読手優先で読手が楽しむのが俳句

俳句は一般的に難しい物と思われているらしいですが、本物の俳句は他の文学や芸術それに芸能等と同じ様に、観賞者が楽しくなる様に作られています。
とは言え現在の俳句は、説明をしないとどう言う事が書いてあるのか分からないのが殆どです。
それは何故かと言いますと大方の作品が、本物の俳句へ至る道中の言わば練習中のものだからです。
俳句は誰でもがすぐに取り付く事が出来ますので、多くの人が作り出します。
そして短いので、すぐに良い作品が書ける様になると思いがちですが、俳句はどんな文学の形態より難しく本物の俳句が書ける迄には色んな要素が必要で、作り手は本物の俳句が書ける迄にはどれだけの習熟が要るか知れません。僧侶の修行の様に精神の高揚迄求められます。
こうして俳句を作るのは大変ですが、出来上がった本物の俳句は観賞者には何の知識も求める物ではありません。唯日本語が素直に読めれば良いだけです。
一般の方が読まれて瞬間楽しいと感じられる俳句が書ける様になれば良いのですが、句作の長い習練の過程で、比喩で書く手法が高度になって来ますと、作る側は難しい事をこね回わす様になります。最近も長谷川櫂氏の俳句の読み方を引用して俳句評論を書いている人がありましたが、それに依りますと長谷川と言う人は“古池や蛙飛び込む水の音”の句の読み方で“古池”は芭蕉が想像された池でこの池は実在しない池で、蛙は一匹近くの川へ飛び込んだのだとか、金子兜太氏は二物配合と言う読み方でこの句を“古池があってそれとは別に蛙は深川辺りの川に飛び込んで音をたてたのだ。それも一匹では無く数匹飛び込んだ音だ”と言う読み方をしています。
この人達は読み方を探って自分なりの読み方を発表していると思われますが、それらはその人の作句力の範囲で読み方を見つけていると思えます。
しかし本物の俳句はもっと高度な所で読むと、易しく読めますので誰でもが瞬間に感じる情感が、楽しめる様に読むのが本当の俳句の読み方なのです。
この句の読み方だけでも色んなのがあって俳句と言う、たった十七文字の文学に理論があまた出てくるのは面白い事です。
私は“古池や蛙飛び込む水の音”この句を字面通りに素直に読みますと、古い池が瞬間見えてその水面に水の輪が広がって行くのがイメージで見えます。そして水の音は情感として良い感じで風雅な後味が残ります。私が思いますには俳句を書かない一般の人も私と同じ様な感じで、この“古池”の句を読む人が大方だろうと思います。こうして字面通りに素直に読めば長谷川櫂氏の様に“古池”は架空の池だ等想像する所はこの句の表現の中に何処にも有りません。
古くぼろい苔むした池に蛙が飛び込んだ、そしてその音がしたと読むのが、この句がそう読ませている妥当な読み方だと私は言い切ります。
仮に芭蕉が想像された古い池であっても、この句の表現の中に架空の池だとか思いつきの表現だとかそんな事は一切感じません。
だから本当の俳句は素直に文字面通りに読んで楽しめば良いのです。
俳句を作ろうと思えばそれなりの習熟がいりますが、観賞は他の色んな芸術や文学と一緒で観賞者は楽しめば良いのです。
一般の人が映画を見て来て感想といえばストーリーや演技者の魅力を思い出して話をするでしょうが、撮影の方法がどうの原作がどうのと作り手側の事を、とやかく言うのは評論家で、お金を出して楽しんで来た人は画面をすんなり受け取っておくのが普通です。音楽会でもその名曲の素晴らしさに酔って楽しんで来るもので、あのピアニストはあの音を出すのにどんなに訓練したかとか、あの楽器はどうして出来たかとかそんな事を思って聞いている人は特殊な人で、音楽を聞きに行くと言う人はその演奏に酔いしれたいから行くのであって、それを聞かせる人も舞台裏の苦労はその音楽に一切感じさせません。もしそんな苦労が一瞬でも観客に感じさせたらその演奏者は未熟だし、観賞者に好評は受けられません。小説でもそのストーリーに読み手を引き込む力が無ければ、その物語は中途で捨てられてしまいます。
俳句もよい物は何時迄も人の口の端に残りますが、完成されていない句はすぐに消えて行きます。
近年作られたおびただしい現代俳句の中で一般の人達に知られ記憶に残っている俳句がどれだけあるでしょうか。私は皆無だと思います。唯現代俳句を書いている人達の中には高柳重信の〈船焼き捨てし船長は泳ぐかな〉とか富澤赤黄男の〈蝶堕ちて大音響の結氷期〉等の様な句が現代俳句を語る上で、俎上に上る事はありますが、現代俳句を書いている人の中で自分の句以外に覚えている句がどれだけ有るかと言う事です。私はこれ又皆無だと思います。それは何故かと言いますと、作品としてその句は未熟だから消えて行くのだと言えます。芭蕉や一茶の句でも晩年の完成された句が十句づつ程今でも新鮮に読まれていますが、それ迄の莫大な数の句は研究する人が読み返すだけで、普通に読む人にとっては何も面白く有りません。
どんな日常品でも芸術、文学作品でも受け取り手が楽しかったり便利だったりすると、その完成品をお金を出して求めますが、その要求にそぐわない物は未熟だと言う事になります。
従って俳句も一般の人が素直に楽しめるものが本物だと言う事です。一般的に俳句は難しいとか特殊な人だけが馴染む高尚なものだと思われているらしいですが、俳句とはそんなものでは無く究極の本物の俳句を観賞するのは簡単で楽しめるものです。

平成十九年五月     磯野香澄

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