからもらいもしないと誓いをたてた。それゆえにアクテー・アライヌウ(「呪いの浜(akte Arainou)」)と命名したのである、それまでは竜が浜(akte Drakontos)と名づけられていたのにである。
〔設問31〕「なにゆえ、テスモポリア祭に際してエレトリア人たちの女たちは、火ではなくて日光によって肉を調理し、また〔最終日を〕カッリゲネイア(Kalligeneia「美しい子の生まれる日」)と呼ばないのか?」
もしかして、槍の穂先にかけられた女たち――トロイアからアガメムノーンが連れてきた女たち――は、その地でテスモポリア祭のための供犠をすることになったが、突然に航行日和になったので、供犠を途中のままし残して連れ去られたからなのか?
〔設問32〕「ミレートス人たちのところのアエイナウタイ(aeinautai)とは何者か?」
僭主のトアスとダマセーノールとの一味が打倒されたとき、その都市を押さえたのは二つの党派――ひとつは資本家派(Ploutis)、もうひとつは手仕事派(Cheiromacha)であった。 そして、力のある方が制圧し、国事を同志の中に囲い込み、最重要事について評議するときは、船に乗り込んで、陸から遠くに船出した。そして、案件を決定すると帰港するというのが常であった、このゆえに彼らはアエイ・ナウタイ(「永遠の舟人たち」)と命名されたのである。
〔設問33〕「いったいどうして、カルキス人たちはピュルソピオン近辺の地を若衆宿(akmaion lesche)と呼ぶのか?」
言い伝えでは、ナウプリオスがアカイア人たちに追跡されて、カルキス人たちに〔庇護を〕嘆願し、一方では自分の嫌疑に弁明をし、他方では自分でアカイア人たちを反訴したという。カルキス人たちは彼を引き渡すことは拒んだ。けれども、〔彼が〕謀殺されるのではないかと〔カルキス人たちは〕恐れ、彼のために守備隊として若盛りにある青年たちを与え、くだんの場所に駐留させ、互いにここで暮らすと同時に、ナウプリオスを警護させたのである。
〔設問34〕「善行者に牛を供犠する者とは誰か?」
イタカあたりに海賊船が出没し、これに老人が瀝青の入った陶器とともにつかまった。ところが、たまたま、ピュッリアスというイタカ人の船頭が、その船に〔自分の船を〕つけて、その老人をかくまってやろうとした、頼まれたわけでも何でもなく、老人に説得され、同情したからである。また、陶器を助ける手助けもしてやった、その老人が命じたからである。こうして、海賊たちが立ち去って安全になってから、老人は陶器のところにピュッリアスを連れて行き、その中に瀝青とまぜて多くの金や銀が入っているのを示した。こうしてピュッリアスは突然富裕となり、その他の点でその年寄りをよくもてなすとともに、彼のために牡牛を供犠してやった。これをまた諺ふうにして、「善行者に牛を供犠する者なんていない、ピュッリアスでなくては」と言うのである。
〔設問35〕「いったいどうして、ボッティア〔マケドニアのハリアクモン河下流とアクシオス河下流とに挟まれた地域。〕の処女たちには、合唱舞踏するときに「わたしたちはアテナイに行こう」という習慣があったのか?」
言い伝えでは、クレーテー人たちは祈られた〔=聖別された〕人間たちを初穂としてデルポイに遣わしたが、送り込まれた者たちは、何ひとついいことがないのを知って、その地から植民に出発したという。そうして、先ず初めにイアピュギア〔南イタリアの南アプリア。長靴の踵の部分である。〕に定住し、次いでトラケーの今の場所を占領したのだが、彼らにはアテナイ人たちが混じっていた。というのは、どうやらミノースは、アテナイ人たちが貢ぎ物として遣わした若者たちを潰滅させることなく、奉公人として自分のもとに留めおいたらしい。そのため、この人たちから生まれた者たちがおり、〔自分を〕クレーテー人と信じてデルポイにいっしょに派遣されたのである。ここからして、ボッティアの娘たちは、自分の出自を思い起こして、祭礼の際に「アテナイに行こう」と歌うを常としたのである。
