〈俳句私論〉(2)

俳の体感性

先の稿で俳句は鑑賞する文学だと書きました。又、俳とは人に非ずで憑る文学だとも書きました。そして今度は俳句は体感する文学だと書きます。
俳句を鑑賞するのに体感等する事は有り得ないと思えるでしょうが、完全な作品は多かれ少なかれ体感しているのです。
それを知らないで鑑賞した時、句によっては、心に異常が起こった様な感じがしてびっくりして怖い様な不安な気になる事がありますが、それが体感している事です。
優れた作品は憑るので読んだ瞬間、感覚が四次元的に働いています。“体感”それは句の中に溶け込む又は感応する事ですから其の句と一体になって楽しめば良く、怖がる事も不安がる事も無いのです。そこが佳いのですから。
こうした事が面白くなりもっと俳句を、勉強しようと思って名作をと思う時、手っ取り早く古典でと思いますと、言葉や環境が理解出来ないと、俳句そのものが読めなかったり、間違って解釈する事が多く、その点を解明しようとすると又むつかしい問題に直面する事があります。
私は芭蕉の俳句を研究し始めた時、先に持っていたのと同じ様な〈奥の細道〉を又買って来ました。
それは二冊の書き方を比較して読む事にもなりましたし〈奥の細道〉は色々な出版社が売り出している事も分り、そしてその二冊を読んで、出版する側も芭蕉の句が的確に読めていない事を見つけました。
中でも面白いと思ったのは“行く春や鳥啼き魚の目は泪”の句です。
ずっと以前にこの句は先輩から、「魚の目は泪」と言うのは誤りで「魚の目に泪」が正しいと一般的に言われていると話して貰った事がありました。
私も今迄此の句の助詞はなぜ魚の目“は”泪なのか、ずっと疑問に思っていました。でも此の言い回しにとても惹かれるものを感じていました。それが思わぬ事から“は”か“に”か、どちらが正しいか、一挙に解決したのでした。
それは此の俳句の字面通りに素直に読んだ事によって、内容がはっきりして体感した事からでした。
後から買った方の本には芭蕉が句を改作された部分が無く、その替りに現代語訳と言うのがあって、そこには俳句迄訳してと言おうか解説してありました。
その一つに先の“行く春や鳥啼き魚の目は泪”と言うのが目に付きました。その文の侭をここに記して見ますと「行く春とともに人々と別れ行く私の目に浮かぶ惜別の涙、心なしか鳥のなく声にも哀愁が感じられ、魚の目も涙にうるんでいる様だ」と書いて有るのです。やはりここにも“魚の目に泪”と読んで、訳して有りそして“は”は“に”になっています。
この現代文訳は状況からしても矛盾しています。芭蕉は死出の旅に出る訳でも無いのに何故悲しむのか。
この魚の目の句を例にとって、俳句が完全に読めた時どうなるのか、一番伝えにくい体感する部分をなるべく具体的に説明したいと思います。
体感すると言う本題の説明の前にこの句の“は”の読み方から説明をする必要が有ります。先にも書いていますが“魚の目は”が間違いで“目に”では無いかと言うのが定説になっていますが、間違いでは無く“は”で良いと言う事がはっきり言えます。これも又説明をする必要があります。
それでこの句は何が書いて有るかと言う事を、最初から解明して行きますと先ず“行く春”とは五月頃の爛春で色んな花が咲き乱れ、鳥は恋の歌を囀り生命がみなぎっている時季です。又それを裏付ける言葉として“なく”と言う文字は“啼く”と書いてあります。この文字は口偏に帝です。これは悲しくてなく時とは反対で謳歌する時に使う文字です。だから“行く春や鳥啼き”とは爛春を鳥が謳歌している様子です。次が問題の“魚の目は泪”ですが、芭蕉がこの句を作られたのは三百年も前の事です。草鞋を履いて歩く足には“魚の目”が出来て其れが小石を踏んだりすると痛くて泪が出る程です。この先の長旅を思えばこの魚の目が出来る足を頼りに歩かなければならない。この“魚の目”は泪ものだ。と言う事になります。これを通してもう一度書きますと〈爛春の花は咲き乱れ鳥は恋の歌を囀り生命に満ち溢れたこの季節、旅立つのは良いがこの足の裏に出来る魚の目はこの先を思えば泪ものだ〉と言う事になります。
この様に私が買った〈奥の細道〉の解説者が“は”を勝手に間違っている等と現代語訳して「魚の目に泪が溜っている」と書いています。
従って解説者が想像して語っていますのでこの訳は俳句の内容と読み方が全く違っています。
それ故先に書いた様にとんでもない想像で読んだりする事は大問題です。
ここからが本文の体感する俳句の説明になるのですが“行く春や鳥啼き”で爛春の生命がみなぎっている情景が感じられます。鳥の啼く声が聞こえてきます。そして芭蕉のちょっとした旅立ちの不安な心が伝わって来ます。この様に読むと読み手は三百年前の一人の旅人になってその情景を体感しています。
俳句を鑑賞するには何と言っても句を正しく読む事が大事で、書いてある文字以外には想像で文字を変えたり、付け加えたりする事は絶対してはならないと言う事です。又文字の意味を正しく理解する事です。そして書いてある内容の通りに読みますと、完成した句は“体感”して瞬間その句が読み手の物になっているのです。
俳句は数学や物理の様にきちっと理に叶っていて、宗教の様に高い精神性を持っています。
言葉の妙を駆使して書きますと、おのずから表現が簡潔になって俳句は作者から離れて、読み手が体感して読み手の作品になります。
この様に読み手が自分でその情景に臨場して現実として感じているのが体感している事です。

平成十九年八月     磯野香澄

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