服従の「言葉」・抵抗の「言葉」
[はじめに] 私事になるが、一昨年の春、私はそれまで19年間にわたって勤めてきたある私立中・高等学校を辞職した。閉塞的な教育状況を切り拓く行動原理を、自分たちの手でうちたてようともしない教師たちの無思想と、為すべきことは為さず、自己保身にのみ汲々としている無節操とに対する、積もり積もった失望の果てにである。 教師のノーナシ(無思想)・タマナシ(無節操)ぶりが、一私学の個別的な状況にすぎないのなら、さして問題とするに足りない。しかしながら、私の見るところ、それは日本の教育に従事している者すべてに共通する在りようにほかならない。そこに私の失望の深さがあり、もはや教師であることをやめようと決心した理由がある。 「もう学校はダメなのか」と嘆くよりも前に、学校を支えているはずの教師の方が先にダメになってしまっている現実に、人々はまだ気づかない。 どうしてこんなことになってしまったのか。何か希望の端緒はないのか。一私学人であった経験を通して、以下に若干の考察を加えてみたい。 私学は、持って生まれた宿命からして、常に時代の要求に応えなければならなかった。だからこそ、私学が今、何を問題としているかを知ることは、教育の近未来をうらなう上で、大いに有意義なはずである。 [免罪符としての教育理念] 私学は理念に依って建つ。しかし、教育が人間育成の営みである以上、建学の理念がどうであれ、教育理念は畢竟、人間観の開陳にほかならない。それぞれの私学が、それぞれに教育理念を掲げているとはいえ、その内容がいずれも似たり寄ったりになってゆく理由が、ここにある。 今、ほとんどの私学が掲げている教育理念は、「全人教育」――これである。この理念は、私学教育のみならず、今や教育理念そのものの代名詞にまで昇格した感がある。その背景には、いったい、何があったのか。少しく振り返っておきたい。 1945年の敗戦を契機に、「公」教育は、それまでの軍国主義的・国家主義的傾向を全否定され、新しい教育理念の模索にとりかかった。 これに対して、建学の理念の独自性を守るために、経済的基盤を国家に依存しないことを本旨とする「私」学は、戦時中の画一的形式主義の押しつけこそ私学に対する抑圧ないし侵害と感じていた。だから多くの私学は、敗戦を一種の解放と感じていた。 だが、そのことがまた、自分たちの教育が、何故にかくも容易に軍国主義的・国家主義的傾向に染めあげられてしまったのかという、自分たちの教育理念そのものを反省する機会を失わせる原因ともなった。 私学にあっては、国体観念の養成と忠孝一致の修身道徳を中心とする教育勅語的教育の体質は、まったく無傷のまま戦後に持ち越されたと言ってよい。私の勤めていた学校では、「教育勅語を奉戴して」つくられた校訓が、今に至ってもなお金科玉条となっているのであるが、他の伝統的な私学においても、事情は同じであろう。 一方、反動的為政者の立ち直りも早く、1950年の朝鮮戦争勃発を眼の当たりにして危機感を持った彼らは、戦後民主主義の「行き過ぎ是正」を合言葉に、「公」教育の場において先ず「愛国心」教育の復活に熱意を示し、以後、逆コースへの軌道修正を執拗に追求してゆくことになる。このような時流を背景に、私学がこぞって前面に打ち出したものこそ、「全人教育」にほかならなかった。 そもそも、教育理念としての全人教育の提唱は、大正時代に遡る。当時、大正デモクラシーの大きなうねりの中で、さまざまな「新教育」が提唱され、実践されていたが、全人教育もその一つで、小原國芳によって提唱されたものであった。小原は、全人教育の理念に基づいて、後に玉川学園を設立した(1929年)。 もともと、「全人(Vollmensch)」とは、知・情・意の完全・円満に調和した統一的人格を意味し、その源は古典期ギリシアに発するところの、西洋の伝統的な教養主義の根幹をなす概念である。この、きわめて西洋的な概念が、仏教系の多い私学の教育理念を席捲していったのには、もちろん、それなりの理由があった。 1.本来、仏教系私学が共通して掲げる教育理念を一言で言い表せば、それは「仏弟子の育成」ということになろう。「仏」とは、現代ふうに言えば、「完全なる人格者」という意味にほかならず、これは「全人」概念と似た内容を持っていた。 〔「全人」という語は『荘子』徳充符に見え、そこでは五体満足な人間を意味している。この点でも「仏」概念と重なる。身体障害者に対する差別感情を煽り立ててきた仏教にとって、「全人」はまさしく願ったり叶ったりの言葉であったと言える〕。 