〔設問36〕「なにゆえ、ディオニュソスをエーリス人たちの女たちは讃歌するとき、牛の足もて自分たちのところへきたれと呼びかけるのか?」
ところで、その讃歌は以下の通りである〔Anth. Lyr. Diehl II p.206〕
来たれ、朝まだきに、おお、ディオニュソスよ、
太陽の神殿へ
聖なる〔神殿へ〕カリスたちをともないて
神殿へ牛の
足もて降りきたれ
そうして、「貴き牡牛よ」を二度繰り返すのである。
どちらであろうか――一部の人たちがこの神を「牛の」とか「牡牛の」とか添え名するからなのか? それとも、「牛の足」で「大きな足」を意味するからなのか――かの詩人〔ホメロス〕が「牛の眼をした(boopis)」で「大きな眼」を〔『イリアス』第1巻551ほか各所〕、「牛のごとく堂々たる(bougaios)」で「大法螺吹き」を意味した〔『イリアス』第13巻824、『オデュッセイア』第8巻79〕ように。
あるいはむしろ、牛の足は無害であるがその角は恐ろしいものだから、そういうふうにこの神が穏やかに苦しみを与えることなくやって来るよう呼びかけているからなのか?
それとも、多くの人たちがこの神を鋤くことの始祖であるとか種播くことの始祖であるとか信じているからなのか?
〔設問37〕「なにゆえ、タナグラ人たちの都市の前にはアキッレイオン――そういうふうに命名される場所――があるのか? というのは、言われているところでは、彼はこの都市に対して友愛よりはむしろ敵意をいだいていたという。ポイマンドロスの母親ストラトニケーを略奪し、息子のアケストールを殺害したからである」
したがって、エピッポスの父親ポイマンドロスは、タナグラがまだ村々に分かれて統治されていたときに、〔トロイア攻めに〕共同出征を望まなかったという理由でアカイア人たちにステポーンと呼ばれるところで攻囲されたが、夜陰に乗じてこの地を脱出し、ポイマンドリアに要塞を築こうとした。このとき、建築師のポリュクリトスが居合わせて、その仕事をけなし、嘲笑しながら堀を跳び越えようとした。そこでポイマンドロスは怒って、いきなり大きな石をこれに投げつけた。その石は、昔からその場に秘匿されてきたものであったのを、ニュクテリオス〔=夜祭のディオニュソス〕の神事のために彼がのけて置いたものだった。これをそれと知らずに、ポイマンドロスは立ち上がって投げつけて、ポリュクリトスには当て損じたが、息子のレウキッポスを殺してしまった。そのため、法習にしたがって、ボイオーティアから移住し、外国で竈にすがる嘆願者とならなければならなかった。それは容易なことではなかった――アカイア人たちがタナグラの地に侵入してきたからである。そこで、アキッレウスに頼むために息子のエピッポスを遣わした。息子は、彼〔アキッレウス〕ばかりか、ヘーラクレースの子トレーポレモスをもヒッパルクモスの子ペーネレオースをも、全員を自分たちの同族として説得して案内してきた。この者たちのおかげで、ポイマンドロスはカルキスまで護衛としてついてきてもらい、エレペーノールのところで殺人の罪を浄めてもらったので、かの勇士たちを尊敬して全員に神域を捧げた、そのうちのアキッレウスのそれがその名前をも留めてきたのである。
〔設問38〕「ボイオーティア人たちのところのプソロエイス(Psoloeis)とは何者か、また、オレイアイ(Oleiai)とは何者か?」
