感覚俳句と心情俳句の相反する所

この項では、先ず感覚俳句と心情俳句の違いを書いて、その後で内容を詳しく書きたいと思います。
第一に、感覚俳句は作者の感覚で感じた事を書きます。
心情俳句は作者の心に響いた事を書きます。
次に感覚俳句は創作で比喩で書きます。
それに反して心情俳句は作り事では無く有った侭を書くドキュメンタリーです。
三番目に、感覚で書く現代俳句は、内容に何が書いてあるかと読んで判断します。
心に感じた事を書いた心情俳句は、文字は読んでも内容は読むもので無く心で感じます。
四番目に、感覚俳句は作者が感覚で書いた事を読み手は思いで受け取ります。
反対に心情俳句は心に響いた事を俳句に書きます。すると読んだ人は感覚で受け止めます。
五番目に、感覚俳句を評論する時、その作品を誉めるのでは無く作者を誉めます。
心情俳句の鑑賞者は作者を誉めるのでは無く作品に感応し作品を誉めます。
この様に感覚俳句と心情俳句は相反する内容を持っています。
そこで現代俳句がどの様に進化して来たか、そして心情俳句がどんなものかを書いてみたいと思います。
現代俳句と総称される雑多な感覚俳句は原点を如しとしたなぞりの俳句です。なぞりの俳句は大正時代から盛んになったらしく、昭和初期の作品にも「如し」と言う文字の入った作品が沢山有ります。
その後、十七字の中から如しと言う文字は無くなり、その分比喩の仕方が高度になりました。その辺りから前衛俳句と言われる多種多様な比喩俳句へと進むのです。
現代俳句の表現法は文章として捉えた場合、それは高度な所に位置するのですが、俳句は文章の高度さを作品とするものでは無いのですから、その高度なテクニックで何が書いてあるかと言うのが問題で、読み手がそれらの作品をもっと読みたいと思う位良い内容であるかどうかと言う事になります。
俳句は他の文章と違って十七文字にする為に、言葉を省略したり端折ったりしてその上、比喩で表現してあるので、余程精通していないと何が書いてあるか分からないものですが、ルールが自ずとあって、きちっと書けているものならどんな作品でも読めるものです。しかしそれが段々高度化されて、今度はその表現に慣れ親しんだ者でも何が書いてあるのか分からないと言った現象が起こって来ます。そうした良い作品が多く有るのならそれはそれなりの、感覚俳句の領域で良いのですが、文法的にちゃんと書けているかと言えば問題が無い訳では無いと言えます。そこでその作品をどう読むかと言う事になります。いずれにしても感覚俳句は何が書いてあるかと、内容を判断して読むものです。それでは比喩で書く感覚俳句はどう言う事かと言いますと、例えば子供がスリッパを裏返して「ステーキみたいだ」と言ったとしたら、成程と感心します。そしてこの何々みたいだと感じた子供の感覚を誉めます。これと同じく比喩を元に作られた現代俳句はその比喩をうまく綴った作者を誉めます。
それは何故かと言いますと、その句に書かれたなぞり又は如しで表現されたものは作者の感覚で捉えた、そう感じ取った作者独自のものだからです。
この様にして進化した現代俳句は、一つの表現の仕方を確立させた人が前衛の旗頭として、次々一派を形成して行きました。
如しの表現が高度に書ける様になって、現代俳句の先達がなぞりをうまく取り入れ賛美されると、後続は自分もああ言う風にうまく比喩して読み手に、成程と誉められたいものだと思う様になります。
又読み手は先達の句が読めないと自分が劣っていると思われるので、先達の句だどんな愚作でもそれを無理して読もうとします。
そして自分流に解釈して「この作品は私にはこの様に読み取れてこう言う風に表現されるのは非常に素晴らしいと思いました」と作者を誉めます。
そこで作者は自分の意図と違った作品の読み方をされていても、
「そんな風に読み取って貰って気付かなかった範囲が増えました」と喜んで作者と読み手は意気投合する事も良くあります。
多くの現代俳句の読み手は、先達が絶対優先と言う事でおかしいと思った処を指摘して、自分が読めないと言われる事を恐れどんな作品にも迎合してしまいます。
中には先達によって自分でも何を言っているか分からない様なものを作品として発表し、それを難解俳句と迄言って横暴を極めると言う事さえ有ります。
現代俳句はあくまでも上層部の作品優先で定着して来ました。
こうして感覚俳句は作者の権力の力量が誉められ、どんな場合でも誉められるのは作者なのです。
この様な作者が楽しんでいるのが感覚俳句で、それに迎合して後続も似た様な作品作りに励みます。
では後続の作品はどうかと言いますと、読み方のルールからひどく外れたものでもまかり通っている事が非常に多くて、ここにも権力の影響が現れていると言えます。
それらの作品がどうかと言いますと、主に表現の未熟なのが多い事、次に感性が貧しい事、又作者の自分勝手な事が綴ってある等で五句も読めばもう沢山と言った感じのものが大方と言うのが実情です。
中には旨い比喩が書いてあっても文法的に未熟で惜しいと思うものも有りますが、こうした作者は殆どが独学に近いので上達に年月がかかり過ぎているのだと思われます。比喩の世界もなかなか面白いものですが、全体的に手法を伝授するとか不備な所を指導する等、もっと効率を良くして早く本当の俳句に至れる道を目指すべきだと思います。
現代俳句の高度な比喩の作品が書けると自負している人でも作者が誉められ楽しい気分でお山の大将と君臨していたいと思うのは子供の遊びの延長です。
俳句と言うものはそこを越えて、読み手に快感をもたらす作品に迄昇華させなければ本当の俳句では有りません。
そして俳句も他の文化の様に鑑賞者を楽しくさせる物でなければなりません。
こう言いますと他の文化に比べて俳句が劣っている様に思えますがそうでは無く、たった十七字で鑑賞者を楽しませるのが如何に難しいかと言う事です。
私磯野香澄は元々比喩の世界から入ったので、ばりばりの現代俳句の書き手だったのですが、その手法を殆どクリアしてしまい、その先を模索していて辿り付いた所が芭蕉の世界だったのです。そこは超実景の世界でそこに心を載せる事によって心情俳句又は有情の域に至れたのでした。
心情俳句は“何処で何がどうした又はこんな風景の中でこんな事が”と書くもので、作者は偶然に遭遇し感動した事をその侭ドキュメンタリーとして綴ります。
読み手はその句に接した途端にその良さに感応して楽しい気分になります。
そこには判断も推測もゼロでその情景に臨場するだけです。
心情俳句の鑑賞者は作品に感応し、その作品を誉めます。従って鑑賞者に渡った瞬間作者が誰であるかと言う事は関係が無いのです。
心情俳句は読み手に作者と同じ感動を味わって貰えたと言う事で、人を楽しませる事が出来た充足感を喜びとするものです。

平成十九年九月     磯野香澄

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