2.しかし、現実を動かせるのは、理屈ではなくて、現実的条件である。戦後、私学が教育理念の中に「全人」概念を採用するに至った要因には、教育基本法の制定(1947年)があったと考えられる。「教育は、人格の完成をめざし……」という教育基本法第一条の文言は、「全人」という言葉と響き合っていよう。私学は為政者の動向に常に敏感でなければならないのである。 3.だが、特にこの時期(1950年〜1960年)になって、各私学がこぞって全人教育を標榜するに至った最大の理由は、生徒数の減少によって私学が等しく経営の危機に瀕していたことにあった。事実、私の勤務校では、中学部が応募生徒数の減少により、募集停止に追いこまれていたのである。 そこで私学は、反動的為政者たちによる民主主義教育「行き過ぎ是正」論に力を得て、教育の場から修身道徳的な徳育や情操教育を注意深く削り落としていった「公」教育を、知育偏重として非難を浴びせ、これに徳育・情操教育の重視を対置することによって、そこに私学の存在理由を、つまりは生き残りの可能性を見出そうとした。 こうして、「全人教育」は、反動的為政者がねらっていた道徳教育特設(1958年)の露払いの役割を果たすこととなったのである。 4.徳育・情操教育の重視とは言ってみても、それは負け犬の遠吠えにすぎない。私学は、所詮、公立学校に行けない(「知育」に落ちこぼれた)生徒の受け皿でしかなかった。 そういう生徒を掬い上げる側も、掬い上げられる側も、みずからの劣等感を慰撫する必要があった。「全人教育」の高唱には、いつも公立学校の「落ち穂ひろい」をさせられてきた私学の、ルサンチマンの響きがこめられていた。 恨みつらみは晴らされなければならない。「公立校に追いつき追いこせ」――これがフツーの私学の悲願であり、それはまた、実は「全人教育」の本音にほかならなかったと言ってよい。 募集停止に追いこまれていた我が校の中学部が、「仏教を基盤とする全人教育」と「基礎学力の充実」との二つを教育目標に掲げて再登場したのが、1960年である。「基礎学力の充実」を謳わねばならなかったところに、この私学がどういう層の生徒を対象としなければならなかったかを窺わせて、いじらしい。 しかしながら、これが、後になって各私学が競って設置することになる、いわゆる「特進コース」の草分け的存在となったのである。 5.時あたかも、高度成長経済の時代に入ろうとしていた(景気の動向は私学にとって決定的な影響を及ぼす)。教育政策は、高度成長経済政策と連動し、政府と企業にとって好ましい「期待される人間像」(1966年)をつくろうとしていた。一方、少年非行は「戦後第二の波」と騒がれていた。 こうした背景の中で、民主主義教育は「学力低下と非行」を招くと非難され、「全人教育」はそのアンチ・テーゼとして、たちまち燎原の火のように広まっていった。 文部大臣でさえ、「大学で騒ぐ学生」を見て、〃全人教育の欠如〃と嘆くまでになっていた。こうして、全人教育は教育理念の中枢に居座ったと見てよい。 世は生徒急増期で、学校はいくらあっても足りないといった有様だった。 だが、目端のきく私学は、すでにその先を見越し、生徒の有り余っているこの時期に、進学有名校の名前を獲得しておこうとして、特進コースを設置し、激烈な受験教育戦争を仕掛けていった。 名もない一私学が、いかにして有名進学校に成り上がっていったか。それは、あたかも、自尊心ばかり強い貧乏国家が、植民地の再編を求めて列強に仕掛けた殴りこみに似ていた。あるいは、「全人教育」に秘められていた怨念の暴発とも言えた。 彼らに罪があるとすれば、そのやり口があまりに反教育的だったことと、本当は黄金を集めて多少のみがきをかけたにすぎないのに、瓦をみがいて黄金に変えたがごとき印象を世間に与えたことである。しかし、その影響は計り知れないほど大きかった。受験教育をしないことが悪いことのように見做されるようになった。 受験教育に邁進した学校も、しかし、全人教育の看板を降ろさなければならないとは考えなかった。知を得ようとする情熱、知を得ようとする努力によって、情・意はおのずと開発される。知とは学力であり、学力さえ身につけば、当然、大学受験には合格するはずだ、と考えられたにすぎない。 それがどんな学力なのかを問うことは、自分たちの教育理念を問うことと同様、虚しいことであった。「全人教育」は、埃をかぶったまま、神棚の中に祀られていたのである。 いかに高邁な理念も、理念そのものに現実を動かす力があるわけではない。