言い伝えでは、ミニュアスの娘たちのレウキッペー、アルシノエー、アルカトエーは、憑依して人間の肉を欲求し、生子たちを籤で引いた。するとレウキッペーが当籤して、息子のヒッパソスを差し出すことになり、八つ裂きにしたという。彼女たちの夫たちは苦痛と哀悼のあまりみすぼらしい姿をしていたのでプソロエイス(「くすんだ人々」)と呼ばれ、女たちの方は、殺人女(oloos)のように「オレイアイ」と〔呼ばれた〕という。そして今に至るまで、オルコメノス人たちはこの出自の人たちをそういうふうに呼んでいる。そして、年々歳々、アグリオーニア〔=ディオニュソス〕祭のときには、彼女たちの逃亡と、両刃剣を持ったディオニュソス〔神官〕による追跡とが演じられる。そして、つかまった女は抹殺することが出来るのであって、現に、われわれの同時代の神官ゾーイロスは抹殺したことがある。しかし、それは彼らに何の得にもならず、むしろゾーイロスはちょっとした怪我がもとで病気になったばかりか、久しく膿みつづけたあげく命終した。〔〕オルコメノス人たちは公的な損害賠償と有罪判決を受ける羽目になったので、その一族から神官職を移して、全員の中から最善者を選ぶようになったのである。
〔設問39〕「なにゆえ、故意にリュカイオンに入った者たちをアルカディア人たちは石打にする、しかし、知らずに〔入った〕場合には、エレウテライに送るのか?」
どちらであろうか――彼らは自分たちが解放によって自由になったので、この伝説が信憑性を持つようにするため、そして、「エレウテライへ」というのは、「無憂(Ameles)〔地界にある河の名〕の地へ」とか「アレサス(「満足者」)の座に至らん」とか言うのと同じような意味なのか?
それとも、神話にあるとおり、リュカオーンの子どもたちのうち、エレウテールとレベアドスの二人だけが、ゼウスに対する涜聖に加わらずボイオーティアに逃れ、レバデイア人たちとアルカディア人たちとの間に平等権があるからなのか? だから、ゼウスの禁断の地に心ならずも踏み込んだ者たちを彼らはエレウテライへ送るのである。
それとも、アルキティモスがアルカディア史の中で〔述べている〕とおり〔FHG IV p.317〕、知らずに足を踏み入れたある者たちが、アルカディア人たちによってプリアシオス〔=プレイウウスの古称〕人たちに引き渡され、さらにプリアシオス人たちによってメガラ人たちに〔引き渡され〕、さらにメガラ人たちからテーバイ人たちのところに連れて行かれている途中、エレウテライのあたりで雨や雷鳴や他にゼウスの卜兆にとらえられたという。じつにこのことから、その場所はエレウテライ(「自由の地」)と命名されたのだと主張する人たちもいる。
ところで、リュカイオンに足を踏み入れた者は影を落とさぬと言われているのは〔パウサニアスviii_38_6〕、真実ではないが、しかし強い信憑性を持ち続けてきた。どちらであろうか――空気が雲に影響されて、入り込んだ者たちのまわりを陰気にするからなのか? それとも、足を踏み入れた者は死刑になる者で、ピュタゴラス学派の人たちが言うとおり、死者たちの霊魂は影をつくらず、まばたきもしないからなのか? それとも、太陽は影をつくるのだが、――これもまた彼ら〔ピュタゴラス派〕が暗示的に言っていることなのだが――、足を踏み入れた者から法習が太陽を奪うからなのか? というのも、足を踏み入れた者は鹿(elaphos)と呼ばれるからである。だからこそアルカディア人カンタリオーンが、アルカディア人たちと戦争している当のエーリス人たちのもとに脱走し、戦利品を携えて禁断の地を越え、――ところが戦争が終わったので、さらにスパルタに逃れたのであるが、これをラケダイモン人たちはアルカディア人たちのもとに追い出した――神が鹿(elaphos)を引き渡すべしと命じたもうたからである。
〔設問40〕「タナグラの英雄エウノストスとは何者か、また、いかなる理由で彼の神苑に女は足を踏み入れられないのか?」
