古の中のアヴァンギャルディズム
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東大橋家と倉敷の町並み形成について

倉敷市教育委員会文化財保護課 吉原睦

 

吉原

 これから東大橋家について、 若干ではございますが、 説明させていただこうと思います。

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倉敷市美観地区
 ご存じの通り、 東大橋家の位置する場所は国が選定する伝建地区の中にあります。 ですから東大橋家のことについては回りの街並みと一体として考えていただきたいと思いますので、 まずは伝建地区の回りの元倉敷と呼ばれる美観地区の歴史的経緯を簡単に説明していきます。


街並みが出来るまで

 江戸時代以前、 この辺りは「阿知の潟」と呼ばれる浅瀬の海でした。 陸地は阿智神社の山周辺だけで、 陸地が開発され始めたのは江戸時代直前の天正期になってからです。 その頃(1600年前後)になると、 今の美観地区あたりの土地は水夫(かこ)達が寄り集まって暮らすようになりました。 水夫とは船を操る人たちのことで、 戦があるときは水軍に駆り出されましたが、 その代わりとして漁業権を与えられており、 税金も免除されるという特権も持っていました。

 秀吉の戦役のために駆り出されたという話もありますし、 江戸時代に入ってからも水夫役(かこえき)をつとめたという資料もあります。 この人達が今の倉敷に住み着いた最初の人たちで、 倉敷の街は彼らが住んだ水夫屋敷(かこやしき)から始まりました。

 その後、 新田開発がなされ、 1600年代中頃(寛永年間)になると、 倉敷は村として発展してきました。 1600年前後の慶長期と比べると、 村の総生産を示す石高は2倍ぐらいになっています。

 また、 1642年(寛永19年)には天領として幕府の直轄下に置かれました。 これは、 かつて大阪冬の陣の頃に兵糧米を倉敷から送っているのですが、 その功労を認められてのことです。 それ以前は備中松山藩の管轄だったところで松山藩の港としての機能もあったのですが、 天領となって以降はこの辺りから上方への物資輸送中継基地としての性格が一層強化され、 村から町へ発展していくことになりました。


商人の街へ―古禄と新禄

 天領になって20年ぐらいたった1670〜80年代になると、 倉敷は都市として一層発展していくことになりました。 水夫屋敷は段々と細分化され、 元禄・享保を迎える1680年代に入ると組頭に総括されるようになります。

 また、 この頃には倉敷で定期的に市が立ったことも分かっています。 だいぶ賑やかだったと伝えられていて、 町場としての機能も充実していたと思われます。

 当時の倉敷で力を持っていた豪商は「古禄(ころく)」と呼ばれていました。 今日の会場となっている阿智神社へ来られる途中、 分厚い土の防火戸を2階に付けた建物(井上家)を見られたと思いますが、 この建物が倉敷に唯一残る古禄の町家です。 古禄と呼ばれた家は13軒あり、 阿智神社の宮番の株や酒造株を持てるという特権を持っていたり、 何百件もの店子を抱える地主だったりする、 昔の典型的な豪商でした。

 古禄が倉敷を支配する時代が百年くらい続いたのですが、 1790年代から1800年代になると新しいタイプの豪商が出現します。 東大橋家はこの中から生まれました。 彼らは経済の発展に伴って出てきた商人達ですが、 古禄に対して新禄と呼ばれました。

 古禄が数々の特権を持っていて村の役目も独占していたのですが、 新禄の台頭につれてその役目も譲ることになります。 もっともすんなりと行ったわけではなく、 古禄と新禄の間には激しい勢力争いがあったと言われています。 例えば、 年貢の割り当ては古禄が決めていたのですが、 新禄が割り当て決定に自分たちも参加させろと要求したり、 古禄の和泉屋が持っていた繰綿の特権を剥奪させ、 その権利を手中にしました。 もちろん、 村の政治を決める村役も古禄の独占ではなく、 その選出に住民参加させろと要求するなど、 古禄と新禄は様々なことで争った時期がありました。

 そうこうしているうちに、 新禄の勢力が古禄を上回るようになって、 明治時代を迎えることになるのですが、 今の倉敷の街並みを形作っている建物は大半がこの新禄の町家だったものです。

 建物の特徴を言うと、 町家のほとんどが塗り屋造りで蔵は土蔵造り、 意匠は倉敷窓や倉敷格子になっています。 また、 白漆喰仕上げでなまこ壁になっているのも特徴です。 いずれも1800年代に入ってからの新禄の町家だったもので、 その特徴が今もよく残されています。

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塗屋造(ぬりやづくり)・厨子二階(ずしにかい)
土蔵造(どぞうづくり)
倉敷窓(くらしきまど−扉つき)
 

