それではまず、 東京からいらしていただいた伊東さんからシステム論についてご説明いただきます。
伊東道生〔東京農工大学〕:
私の話しは手元の冊子のSession-3の一番最後に書いたものです。 今日は「参加型都市環境デザインの理論」がテーマですが、 私はまずその前段階の話をしようと思います。
その際、 二つの話題をお話ししたいと思いました。 一つはデザインをめぐるシステム論的な考え方です。 二つ目は皆さんがしばしば問題とされる公共性の話です。 しかし、 打ち合わせでとりあえず最初の話だけにすることにになりました。
その前に、 おこがましいですが「都市環境デザインの根拠」が今日どういう状況なのかを私なりにまとめてみたいと思います。
お断りしておきますが、 私の専門は哲学なので言葉が難解かもしれません。 そういうときは遠慮なく「言ってる事がわからん」と叫んでください(笑)。
最初に都市環境デザインに限らず、 デザインに対して今どういう事が求められているかを考えてみます。
ですから、 ある「機能」を発揮させるためのデザインに、 構造でも形態でも無限に可能性が出てきています。
丸茂先生がハンナ・アレントを午前中に紹介されていましたが、 その言葉を借りると「工作人の独居」とか、 「作る事は一人的な話だ」という事ができると思います。
形態や構造の多様化と同時に、 皆を納得させるような天才型・芸術家的なデザイナーが出現してきたことも、 近代において我々が目の当たりにしてる現象だろうと思います。
単に立派な専門家にまかせるのではなく、 もう少し根拠のあるもの、 例えばどこでも当てはまりうる普遍性と言えるものが必要なのではないか。 つまり、 「このデザインはデザインとして良い」ということが「普遍性をもっている」ことが都市環境デザインに求められているのです注1。
それは、 「モノ」の側でも同様です。
たしかに、 近代的な感覚であれば「モノ」がこういう機能を持っているから、 というような言い方も出来ると思いますし、 客観的にみてデザインされた「モノ」の機能が良いものだと、 パッと納得できます。
あるいは「人間」の側にもあるわけで、 さっき言ったように優れた専門家がいて、 その人のデザインを皆が「ああいいな」と思うパターンもあるわけです。
しかし、 今はもう少し中間的なと言いますか、 「モノ」にあるとも「人」にあるとも言いきれないもの、 つまり「公共性」というところに普遍性の希求が出てきているのではないでしょうか。 そして公共性を作り上げていくことに、 「参加」の核心がある、 それが私の考えであり、 今日の前提です。
「公共性」あるいは「共になんとかする」とか「参加する」とかいろんな言い方をします。 これはデザインの根拠として「みんなで」ということを基礎にして、 そこからデザインしていこうという段階にきているということです。
それには皆さんも異存がないだろうと思いますが、 その「みんな」というのを、 どう解釈するのか。 これは実は容易ではありません。
都市環境デザインの根拠
(1)機能と形態/構造の分離、 あるいは多様性
まず「かたち」です。 「機能と形態」あるいは「機能と構造」が基本的に分離して取り扱えるようになったという事が大前提です。
(2)個人主義(工作人の独居)or天才
これは勝手に何でもデザインできるという自由さも出てきたということです。 例えば伝統的な様式を無視して、 デザイナーあるいは個人の思いつきに従ってデザインすることもできます。 言ってみればその人のアイデアだけで勝負するような個人主義的なデザインも、 当然発生してきます。 従来に伝統には配慮しませんよ、 というのが近代人の生き方ですが、 デザインの場面でもそれはでてきます。
(3)普遍性の希求
しかし今は(1)(2)を過ぎて(3)の段階だろうと思っています。
―(1)モノ(2)ヒト(3)環境適応システム
注1:第6回都市環境デザインフォーラムのなかの伊東氏報告「現代都市のリアリティ」、 とりわけ「人権を基礎としたデザイン」の項を参照のこと。
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