エウノストスは、ケーピソスの子エリエウスとスキアスとの息子であって、この息子は、言い伝えでは、妖精のエウノスタに養育されたので、その名がつけられたという。美しく義しい人物であったばかりか、それに劣らず知慮深く厳格な人であった。だから、伝説では、オクネー――コローンの娘たちの一人で、彼〔エウノストス〕の従妹にあたる――が彼に恋したという。しかし、彼女の誘惑をエウノストスははねつけ、罵り、去って〔彼女の〕兄弟たちに告発しようとしたが、その乙女は機先を制して、彼に対して次のようなことを実行した、つまり、エケモス、レオーン、ブウコロスといった兄弟たちをたきつけて、〔エウノストスが〕力ずくで自分と交情しようとしたといって、エウノストスを殺害させようとしたのである。こうして彼らは、待ち伏せをしてその若者を殺害した。そこでエリエウスは彼らを捕縛した。他方、オクネーは後悔にくれ、周章狼狽して、かつは、恋心ゆえの苦痛からみずからを解放せんとし、かつは、兄弟たちを憐れんで、エリエウスに真実をすべて告白し、エリエウスはまたコローンに〔告白した〕。こうしてコローンが裁きを下し、オクネーの兄弟たちは追放刑に処され、彼女自身はみずから身を投げた――そうアンテードーン人の女流詩人ミュルティスは抒情詩に記録している〔PLG III p.542〕。
こうして、エウノストスの英雄廟と神苑は、女たちにとって足を踏み入れてはならない近づいてはならない地として見張られたので、しばしば地震や旱魃やその他ゼウスの卜兆が現れた場合には、気づかれぬうちに女がこの場所に近づいたのではないかとタナグラ人たちは探索し、入念に詮索するのである。〔〕そして、一部の人たち――この中にあの有名な人物クレイダモスが入っているのだが――の言うところでは、エウノストスが海に水浴に行く途中で彼らに出くわしたが、それは女が神域に入り込んだためだという。ディオクレースも『英雄伝』の中で〔FHG III p.78〕、クレイダモスの報告に関して、タナグラ人たちの決議を採録している。
〔設問41〕「ボイオーティアでエレオーン河がスカマンドロス河と名づけられたのはどうしてか?」
エレオーンの息子デーイマコスは、ヘーラクレースの同志であったから、トロイア遠征に参加した。しかし、どうやら、戦争が長引いた間に、スカマンドロスの娘グラウキアが彼に恋をし、〔これを彼が陣営に〕迎え入れて、妊娠させ、その後みずからはトロイア人たちとの戦争で落命し、グラウキアの方は、見つけだされるのを恐れて、ヘーラクレースに庇護を求め、自分の恋と、デーイマコスとの間に生じた交わりとを打ち明けた。すると彼〔ヘーラクレース〕は、かつはその女を憐れみ、かつは善勇の士にして親友の血筋が残されたことを喜んで、グラウキアを自分の艦隊に収容し、生まれた息子を連れて、ボイオーティアでその幼子も彼女もエレオーンに引き渡した。かくしてその子はスカマンドロスと名づけられ、その地の王となった。そしてイナコス河を彼にちなんでスカマンドロス河、その豊かな流れを母親にちなんでグラウキアと彼は名づけた。また、泉をアキドゥウサと〔呼ぶのは〕、自分の妻にちなんでいる――この女性から3人の娘を得たが、この娘たちを彼らは今に至るも「乙女たち」と命名して敬っているのである。
〔設問42〕「これこそが批准さるべし(Hauta kyria)という慣用句が言われるのは、何に由来するのか?」
タラス人の将軍ディノーンは、歴戦の勇士であったが、彼のある提案を同市民たちが挙手採決で否決し、勝ちをしめた議案を伝令官が読み上げようとしたとき、彼は右手を挙げて、「こっちの方こそが」と言った「勝っている」と。そういうふうにテオプラストスが記録しているのである〔fr. 133 Wimmer〕。しかし、アポッロドーロスも『Pytinos』の中に付録しているところでは、伝令官が「これこれがより多数」と言ったとき、「いや、これこれがより善い」と言って、少数派の採決を批准させたというのである。