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なまこ目地瓦張(なまこめじかわらばり−なまこ壁)
虫籠窓(むしこまど)
奉行窓(ぶぎょうまど)
 


大橋家の歴史と東大橋家の成り立ち

 大橋家は新禄と呼ばれた家のひとつなのですが、 東大橋家の本家である元大橋家の建物はすでに国の重要文化財として指定されています。

 元大橋家について簡単に説明しておくと、 屋号は中嶋屋と言いまして、 そこから分かれた家が東大橋家、 西大橋家など東西南北を頭につけた名前で呼ばれていたようです。 また、 別家大橋や、 川入大橋という呼ばれ方をされた家もあります。

 もともと大橋家は言い伝えによると源氏の出で、 祖先が豊臣家に仕えて大坂城を守ったという伝説があるそうです。 豊臣家が滅亡した後は京都に逃げ落ち、 五条大橋のたもとに移り住んだことから大橋を名乗るようになったということです。 大橋家が倉敷に来たのは1655〜58年(江戸時代明暦年間)にかけての頃で、 今の美観地区からちょっと外れた所にあった中島村に移住しています。 この頃に大橋家は農業を始め、 名前も今の大橋に変えたと言い伝えられています。

 今の場所に家を構えるようになったのは1700年代の宝暦に入ってからのことで、 その頃の倉敷はまだ古禄が力を持っていました。 この頃、 屋号の「中嶋屋」を使うようになったようです。

 それ以降、 大橋家は水田や塩田の開発をして段々と力を蓄えて大地主となりました。 ただ単なる農家ではなかったようで、 大名にお金を貸す「大名貸し」という金融業を営んでいたことからもそれが分かります。 天保の飢饉の頃にはお金を献上して名字を許されたり、 讃岐の塩田開発の功績で帯刀も許されたりしています。 江戸時代の終わり頃の文久元年には、 庄屋を三回も務めるなど倉敷の中心を担う家になっていました。

 ちなみに明治になってからは、 ご存じの通り大原家が倉敷の立て役者になって目立つのですが、 大橋家も倉敷の近代には典型的な庄屋として村政の一翼を担う重要な存在でした。

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東大橋家平面図
 東大橋家はそうした名家の分家になります。 昔のままの建物ではないのでこう言うのもなんなのですが、 ごらんになってお分かりのとおり、 見世棚があるわけでもなく、 一見商いをしていたように見えない建物です。 門も長屋門という典型的な武家屋敷の構えです。

 東大橋家は元大橋家の2代目の長男(1725年生まれ)が分家して構えたお宅だと言われています。 元大橋家の2代目が亡くなったのが1771年ですので、 1700年代の後半には東大橋家が誕生したと思われます。

 東大橋家は大名に仕える武士達にお金を貸していた形跡もありますが、 どちらかというと鶴新田(現在の倉敷市連島町鶴新田あたり)などの新田開発で家を発展させたお宅のようです。 お金儲けだけでなく、 社会的な責任も果たされたようで、 東大橋家の3代目は天保3年に村方三役のひとつの年寄に選ばれており、 村の政治にも参加していました。 6代目も年寄に選出されており、 明治になってからも村方三役のシステムがまだ残っていた最初期にその役を務めていたようです。

 明治に入ってからは社会情勢も変わりまして、 その頃の東大橋家の様子は詳しくは分からないのですが、 日本画家に学んだり、 中国画をたしなんだりと、 8代目・9代目の御当主は書画を愛する生活を送られたようです。 現当主の先代の頃はもう東京へ出られていたのですが、 先代は戦前のベルリン・オリンピックのラジオ放送権を買うためにヨーロッパを奔走するなど、 庶民にとって海外がまだ憧れだった時に、 すでに海外を仕事の場にしていた方です。

 東大橋家について、 現時点で分かっていることはこのぐらいですが、 最初に申し上げましたように伝建地区の中に位置する建物ですから、 全体の街並みの景観に合わせた再生計画にして欲しいと思います。 浦辺鎮太郎氏も「何か新しい事を始めるときは、 その土地の地理と歴史を把握する作業は欠かせない」とおっしゃっています。 水夫屋敷から始まる倉敷の町の歴史をふまえた上で、 東大橋家のことを考えていただければ有り難いと思います。

 断片的な話を並べましたが、 これで私の話を終わります。

     
     参考資料
     倉敷市による美観地区の紹介ページ
     http://www.city.kurashiki.okayama.jp/bunkahogo/machinami/sub3_bikan.htm
     倉敷市による大橋家の紹介ページ
     http://www.city.kurashiki.okayama.jp/bunkahogo/shitei/sub4_oohashike.htm
 
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