むしろ、理念は現実の動きを免罪してくれる錦の御旗にすぎない。現実を動かせるのは、理念の中に何を読み取り、そこに自分の主体をどれほど賭けるのかという、現実の人間の在りよう以外にはない。 したがって、全人教育の御旗のもとに受験教育に驀進した学校もあれば、全人教育と受験教育とは相容れないと考え、この理念のもとに何とか踏みとどまろうとした学校もあった。しかし、かろうじて踏みとどまった学校にとって、状況はさらに困難なものとなった。 [争奪の場としての学校] 何らかの危機に遭遇した時、その人間の本質が露呈してしまうように、教育もまた危機的状況に直面した時、その本性を暴露してしまう。私学教育にとって、その危機は、今度は生徒数の絶対的不足という形でやってきた。すなわち、1974年を最後のピークとして、日本の子どもの出生数が急減期に入ったのである。 学校がつぶれる!――この危機感は、私学経営者とそこに勤める教師集団とを、みごとな同志的関係に結びつけた。一般教師も経営的意識を持つことを要求され、彼らは一丸となって、ありとあらゆる生き残り策を模索し始めた。 世はイメージと宣伝の時代である。 校名を変え、校舎を新築し、考えつくかぎりの目玉商品を案出して、入学案内のパンフレットに麗麗しくゴチック体で書きこんだ。 有名になる、入学希望者が増える、それだけ大学受験に対応できるタマも増やせる。有名大学に合格させれば、ますます有名になる……。 その合格者一人を出すために、学校あげての努力を強いられる。学校あげてとは、その他大勢のフツーの生徒たちも、その選ばれた生徒の勉強の邪魔にならないよう、それどころか、彼の授業料を肩代わりするよう、努めなければならないという意味である。 要するに、学校も他の組織体と同様、みずからが生き残るためには手段を選ばぬということを証したのである。 それが非難されないのは、それが子どもやその親たちの利益と合致しているという幻想があるからにすぎない。なぜ幻想なのか。利益に与かるのはほんの一握りの者にすぎず、その他大勢は寄せてもらっていない(それどころか、それがどれほど抑圧的・差別的に働いているか)ということに、気づこうとしないだけのことだからである。 このような私学の低劣さを笑うことは易しい。笑えないのは、彼らには生活がかかっていたということである。 従来、私学の教師は、「教育」と「経営」とを二項対立的にとらえる発想しか持たなかった。 しかし、問題は二項ではなくて実は三項であった。つまり、自分の給料の出所はどこか。その出所に対してもなお、自分は教師としてどんな在り方をするのかという、「生活」の問題をもう一項加えておくべきであった。 だが、この決して愉快でない問題から、彼らは意識的・無意識的に眼を反らしてきた。そのため、自分の生活が脅かされていると知った時、教育か経営かという二項対立の図式まで消し飛んでしまった。「自分の今ある生活は守らなければならない。そのためには、学校は存続しなければならない」。これが彼らにとっての至上命法となった。 私学は理念に依ってたつ。みずからの依拠する理念によってはもはや生きられないのであれば、学校は生き残る必要はない。 ――例えばこのように主張することは、ひどく大人気無いことであった。同僚はこぞってこう諭した。 「本校の理念はかけがえのないものである。だからこそ、学校は生き残らなければならない」。 こうして、学校の、つまりは自分たちの生活の保全が至上目的にすり替えられた。後は、「経営として成り立つ教育」を追求すればいいだけである。 これが私学だけの問題なら、私の失望もそれほど大きくはない。ところが、私学の教師の至上命法は、公立の教員たちにとっても同じなのだ。むしろ、「親方日の丸」の彼らにあっては、自分の「生活」が、眼の前の生徒ないしその親に依存しているなどとは考えにくかったろう。 どんなに威勢のいいことを言っていても、安穏な生活は、問題意識を萎えさせる。鉄の門扉で生徒を圧殺したのは、ほかならぬ公立高校の教員たちであったし、あれほど衝撃的な事件も、鉄の門扉を取り外した以外に、いったい何が変わったであろうか。校舎の上には日の丸の旗が翩翻とひるがえり、業者テスト中止の指示に慌てたのは、教師たち自身ではなかったのか。 私の悲憤は、事柄の是非にあるのではない。それよりも前に、彼らの言ったことが何であり、実際に為したことは何であったかという、その思想性と節操こそが問題だと言いたいのである。 教育制度も問題であろう。教育行政はもっと問題であろう。だが、教育を実際に行うのは教師自身である。