〔設問43〕「イタケー人たちの都市がアラルコメナイと命名されたのはどうしてか?」
アンティクレイアが乙女のときにシーシュポスに犯され、オデュッセウスを懐胎したからである。これがより多くの人たちによって述べられているところである。しかし、アレクサンドレイア人イストロスが注釈書の中で付録しているところでは〔FHG I p.425〕、彼女はラアルテーに結婚目的で与えられ、ボイオーティアのアラルコメネイオンあたりに連れてこられたときにオデュッセウスを生んだ、そこでこれがために、イタケーのこの都市が母国の名前をもつように命名されたと彼は主張している。
〔設問44〕「アイギナのモノパゴイ(monophagoi)とは何者か?」
トロイアに出征したアイギナ人たちの多くが戦闘で亡くなり、もっと多くが、海路、嵐で〔亡くなった〕。そこで少数の生き残りを親類縁者たちが迎えようとしたが、その他の同市民たちが哀悼と悲痛に沈んでいるのを眼にして、あからさまに喜ぶのも神々に供犠するのもいけないと思い、こっそりと、それぞれの家ごとに、助かった者たちを馳走と親愛の情とで迎え入れ、自分たち自身で、父親たち、同族たち、兄弟たち、家族たちに給仕し、他の人は誰ひとり入れなかった。そうして、これを模倣したのが、ポセイドーンへの供犠として彼らが執り行ういわゆる寄り合い(thiasoi)であって、ここでは16日間、自分たちだけで、黙って、宴会をし、奴隷さえ同席しない。そうして、アプロディシア祭を執り行ってからこの祭礼を終わる。このことから彼らはモノパゴイ(「一人で食する人たち」)と呼ばれるのである。
〔設問45〕「なにゆえ、カリアのラブランダ地方*1のゼウス像は、王笏や雷霆ではなく、戦斧(pelekys)を振りかざした格好につくられているのか?」
ヘーラクレースがヒッポリュテーを殺し、その他の多くの武器ともども、彼女の戦斧を取得して、オムパレーに贈り物として与えたからである。そして、オムパレー以後のリュドス人たちの王たちは、これを他の神具のひとつとして交代で運び、〔〕受け継いできたが、カンダウレースに至って彼は尊重せず、同志の一人に運ぶよう与えた。しかしギュゲースが謀反を起こして彼と戦争し、アルセーリスがギュゲースの味方として軍勢を引き具してミュラサからやって来て、カンダウレースと彼の同志を潰滅させ、この戦斧もその他の戦利品といっしょにカリアに運んできた。そしてゼウスの像を建造するとき、戦斧を手に持たせ、この神像をラブランデウスと命名した。というのは、リュドス人たちは戦斧のことをラブリュス(labrys)*2と名づけているからである。
*1 カリアの西方、ミュラサの北の地域。ゼウス神殿あり。
*2 両刃の斧であるが、古くより神具として用いられた。クノッソスのあの有名なラビュリントス(迷宮)は、「ラブリュスを祀った家」の意である。なお、ラブリュスについては、「反・ギリシア神話」のその項を見られたい。
〔設問46〕「なにゆえ、トラッリアノイ人たちはカラスの豌豆を浄めるものと呼び、お祓いや浄めのためにいちばんよく使うのか?」
もしかして、レレゲス人たち*1とミニュアイ人たち*2とは、その昔、彼ら〔=トラッリアノイ人たち〕を駆逐して、その都市と領地を占領したが、その後、トラッリアノイ人たちが帰還してきて制圧したが、レレゲス人たちの中で、潰滅せず、逃亡もせず、生活手段のないためと弱さゆえに、当地に居残ったかぎりの連中が、生きようが滅びようが、何ら顧慮することなく、トラッリアノイ人たちの中で、ミニュアイ人たちかレレゲス人たちを殺害した者は、殺された者の家族に、カラスの豌豆1メディムノスを量り分ければ、浄められる〔=無罪〕という法習を定めたからなのか?
