景観計画として優れているので賛成京都大学川崎雅史 |
私の専門は橋をはじめとする土木構造物の景観設計、 シビックデザインです。 その立場から、 形と景観デザインという側面を取り上げて賛成の理由を述べたいと思います。
パリに架かる橋のほとんどは、 ポンヌフをはじめ石の時代のアーチ橋です。 非常に重厚でしっかりとした物です。 それらは彫刻とか浮き彫りなどの王権や当時の政治的な象徴を表した装飾をつけています。 これは建物と一体になった華やかな装飾で、 橋が周囲の景観上の主役となっています。
たとえば写真1はその一つのイエナ橋です。 シャイヨー宮の建物とともに軸線を感じさせるシンメトリーな構成をなしています。 またナポレオン戦争の大勝利を記念して、 それを象徴する意味で鷹の装飾をつけています。
写真2はアレクサンダー3世の橋です。 比較的、 年代は新しいものです。 よくみるとプティ・パレの建物の装飾と欄干の装飾を一致させていることが分かります。
逆の方向から見た同じ橋です(写真3)。 アンヴァリッドと同様にデコラティブで豪華になっています。
いずれにしても、 橋は建築物とセットになって、 象徴的な装飾を持っていたのです。
ところが、 こういう装飾的な橋の中に芸術橋が突然できあがったわけです(ただしこの橋は何回か架け替えられていますので、 写真4の橋は1804年の当初のものではございません)。
芸術橋は最初、 ルーブルの景観を損なうと言われ、 大きな反対運動が起こりました。 要するに、 ルーブル宮の装飾を持たない橋として認識されました。
この橋は何も芸術的だから芸術橋と名づけられたのではなく、 芸術学校の学生がルーブル宮に通う橋として、 ナポレオンが新材料の鉄で作った橋です。 周りの重厚な装飾的な石橋にくらべると、 装飾が排除され、 軽くて、 あるのかないのかわからない透明な橋です。 それがこれまでの伝統と違う橋として、 パリの市民の一部から嫌われたわけです。
それが200年経ってみるとパリを代表するような価値の橋になっています。 それは何故かと言いいますと、 景観の中において主役ではなく脇役を目指した橋だったからです。 周囲の景観に対して透けていて、 周りの風景を生かしてじゃまをしない橋です。 写真5を参照しますと、 まるで人が舞台の上に立っているかのような、 人が水面の上に浮いてるような錯覚を与えるそんな橋だったわけです。 依然、 私はこの価値について、 橋と景観の論文の中で「舞台(STAGE)」という概念を提案しました。
またこういう風に透けているからこそ、 ここに渡った人には水辺が身近に感じられます。 また、 逆に橋の上の人も一つの見られる景観の要素となりえるのです。 これは芸術橋に固有のことではなく、 むしろ近代橋梁、 鉄の時代の橋の価値として位置づけられるのではないかと思います。 ポン・デ・ザールは、 鉄の時代の橋の洗練されたもののひとつとして位置づけられるのです。
ですから私は今回の橋も、 先斗町の町並みを主役として引き立てるだろうと思います。 透けた近代橋梁の形式の橋が架かるのは適切だし、 画一的な京都らしさを表現した主役の橋は必要ないと、 私自身は思っております。
写真5でも学士院の建物が主役になって橋は脇役になって透けています。
写真6もルーブル宮の建物が主役になって大きなインパクトを与えています。 これと同じように、 先斗町のファサードが主役になることが今回も実現されると思います。
なお三条や四条の橋から300mくらいに位置する橋だということですが、 京都市のパンフレットの中ではコンピユーターグラフイックスの予測が周囲より浮き立って写っておりますが、 実際には空気遠近効果がかかりますので、 霞が出て、 もっと輪郭がぼやけて見え、 強調されることはないのではないかと思います。
それによると今から130年程前に京都にも近代橋梁、 鉄の橋の時代がおとずれていたことが分かります。
四条大橋ですは明治7年に作られた鉄橋です。 明治の中頃までこのままの風景でした(写真7)。 これは周辺の祇園新地の市民が建設費を負担して作った橋で、 そのような意味でシビックデザインの幕開けを示す画期的な橋です。 鉄はすべて輸入品だったということです。
この四条大橋以外にも、 七条大橋(明治6年)、 五条大橋(明治12年)、 二条大橋、 観月橋、 宇治橋などが挙げられます。 伏見の京橋に至っては、 鉄のトラス+斜張橋のような形式です。
ドイツの景観ガイドラインでは、 例えば教会など重要な歴史的建物の景観と重なるような立ち上がりの高い斜張橋を近接することは許されていません。 そういうものを建てては先斗町の風景を分断すると思います。 しかし、 桁橋でこれだけ透き通ったものであると、 分断するということはないと考えられ、 これらのかつての京都の写真を見ていただいてもお分かりいただけるかと思います。
写真9も京都の琵琶湖疎水の水辺の風景の一つです。 鴨川以外にも当時はこういう形の近代橋梁が数多く架かっていました。 今から見れば装飾が排除された何の意味も持たない橋かもしれませんが、 非常に美しい風景だと私は感じております。 幾何学的な形で秩序を持った美しさを持っているのはないかと思います。 これも京都の立派な価値であると思います。
また、 私が一番言いたいのは、 21世紀に向けて19世紀の京都の風景の記憶を新たに再生することに繋がるのではないかということです。 ポン・デ・ザールをフランスの橋と考えず、 かつて京都にもあった鉄の時代の橋と水辺の風景の再現と考えれば、 非常におもしろいのではないかと思います。 京都の風景は奥深く、 橋一つで壊れるようなものではない。 常に時代の新しさを許容するだけの力を持っているのではないかと思っています。
