秋津 伶
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秋津伶
エセ・ロマンティック

キュテーラの鳩の首は動きに応じて輝く


A5変形 307ページ ゾーオン社(発売・刀水書房)   
1988年刊行 本体3500円+税

◎あとがきより

 持続する者に、究極の悟りはない。空でもなく色でもなく、空と色の間に、「私」があり、「出来事」があり、「歌」があり、したがって文学の生命がある。生命があるかぎり、人間は生きる。亡霊によってのみ、生き続ける。
 甦り、語りかけ、憑き、導き、ときに誤らせ、去っていくもの、言葉。この作品は、立ち現れる亡霊の正体を見極め、生け捕りにせんとする試みである。併せ て、「世界」の完成と「私」の完成、さらには「歴史」なるものを、いま一度、疑問符を付けた構文で提出しようとするものである。
 あらためて開かれた、いわば言葉による生の永劫回帰。断るまでもなく、文学作品においては、いっさいの出来事は、言葉の出来事としてある。この記述され た記述のなかで、その味わう味わいによって、生が生きられるならば、仮説は実証されたことになる。あらゆる場合と同じく、読者が「作品」を完成させるので あるから……。

◎中村真一郎評

『読書のよろこび』新潮社(1991年刊)に収録 

――毎日新聞社1990年2月19日夕刊――「上」

 歴史小説と伝記というふたつのジャンルは、歴史という過去の客観的な記録と、作者の空想の関与の度合いによって、後者の要素が大きければ小説になり、前者の要素が大きければ伝記と呼ばれるわけで、その境界は必ずしも明確でない。
 今回はその境界の両側のふたつの作品によって、歴史と虚構という、ふたつの相反する精神の動きを同時に満足させる文学の世界を眺めてみたい。
 その第一は、秋津伶『キュテーラの鳩の首は動きに応じて輝く』という、ローマ皇帝ネロの遺した詩の一節を表題とした物語である。
 これは、例のウェスウィウス山の大噴火で、ポンペイやヘルクラネウムなどの、歓楽を極めた都市が溶岩のなかに埋没した、紀元七十九年の、灰の降りつづけ るローマの街を、数年前に皇帝ネロに、反逆罪の疑いで死を賜った、若いころの皇帝自身の家庭教師をつとめたこともある、ストア派の哲学者セネカの、死に至 るまで秘書をつとめた一人物の、この噴火後五日間の日記という体裁の小説である。
 このローマ末期を背景とした小説で有名なのは、前世紀の終わり近く英国で出たウォルター・ペイターの『エピクロス派のマリウス』とか、今世紀第二次大戦 後の、マルグリット・ユルスナール女史の『ハドリアヌス帝の回想』とか、前者は架空の青年、後者は実在の皇帝を主人公とした、いずれも当時の思想状況を背 景に知識人の人生観の形成を描いた教養小説なのであるが、これらの先蹤にならって、やはり、世界の滅亡の予感におののきながらの主人公の精神形成の物語な のである。
 ところで、作者は物語の初めに「翻訳および刊行者の辞」という、偽の註をつけていて、それによると、この「日記」は「一九八三年夏、ローマ郊外のオス ティア街道沿いにある帝政末期の遺跡から発掘され」た、「大量のラテン語パピルス紙片」の「翻訳」だということになっている。
 そして、その架空の筆者はセネカのもとの「書記生」で、「タキトゥスにセネカの死の前後を報告した者」という設定である。
 現にこの大歴史家の『年代記』のなかには、セネカが死に臨んで、おのれの湧き出てくる思想を書記生に口述した、という記述があり、それは出版された筈なのに、原物が残っていないそうである。
 ところで、この書記生、秘書は、師の戯曲『オクターウィア』の本当の作者だと名乗っている。セネカの書いた戯曲のなかで、唯一の現代物であり、皇帝ネロ が妻オクターウィアを死に至らしめる事件を扱い、そしてネロもセネカ自身も登場する、この奇怪な戯曲は、大概のローマ文学史では、作者の別人の疑いが濃い と記しているので、作者秋津伶氏は、そこにつけこんだのである。
 この架空の人物は、大噴火という現実の歴史的事件のなかで、ギリシャやローマの哲学者たちの著書を漁りながら、ストア派の説く「永劫回帰」の思想を、自 らの内部で完成させようと努力し、ネロの放火によって廃墟と化した墓地で、セネカの真似をして手首の血管を開いて死の実験を試み、それが化膿して、キリス ト教徒のルカの治療を受け、その医者からギリシャ語で書いたキリストの伝記(つまり『ルカ伝』である)を借りて、読みふけるが、唯一神というところに馴染 めず改宗できないで終わる。
 しかし、この「小説」は西洋古代哲学史の流れのなかの、作者の人生観発見のための壮大な苦闘の記述であり、私たちはソクラテス以前から、プラトンとアリ ストレスを通って、ローマの哲人たちの思想のあれこれを、作者と共に、小説らしい、具体的な現場において、読み直すという、面白い知的快楽を味わうことに なる。
 要するに、驚くべき学識に裏打ちされた、大変に凝った小説であり、日本からこうした小説が出現したのは奇蹟というべきか。