*1 カーリア人たちと関係があるとされ、ギリシア本土各地やエーゲ海上の島々に住んでいたとされる民族。
*2 先史時代のボイオーティアのオルコメノス市を中心とし、ミニュアースを祖とする民族。彼らはイアーソーンの市たるテッサリアのイオールコスをも領有し、この他ペロポンネーソスのエーリス、トリピューリア、エーゲ海上のテーラ島、レームノス島にもミニュアースを祖とする民族がいた。アルゴナウテースたちもミニュアース人と呼ばれている。
〔設問47〕「なにゆえ、エーリス人たちのところではサムビコスよりも恐ろしい目に遭うという慣用句があるのか?」
言われているところでは、エーリス人にサムビコスなる者がいて、自分の手下に多数の共犯者を引き連れて、オリュムピアの青銅の神像から多くの部分を削り取って売り飛ばし、ついにはエピスコポス(「見張り番」)・アルテミスの神殿までも荒らしたという。その神殿はエーリスにあって、アリスタルケイオンと呼ばれている。すると、その神殿荒らしのすぐ後で捕らえられて、共同でしでかしてきた所行の一々について尋問されて、1年間にわたって拷問を受け、そのうえで処刑され、彼のこの受苦から慣用句が出来たという。
〔設問48〕「なにゆえ、ラケダイモンではレウキッポスの娘たちの神殿のそばにオデュッセウスの英雄廟が創建されたのか?」
エルギアイオス――ディオメーデースの子孫の一人――は、テーメノスに説得されて、パラディオン*1をアルゴスから盗み出した。これに関与し、いっしょに盗み出したのは、レアグロスであった。この男はテーメノスの親友の一人であった。その後、テーメノスに腹を立てたレアグロスは、パラディオンを携えてラケダイモンに移った。王たちは熱心に歓迎して、レウキッポスの娘たちの神殿の近くに安置し、デルポイに使いを遣って、それの安全と守りについて占ってもらった。すると神が、パラディオンをくすねた者たちの一人が番人となるべしと託宣したので、その場所にオデュッセウスの英雄廟をこしらえた。ペーネロペーと結婚したゆえ、この都市にとってことのほかふさわしいと解した*のである。
*1 その所有者たる町を保護する力があると信じられていたパラス〔=アテナの添え名〕の古い神像。しかし、これの性格については、「反・ギリシア神話」のパラディオンの項を参照。
*2 ペーネロペーは、スパルタのテュンダレオースの兄弟イーカリオスの娘だった。
〔設問49〕「なにゆえ、カルケードン女たちには、他人の夫たち、とりわけ役人たちに出くわしたら、片頬をそむけて隠すという習慣があるのか?」
彼ら〔=カルケードン人たち〕はビテュニア人たちに対して、ありとあらゆることがいきり立つ口実となって、戦争になった。そしてゼイポイトスが後者〔ビテュニア人たち〕の王となると、〔カルケードン人たちは〕全軍およびトラキアの援軍を得て、敵領土を焦土と化し劫掠した。そこで、ゼイポイトスはパリオンと呼ばれるところで彼らに襲撃したところ、〔相手は〕戦いかたが悪く、無謀・無秩序のせいで8000人以上の将兵を失った。このとき完全には抹殺されなかったのは、ゼイポイトスがビュザンティオン人たちの機嫌をとるために休戦に応じたからである。とにかく多くの寡婦がこの都市を占め、たいていの女たちは、やむを得ず、解放奴隷や寄留民たちと同棲した。が、そういった結婚をせずに寡婦であることを選んだ女たちは、自分たち自身が自力で、裁判官や役人たちの前で何でも必要なことを実行した。顔のベールの一端を引き寄せながらである。〔〕結婚してしまった女たちは、恥じ入って、彼女たちのことを自分たちよりも善い女性として模倣し、同じようなしぐさを習慣としたのであった。
〔設問50〕「なにゆえ、アゲーノールの神域に羊たちを追い込んでアルゴス人たちは交尾させるのか?」
もしかして、アゲーノールが家畜たちを最美に世話し、王たちの中で最多の畜群を所有していたからなのか?
