稚拙と極致

ピカソの絵は子供の絵の様で誰でも描けそうだ。とよく言われて来たがこう言う例はいくらでもある。一般的なものでも稚拙な出来と極致の出来はうっかりすると見まがう事がいくらでもある。世の中には何でも見栄えを良くする事が多く、その最もな例が広告で如何に良いかを盛んにアピールする。自由経済の中で生きている限りこの宣伝の洪水なしに日常はあり得ないし、個人にしても外観を立派に見せると言うのは当然だが、内容の乏しい場合が多過ぎるのは困りものだ。外見はごく平凡に見えて中身の濃いのは見付けにくいし滅多に無いが、もしそんなんに出合ったら誰しも心引かれてしまうだろう。先にピカソを例に挙げたが、踊りで人間国宝京舞の井上八千代さんは、九十才近いご高齢だと思うが、外見の衰える中でその身をさらし踊られる。そしてその動きは緩慢で稚拙だとも言える。踊りと言うからには身体で内容を表現するのだから、動き回らないと表現出来ない。少なくともはっきり動いていると見えるだけの変化のあるものと思うが、八千代さんの踊りは動くのが見えない位で、例えば片手を上げたら上げた侭で、スローモーションの映像よりもっと遅く、人の目に動いていると見せずに踊っておられる。言い替えれば静止の中で動を行っておられると極限出来る。この静の中の動と言う極限の凄さが分からなかったら、あの方の踊りは何も面白くない。あんなにじっとしていてよいものなら誰にでも出来ると、ピカソの絵と同じ事が言える。その稚拙か極致かは紙一重で、色々と例を挙げて来たが私の言いたいのは勿論俳句の事で、俳句も同じ事が言える。俳句は写生に始まって写生に終わると言えるのだが、俳句を始める基本は写生で、見た侭聞こえた侭を十七字に並べればよい。そして極致の句も、あるが侭に景色を書けばよいと同じ事を言う。その双方の写生の中に紙一重があって、その一重とはどこかと言うと、唯単に景色を見てその通りに書き並べたものと、極致の俳句を書く為にはまず心に何を感じたかがポイントで、単に景色を見ただけか、それともその景色に心引かれて見たのか、この根本が大違いなのである。大きく心動かされた景色をその侭書くと人の心へ入る句になる。しかしこの場合十七文字の中で、一字でも適切で無い字があると初歩の写生と同じになり下がる。極致と言われる作品にするには何回も推敲しなくてはならないが、その作品に命が宿って句が一人歩きする処迄書けたら、作者はその時その句の読者になっている。そんな句はたいてい平凡に見えて子供でも作れる様な平易な作になっている。例えば一茶の〈やれ打つな蝿が手をする足をする〉とか〈雀の子そこのけそこのけお馬が通る〉〈痩せ蛙負けるな一茶ここにあり〉〈棒切れでつついておく庵の畑〉一茶の名句は沢山あるが、どれを取っても子供っぽいと思える言葉使いや、くだらないと思える内容だが、どれも味わい深く読み手として楽しくいつまでも記憶から消えない。私達後進は技術の巧みさをさすがと思ったり、手法を戴くてだてにしたりする。こうして単なる写生と極致と言われる名作の類似性と、その差の大きさは面白いが、この最初と最高の間はとても広いもので、これは人の数だけ俳句の数だけ段階がある。そこでこれを地球の形の様になぞらえて説明すると、南極点を俳句の入り口、北極点を極致の域とすると、その南極点、北極点の間にどれだけのものがあるか、多分天文学数字になるだろう。こうして膨大な種類があると、中には遠心力で外へ飛び出して行くものも有るだろうし、同じ処にうろうろしているものとか、近道を探して移動しまくるもの、又一歩一歩地道に進むもの色々ある。私は遠回りをしたり迷ったりしない様に、最短距離で北極点を目指す様にアドバイスするのが私の役だと思っている。人間何でも経験を積む事が大事だが、経験だけでは時間がかかり過ぎるし、人間は学習と言う事が出来る。経験の上に学習を重ねて俳句と言うレールから離れない様に、なるべく最短の距離で北極点を目指せる様に、後生の人々をも含んだ皆に付いて来て欲しいと思う。又俳句に若年時に係わる機会を持った場合時間はあるが、大抵は生活が一と仕切りしてから目覚める人が多いので、そんな人はうろうろしている暇は無いのだ。強引でも引っ張り上げる時がある。そして厳しい事を言う時がある。例えばよそでだったら充分通用する句でも「お話や報告や日記の様な手なぐさみをしている時間は無い。これは句材の段階だ」と跳ね付ける事もある。自己満足している様なのは俳句では無いのだ。少なくとも人が読んで興味を覚えて、楽しんでもらえる部分が無ければ、そこ迄高めないと何もならない。しかしだからと言ってこれが難しいかと言うとそうでも無い。何故なら最初に心ありき、で心に止まった事をその侭書けばよいのだから。日本語すべてが俳句用語でありいかに適切に言葉を選ぶかが勝負で、風景を神の目の様な視点で書く。この三つが出来れば極致の句が書ける。これがきちっと書けた時ピカソの絵の様な、八千代さんの舞の様な、一茶の句の様な稚拙と極致紙一重の句が書けるのである。

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