――毎日新聞社1990年2月20日夕刊―― 「下」
 秋津氏の場合、当時のローマの文献の翻訳だという建前から、日本語の訳文にも、おのずからラテン語の原文を彷彿させるような表現が要求される。
 初めの部分には、「先を競って金持ちの老婦人の陰門に殺到し、その分け前にあずからなくては、貧乏人は生きてゆけない」とか、「臆見は精神の平静を乱 し、人をますます不安におとしいれる」というような、ローマの風刺詩人やストアの哲人のいかにも書きそうな表現が出てきて、読者をその雰囲気に導くが、や がて作者のなかの小説家的本能が物語を自由に展開しはじめると、奔放は空想が、後世の『ハムレット』の台詞やヴァトーの名画『シテールへの旅立ち』やヴァ レリーの短詞『失われた歌』などに秘かに目くばせをしてみせるという、大変にいきな時代錯誤の面白さに転じてきて、文学中毒の読者をおもしろがらせる。

◎書評

――世界日報1988年7月18日――

  哲人セネカの書記がつづったとする五日間の日記の中に、ヴェスヴィウスの降灰の下で右往左往するローマ市民の恐怖と形而上的なモノローグが展開される野心 作で、日本人の手になるものとしてはめずらしくグレードの高い作品である。いささか冗長な表題は作中で印象深く用いられているネローの詩句によるが、そこ らにも、作品の基調となる生の永劫回帰や、アルスティッポス流の不可知論、『サテュリコン』の作者ペトローニウスの懐疑主義の反映が色濃く見てとれよう。

――週刊読書人1988年9月19日夕刊――
 言葉による生の永劫回帰 月並みな小説の殻破る実験作  山下 武(作家)

 暴君ネロの治世を生きた無名の一青年の日記に仮託、・言葉による生の永劫回帰・をテーマとした野心作である。
 主人公ガーイウス・ルスティクスは哲人セネカの書記として登場するが、〈非ー知の暗闇〉をさまよい、「はたして、純粋な現在はあるのか、ないのか」を自 問しつづける。疑わしいのは現在ばかりではない。純粋であるべき個人にしてもそうだ。「すべては繰り返される」としたヘーラクレイトスの考えを徹底すれ ば、個人もまたエンドレスの時の大河の中に溶解するからである。ガーイウス・ルスティクスなる不覇の存在も、師のセネカばかりか、ペトローニウス・ネロを も含めた複合人格でしかない。ヴェスヴィウスの降灰の下を警戒にあたるローマ軍師団長と主人公の問答に同一性と差異性の哲学的命題がチラリとのぞくのもそ のためだ。
 「いま一度だけ訊く、お前は誰だ」
 「人間だとわたしは答えている。署名だけがされており、中身にはなにも書かれていない封筒だといっている」
 「哲学者か」
 「そう、さきほどまではセネカであった」
 「詩人のつもりなのか」
 「そう、さきほどまではネロでもあった。わたしは詩人となり哲学者となって対話していたのだ」
 「二人ともすでに死んでおる」
 「人はいつも死者たちと生きている。言葉の化身である亡霊たちにとりまかれ、彼らの囁きから逃れきることはできないのだ」
 セネカの朗読用悲劇『オクターウィア』の影の作者を無名のルスティクスだとする著者の意図もここにあるというべきだろう。書記ルスティクスは彼自身であ るとともに、またその師セネカでもあるからだ。だが、彼が求めてやまない「純粋な現在」が動きに応じて輝くキュテーラの鳩の首のような実体のないものであ るとしたら……。時の大河の中に呑みこまれまいとしたルスティクスは、生涯の最後の五日間の日記を書くことによって、過去と未来である現在を超越すること に賭ける。
 「わたしは賭けた! そうだ、たまたまの、そして必然化されたこの五日間に賭けたのだ!これら未来でありながら過去であり、わたしによって完成され、回帰される永遠の現在の五日間は、永劫回帰説の新しい折り目となるべきもののはずだ」
 `皇帝ネロの遺した詩の一節を標題とする新しい小説の試み`とは腰巻の謳い文句だが、本書は日本には珍しい観念小説であり、由来、この国の風土には反小 説、観念小説が育たないとされる。秋津伶の目指す、月並みな小説の殻を破った実験作がー手法上の問題も含めーどこまで成功するかは、今後の作者の精進にま つべきだろう。

 


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