〔設問51〕「なにゆえ、アルゴス人たちの子どもたちは、ある祭礼のさいに冗談で自分たちのことをバラクラダ(Ballachradai)と呼称するのか?」
もしかすると、イナコスに率いられて山岳地帯から平野に降りてきた最初の人たちは、梨(achras)のおかげで暮らしがたったと言い伝えらているからなのか? そして、ペロポンネーソスのヘラス人たちが梨を最初に見たのは、まだあの地がアピアと命名されているときだという〔パウサニアスii_5_7〕。ここから、梨はアピオイと改名されたのである。
〔設問52〕「エーリス人たちが道中?馬を国境の外に連れていって交尾させる理由は何か?」
もしかして、すべての王たちの中でオイノマオスは最大の愛馬家で、とりわけこの動物が好きだったので、エーリスで〔騾馬をつくるために〕馬を交尾させようとする人々に数々の恐るべき呪いをかけ、〔人々は〕その呪いを恐れて厄払いしようとしたからなのか?〔ヘロドトス『歴史』第4巻30、パウサニアスv_5_2。〕
〔設問53〕「なにゆえ、クノーッソス人たちのところには銀子を借りた者たちのためにかっぱらうという習慣があったのか?」
もしかして、〔借金を〕踏み倒すと暴行罪で有罪になり、もっと重い罰を受けるからなのか?
〔設問54〕「サモスではデクシクレオーンのアプロディーテーよと呼びかける理由は何か?」
どちらなのか――彼らの妻たちが贅沢と暴慢とからふしだらなことをなしていたのを、乞食僧デクシクレオーンがお祓いをして解放したからなのか?
それとも、デクシクレオーンは回船商人であったが、交易のためにキュプロスに航行しようとして、満載しようとしたとき……アプロディーテーが、水以外には何も乗せず全速力で航行するよう命じた。そこで聴従して、多くの水を積んで出航したところ、やがて外洋で無風と凪にとらわれ、他の貿易商人たちや回船商人たちが渇しているときに、これに水を売りつけて大金を集めた、こういう次第で、彼は女神〔像〕をこしらえて、これに自分にちなんで命名したからなのか? もしもこれが真実だとするなら、一人のひとを富裕にすることではなく、一人を介して大勢の人を救うことに、その女神の意図があったことは明らかである。
〔設問55〕「なにゆえ、サモス人たちにとって、歓喜天(charidotes)ヘルメースに供犠するときに、望む者に盗みや着物泥棒を認めるのはなぜか?」
神託にしたがって、島嶼からミュカレーに移住して、海賊稼業で10年間暮らし、その後、ふたたびこの島に航行してサモス人たちは敵を制覇したからである。
〔設問56〕「サモス人たちの島のパナイマ(Panaima)という場所は何にちなんでそう呼ばれるのか?」
もしかすると、アマゾンたちはディオニュソスを避けて、エペソス人たちの地からサモスに渡った〔パウサニアスvii_2_7〕。しかし彼は舟艇をつくって乗り組み、戦いを再開して、彼女たちの多数を、この地のあたりで殺した。この地を、流された血の多さから、見物人たちが驚いてパナイマ(「多くの血」)と呼んだからなのか? また、プロイオンあたりで象も何匹か殺されたと言われており、その骨が指摘される。しかしある人たちの言うには、彼女たちの大叫喚と金切り声で、プロイオンさえ割けたという。
〔設問57〕「いかなる理由によって、サモスの広間はペデーテース(pedetes)と呼ばれるのか?」
