秋津 伶
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エセ・ロマンティック

日時計

A5函入 341ページ 沖積舎

1983年(昭和58年)刊行 本体3500円+税

◎あとがきより

  日時計とは、永劫に回帰するものの比喩である。人間が人間であることの、人間が人間でしかないことの、超えられない限界を、わたしは示したかった。限界を 定めるのは、たしかに人間である。しかし、司っているのは言葉なのだ。人間は言葉によってしか、体験を体験化できない。わたしたちはその秩序である論理と 物語に捉えられ、生は辛うじてその内側で養われている。世界は言葉によって構築されたものでありながら、言葉によっては、それを乗り超えることはできない のだ。主人公の敗北の地点、肯定が肯定でなく、否定が否定でない地点に、日時計は立っている。人はさまざまに解釈しうる定められた自由をもって、その沈黙 の中心をめぐる。時代の衣裳だけが、盤面を移り変わってゆく。四つの文体、記述方法による、これはわたしなりの全体小説の試みである。慣習上、わたしをい ま主語として記しているが、真のわたしはいないのかもしれない。おそらくは言葉、一陣の苛立たしい風がそうさせたのだ。作者はわたしでありつつ、誰でもな い。

◎埴谷雄高評

(『埴谷雄高全集第19巻 補遺・書簡・付録』講談社)III、付録本の帯・推薦文に掲載 2001年3月20日刊

  思索的主題を一貫して持続せしめようとする作品は、これまで、吾国において、屡々、難解で、観念的で、不器用で、感性の豊かさを持たぬといわれてきた。吾 国の風土において、思想小説は確かにそのような危うい傾斜と断崖に直面しているけれども、人間が考える存在であるかぎり、文学の世界において、思想小説な しには、一つの全体性をもち得ぬことも明らかであって、この秋津伶『日時計』の出現は、いわゆる戦後派の努力の冒険の持続であって、大きな骨格をもった作 品のつぎつぎの輩出の呼び水となることをひたすら期待する。

◎書評

――毎日新聞社1983年8月13日夕刊――「変化球」より

  また、埴谷雄鷹『死霊』圏内の作品が現れた。秋津伶『日時計』(沖積舎)である。四部構成、三千枚の作品で、見るだけでうんざりする向きもあろうが、立木 鷹志『虚霊』も書かれていることでもあり、『死霊』は確実な土壌となって、〈存在〉論系列の作品を生み出しているのである。
 もっとも、『日時計』は『死霊』とはだいぶちがう。〈存在〉自体に執拗に迫る意識ということは共通な出発点だが、『日時計』が次にぶつかるのは〈言葉〉 なのだ。人間は言葉によってしか存在に迫れない。作者はそれを人間の限界と認めてしまう。『死霊』は「あっは」や「ぷぷい」でこの限界を超えようとしてい るから、〈存在の革命〉という異様な観念に到達し得たのである。だが、言葉を限界としてあっさり認めてしまう『日時計』は神話英雄譚にまで後退し、ついに はヤマトタケル神話の哲学的再構成に沈没してしまうのだ。その努力は多とすべきだが、折角の〈存在〉への執拗な問いが余りにも常識的な観念と思惟に落ち着 いてしまった。

――サンケイ新聞社「正論」1984年1月号―「BOOKS」新刊ダイジェストより

 人間とは何か、人間存在とは何か、の困難な問いをもつものにとって、その人間存在の奥深い地平を垣間見せられたとき、恐らくある種の恐怖感とともに、魂がふるえるほどの感動をおぼえるものであろう。 本書はまさにそのような感動を与えてくれる作品である。
「四つの文体、記述方法による、これはわたしなりの全体小説の試みである」(あとがき)と作者自身も語るように、本書は、それぞれに文体の異なる四つの章より成り立っている。
 第一章は、機動隊に逮捕された主人公が拘置所の独房の中で、人間とは、存在とは、意識とは、を考える。混沌の意識そのままに、実に一九六枚もの長さを、 一行の改行も成しに、「現象」が記述されてゆく。がしかし、混沌の意識はしだいに収れんされていき、第二章につながる。
 第二章では、人間存在の始源である「ことば」を問う。ことばの神秘をことばで問いつめていくことの限界と力が見える。
 第三章は一転、人間存在の根源を神話の世界に求め、倭健命を主人公にする生の味わいにあふれた物語に。そして第四章は、永劫に回帰する関係をみる。
 哲学的主題を実験的文体で見事に描き出した、本年最大の収穫の一つといえる。
  


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