その教師が、みずからの「生活」を賭して「教育」の本質とわたり合うというのでなく、どこからかの指示を待ってしか行動できない木偶の坊だとしたら、教育に何が期待できようか。 そもそも、自分が教師であることに負い目を感じないような教師は信ずるに足りない。教師は、「知識の切り売り人」「ひとつの瓶から他の瓶へと知識を移しかえることができると説いて報酬を得るペテン師」と、ソクラテスが口をきわめて非難したソフィストの末裔にすぎない。 にもかかわらず、評価権を振りかざした小権力者としてのさばりかえり、自分自身は決して傷つくことのない安全地帯から、自分自身は決して守ったこともない徳目を並べ立てて、建て前と本音の使い分けを子どもたちに薫育してゆく。 二十年も三十年もそんな教師でありつづけた者は、永年勤続者として褒賞さえうける。もらって恥になる賞もあるとは、考えてもみない。 いや、学校という存在自体が、人間にとって抑圧的なのだと言ってよい。 歴史的に見て、近代国民国家を支えてきたのは、軍隊と学校との二本柱である。特に学校は、「国家生存ノ為ニ」「忠良ノ臣民」を養成することが目的だとはっきりと謳われ(小林歌吉『教育行政法』)、一方では一定程度の知能を有した兵士を供給し、他方では産業社会が必要とする労働力=「産業戦士」を送り出してきた。 国家を支える「国民」の育成という基本構造は、今も変わらない。おそらく、国家の存続するかぎり変わるまい。そういう国家の要請に忠実に応えるべく動機づけられているのが、教師という存在なのである。 しかるに、東西冷戦構造の崩壊と民族紛争の激発は、国家そのものの矛盾を露呈していると言ってよい。それはまた、学校というものが、実は、国家の要請としての教育と、人間の育成(人権)としての教育との、争奪の場であることを、より鮮明にすることにもなっている。 こういう時代にあって、教師、とりわけ、国家に依存せぬことを本来の志とする私学の教師の役割は、きわめて大きいと言わねばならない。たしかに、状況の厳しさは、多くの腰抜けをつくりだすが、その反面、確固たる抵抗者をも生みださないではおかないはずだからである。 [来たるべき学校] 私学は、ある意味で、常に時代を先取りしてきた。時代の要求に応えなければ、生き残れないからだ。それは、むしろ弊害をもたらすことの方が多かったが、現実主義的なそのしたたかさを軽視してはなるまい。 私の勤めていた学校も、生き残り策として、次のような将来構想をうち立てた。 1.教育内容を充実させる。〔大学進学率を高め、それによって世間的評価を高めるために〕。 2.男子校を廃し、女子生徒も障害者も受け入れる。〔「市場」を広げて、生徒数を確保するために〕。 3.美麗な設備をもって社会教育・生涯教育の領域にも進出する。〔学校収入を増やすために〕。 ここに何を読み取るべきか。 経営の論理の明け透けさに驚くことはない。経営の論理とはいつもそうしたものだ。 驚嘆すべきは、むしろ、冷徹なまでのその合理性である。この私学が百二十年にわたって堅持してきた男子校の伝統を、経営の論理は一顧だにしない。障害者にも門戸を開くべきだという、人権教育の観点からの要求にあれほど頑なだった経営の論理が、今は名案だとばかりに賛意を表している。そればかりか、従来の閉鎖的な学校という枠さえ踏み越えようとしている! 経営の論理は時代を先取りする。教育理念は後から追いかけてくる。 そうか! 学校は「生徒」さえいれば成り立つのだ。その生徒の性別も年齢も障害も社会的経歴も、国籍さえも、経営の論理は問わないのだ。社会にさまざまな人間がいるように、さまざまな人間によって構成される共同体としての学びの場、すなわち、学校。 私は皮肉を言っているのではない。我々は究極的な理想社会を思い描くことはできない。たとえできても、それは、すべてのユートピアがそうであるように、理想からはむしろ大きく隔たることを思い知らされるばかりである。我々にできることは、今より一歩でもより善い社会を、これを担うはずの次世代の子どもたちと共に探究し、擬似体験してみることだけではなかろうか。 そういう社会の模型としての学校。そこでは、当然、今まで学校で教えてきた普遍的な(とされる)「知の体系」も組み替えられねばならない……。経営の論理に勇気づけられて、私の夢は限りなく広がる。 「経営として成り立つ教育」を、経営の論理の軛から解き放ち、どのような教育理念の高みに掬い上げ、その文脈の中で何を読み取り、そこにどれほど己の存在を賭けられるか。それが教師各個に常に問われつづけているのである。 |