一写生俳句
作句上のコツ
五、何を書くのが俳句か 今回はどう言う事を書けば俳句なのかと言う事を詳しく書いてみましょう。俳句は大きく分けて心に感じた事を書くのと、感覚で感じたものを書くのと二つあります。しかし心と言っても人間の中には感覚も混じっているし、反対に感覚で書いても心も入っています。その場合これは心で書いた俳句か感覚で書いた俳句か、何を基準にするかと言いますと、心で感じた事が中心になっていても仕上げが感覚的に仕上がっていれば、それは感覚俳句です。又反対に感覚的なものが殆どを占めていても、仕上げが思いになっていると、それは心情性の俳句だと言う事になります。俳句は写生(花鳥風詠)から始まりその内に生活俳句に入ります。生活俳句は心で思った事が書きやすいのですが、日記みたいなもので自分では良かっても 、ひとの作品は余程佳いもので無いと、読み手にはつまらないものです。そこで心を感覚で書く方法に心象俳句と言うのが一時もてはやされた時代がありました。ところが心象俳句は自分よがりで景色が汚いのです。そこでもっと美しい表現を求めて、感覚を磨き感性で虚構の世界を書くのが、高度な作品として沢山の人がそこを求めました。ところがそれが行き過ぎると今度は言葉遊びに近くなり、俳句から遊離してしまうので、尚高度な表現法を求めて、現実の景を感性で表現する虚実の世界を書くのが現在では一番高度な手法とされています。ところがこれも芭蕉翁が言われた「不易流行」と言う処の、感覚で感じたものを書くのが「流行」で、心で感じた事を書くのが永遠にすたれる事のない心情性の俳句で、「不易」です。今一部の人を除いては最高とされている虚実の俳句は、心が書かれていても感覚俳句仕上げになったいるので、「流行」でいづれすたる事になるのです。それに引きかえ永遠に変わらない不易の俳句は、虚実俳句から二段階レベルアップすると有情のレベルに達します。有情とはアニメイトビィングと言ってアニメ映画の様に動きがあり、内容は人の心が書けている事です。本当の俳句はここに到達して初めて書けるのです。現在は十七字にまとめさえしたら俳句だと思っている人が多いのですが、報告に過ぎないものや説明に終わっているもの、きべんや噂話の様なものは俳句ではありません。美しい心と美しい感覚で表現出来る人が、詩人であり俳人なのです。
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