地主たちが国制を掌握したのは、デーモテレースの暗殺と彼の独裁制の転覆以後であったが、このときメガラ人たちが、サモス人たちの植民者であるペリントス人たちに対して出征したが、言われているところでは、槍の穂先にかけられる相手のために足枷を携行したという。しかし、これを伝え聞いた地主たちは、すみやかに援軍を送るため、将軍9人を公示、艦船30艘を艤装した。このうち2艘は船出したとたんに港の前で〔〕落雷によって潰滅した。そこで将軍たちはその他の艦船で航行し、メガラ人たちに勝利して、その生き残り600をつかまえた。しかしその勝利に気をよくして、家郷の地主たちによる寡頭制を解体しようと思いついた。そのうえ、国制の指導者たちが手だてを提供してくれた――メガラ人たちの捕虜を、相手が自分で持ってきた足枷につないで連行するよう彼らに書き送ってきたのである。そこで、その書状を受け取って、メガラ人たちの一部にひそかに示し、自分たちといっしょに謀反を起こし都市を自由にするよう彼らを説得した。かくしてその作戦について共同で相談し、足枷の環を分解し、これをそのままメガラ人たちの膝に装着して、帯のところまで革ひもでつり下げる、そうやって、歩いているうちにそれがゆるんで抜け落ちず外れもしないようにすることにした。こういうふうに兵士たちに装備させ、両刃剣をおのおのに与えて、サモスに帰港して下船すると、彼らを市場を通り抜けて評議会場へ連行したが、そこには地主たち全員が一堂に会して着席していた。やがて、合図が与えられるや、メガラ人たちは殺到して男たちを殺した。こうしてその都市が自由となるや、メガラ人たちの共謀者たちを同市民となすとともに、壮大な館を建設し、足枷を安置し、こうしてこれにちなんでその館はペデーテース(「足枷邸」)と名づけられたのである。
〔設問58〕「なにゆえ、コース人たちのところでは、ヘーラクレースの神官は、アンティマケイアのとき女性の衣裳を身にまとい頭には頭飾りをかぶって供犠を開始するのか?」
ヘーラクレースは艦船6艘でトロイアから船出したが嵐に見舞われ、艦隊は潰滅して、〔残った〕たった1艘も風に行き足がついてコース方面にながされ、ラケーテールと呼ばれるところに打ち上げられた。武器と将兵以外には何も助からずにである。しかし家畜に行き合ったので、その羊飼いに雄羊1頭を所望した。しかしそやつはアンタゴラスと呼ばれ、体力の盛りにあるやつで、自分と相撲を取って、もしも投げ飛ばしたら、雄羊を持っていってよいとヘーラクレースに命じた。そこでヘーラクレースが彼と取っ組み合いをはじめると、メロピス〔コースの旧称〕人たちが加勢したので、ヘラス人たちもヘーラクレースに〔加勢して〕猛烈な喧嘩を始めた。そのうち、言い伝えでは、多勢を相手に疲労困憊したのでヘーラクレースはトラキア女に庇護を求め、女性の衣裳で身を包み隠して気づかれないようにしたという。やがてメロピス人たちをふたたび制覇して、浄めをしてもらい、カルキオぺーを娶ったが、このとききらびやかな礼服をまとった。それゆえ、神官は戦闘が起こることになったときに供犠をする一方、花嫁を娶ろうとする者たちは女性の衣裳を身につけて迎え入れるのである。
〔設問59〕「メガラ人たちの間でハマクソキュリスタイ(Hamaxo-kylistai)一族の出自は何か?」
ふしだらな民主制――利子返却令(palintokia)を出したり神殿荒らしをしたり――の時代に、ペロポンネーソス人たちのデルポイ参詣者たちがメガラを抜けてアイゲイロイの湖のそばで、子どもたちや婦女を伴っていたのでたまさか馬車の中で宿営していた。ところが、メガラ人たちの無鉄砲な連中が、酩酊して、暴慢にも野蛮にも、その馬車を動かせて湖に突き落としたため、参詣者たちの多数が溺死した。しかし、メガラ人たちは、国制の無秩序ゆえにこの不正を無視したけれども、アムピクテュオネス*は、参詣団は神聖であるから、憂慮して、犯人たちのある者は追放刑に、ある者は死刑に処した。そしてこの一族の子孫がハマクソキュリスタイ(「馬車転がし一族」)と命名されたのである。
*ヘラス民族共同の祭礼や慣例の監視のために、聖地を有する近隣諸都市相互から構成された宗教的・政治的同盟の加盟者(=都市)。創設者はAmphiktyonと伝えられる。
1999.4.22 訳了 |