にもかかわらず、 和風とか、 京都らしい景観とかいった言葉や概念にとらわれすぎて、 これをモチーフにそのまま親柱や欄干のデザインに反映し、 橋の本来的な形態の美しさが崩れている例が多いのではないかと感じます。
その点をもう少し考えるために、 これから土木学会の橋梁史の第一人者である、 松村博さんという方が書かれた『京の橋物語』という本から資料、 図面をお借りして、 京の橋の形を見直してみたいと思います。
例えば写真10は、 江戸時代の「淀川両岸一覧」という松山半山が描いた三条橋です。 これはスパンが3間、 5.4m程度で21組あるとのことです。 ただし、 三条大橋は江戸時代に20回近く架け変えられているため、 時代は特定できません。
欄干のプロポーションとか上部構のプロポーション、 それから下部構の5m程度の細いプロポーション、 こういった上部構と下部構のプロポーションのバランスが極めて美しいと思います。 全体のプロポーションのバランスが本来の橋の美しさです。 力学的なプロポーションとしても美しいものです。
現代の三条大橋は、 河川の水位の問題や橋の強度の問題から下半身のほとんどがコンクリートで作られています。 コンクリート柱で永久橋、 要するに流れない橋を作っています。
主桁は12mぐらいのものですが、 先ほどの5mではなく、 およそ10m近いスパンがあるわけですから、 太い脚です。 写真12のように下部構は威圧感を持っています。 上部構は写真13のように和風のままの橋ですので、 とてもアンバランスな橋です。 ですから、 ポン・デ・ザールがどうこうと言う以前に、 三条大橋をはじめ、 プロポーションの悪い橋を修景して欲しい。 そのぐらいの意気込みがあってもいいんではないかと思っています。 上部構と下部構のバランスの悪い橋は、 最悪です。
ところで写真14は四条大橋から三条大橋を見た所です。 画角35ミリでとってなるべく実際に見た感じを再現していますが、 三条大橋で実際にシルエットが見えるのは、 汚いといえば言葉が悪いかもしれませんが、 昔とは全然違う、 現代にしか存在しない太い橋脚の林立だけです。
またこの風景には、 一部には屋根瓦が残っていますが、 コンクリートの建物のファサードだとか、 護岸など近代的な要素でほとんど占められています。 その真ん中に透明感のある鉄橋がかかっても、 全然問題がないと実感します。
写真15は和風という概念にこだわるとどういうことになるかという、 もう一つの例です。
建築家の武田吾一が設計した出町柳にある河合橋です。 上部構は和風で、 石造りの灯籠や明かりみたいなものがあります。 高欄もそうです。 上は非常に重たい感じがします。 下部構はスチールの橋桁です。 非常に軽い感じがします。 これはやはりバランスがとれていない。 要するに和風と現代橋梁の折衷で、 そういうことからくるアンバランスです。 かなりの努力の跡が見られますが、 建築の大家でも、 和風という一つの呪縛から逃れえなかったために、 アンバランスを避けられなかった。 この種の問題は、 鴨大橋、 荒神橋、 北大路橋などにも見られます。
写真16は賀茂大橋ですが、 和風と近代橋梁が混在し、 軽快さと重々しさが同居しています。 このように上部構と下部構がバラバラな橋は、 世界中の橋を見てまわってもほとんどないのではないかと思います。
むしろ土木構造物には、 和風や京都といった別のコンセプトを設けようとせず、 現代橋の中で上部構と下部構をバランスさせ一体化させるほうが美しいと思います。
平成3年に作られた写真17の西賀茂橋には何の装飾らしい装飾もありませんが、 桁が明快な水平線を表し、 しかも橋が脇役となって北山の景観を生かしています。 デザインとしては成功しています。
ちゃんとどの時代のどの形式なのか、 どの様式なのかということも定義できないにもかかわらず、 和風といったものを求められても、 橋自身がかわいそうなことになるだけだと思っております。 土木構造物は、 周囲の景観を引き立て、 自身は厚化粧するのではなく、 構造全体の美しさをいかに表現していくかが最も重要でないかと考えます。
例えば「先斗町は、 ポルトガル人が来たときに、 その風景を見て、 橋のたもとの美しさを感じて先斗という言葉をつけた」というような御触書が先斗町の入口に立っています。 これは京都の物語を示す一端になるのではないでしょうか。 シラク大統領がどうだこうだという政治的な話は時が経てば忘れられることです。 一つの御触書を立てるというか、 異国との友好といったことでつくられた橋があるという物語が重要ではないかと思います。 また、 そういうことは文化や風景の懐の深い京都であれば十分受け入れられると思います。 古くから京都の市民は、 新しいものであっても、 うまく風景の中に納めていくという意識も技術も持っていたのではないかと思います。
その辺が京都市の縦覧に対し、 修正付き賛成も含めると大体90パーセントの賛成と聞いておりますが、 そういった多数の賛成が得られた一つの裏付けになっているのではないかと思ってます。
景観に透けた鉄の橋である
鉄の橋梁は19世紀の京都の風景である
本質的に形の美しい橋である
現実的な最適解
逸話をつくることができる
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