基準の無い俳句の選

 今は俳句会と言えば、どこでも選をするのがしきたりの様になっていて、俳句に選をしてその作品の出来に優劣が付けられていますが、私は俳句に優劣を付ける事は出来ないと思うのです。
何故かと言いますと、俳句と言う文学は数学や漢字の書き取りの様に、はっきりと答が出せる物では無いからです。
又選をするには、選をする人の感性に頼る他有りませんので、その選者によって感性はまちまちですから、一人の選者の選で優劣が決められる訳が有りません。
選をする人の感性で俳句そのものの価値が、決められてしまう現在の俳句の選の有り方は可笑しいのです。
そこで私は何故可笑しいかと言う事に付いて書いてみる事にします。
芸術や文学等どんな作品でも観賞者があってのものですが、特に俳句は読み手があって作品が完結しますので、常に読み手の選に晒されていると言う事になります。又俳句を作る人は選者でもあります。
指導する立場の人は句会では勿論の事、色んな機会に選をしておられますが、七月号の現代俳句に選を依頼されて大変だったと言う、真面目な又勇気ある告白文とも言える一文を、寄せておられた方がありましたが、俳句の選はこの方が言っておられる様に色々と大変です。
又この方の様にご自分でおっしゃっている場合は勿論の事、今の選の可笑しさは誰でも感じている事ですし、俳句を作らない人でも少し関心のある方は、選の曖昧さに俳句は分らないと言う人も多くおられる様です。
NHKの俳壇(以前)の選等を見ていますと、わずか十数句の選をするのに、その場の選者の選はバラバラで、思い思いに自分の感想を述べるだけで、そのばら付きをゲストの選者は担当の選者の意向に迎合しておられて、表面的にはそれでいいのですが、そこで一歩突っ込んで何故選がばらつくかを論じる人は誰も居られません。
又番組の中で添削をしておられますが、直した句が元句より悪くなっているとかそうならない迄も、その句が完成した句になっている事はまず有りません。こうして添削された作品もその選者の好みで、良い作品になったと評価されますがこれも可笑しい事です。
私がここで、こんな失礼な事を何故言い切る事が出来るかと言う事ですが、完全に出来上がった作品と言うのは、読み手にのりうつる力の有るもので一所を変える位で、完成度が百パーセントになる訳が無いからです。又そこそこに出来ていても初めの句意と違っていたり、変えた事によって他に響いて無理が出来たりで、添削と言うものはそう簡単に出来るものではないからです。
この場合選者は、自分の作品を例にして指導されると良く分ると思うのですが、ご自分の作品を例に出す人は先ずありません。選者は選をするだけだから、自分の作品を出す必要はないと思っておられるらしいですが、お手本を示して選をした根拠を、俳句の内容とか感性の良さ又は技術的に完成度が良いか等を示して、テレビを視聴している人が納得出来る様にはっきりさせるべきだと思います。
又新聞や雑誌その他句会の場でも選者が選んだ作品が、一番良いと言う事になっていますが、それで何の抵抗も無く終っていて、それが選者の権威でもあると言う事でもありますが、こうした事が俳句会や俳壇の通常になっています。従って俳句を作っている人はどう推稿すれば、文法的に叶うかと言った事を指導されないので、我流で勉強するより手立てがないのです。
こうしたやり方は、俳句を作る人の技術が高くなるのに時間が掛かって、俳壇が低迷している原因の一つでもあると言えます。
こう分析して来ますと、今のオーソドックス派と言われる選のやり方では、指導する側もされる側も同じ水の中で泳いでいる様なもので、少し泳ぐのが速いか遅いかの違いだけで、昔小学校に代用教員と言うのがありましたがそれに似て、先輩が後輩を教えている様なものに思えます。
又現代俳句の様に、個性のあるジャンルを主張している場合は、目的があってその方向へ進むと言う形になるので、その面では良いと言えますが、今度は内容が曖昧なのでこれ又どれが良いか水の中で泳いでいるのと同じで、比喩がどれだけの人に共感が得られるかと言う事になり、このリーダーの方々も中学や高校の学科担任の様に、ジャンルの違うものは受け入れ難く、自分達のプールの中でジャブジャブやっている様に見えます。
俳句と言うのは技術の完成度が高く、感性の良い事、内容がどれだけ読み手を感動させる力があるか、の三点が揃えばよいと言う事になります。
こうした事を、指導者がはっきりと後進に指導する事ができれば、大学並になって、俳句と言う文学が高い地位を占める事が出来る様になると思います。
今のままで俳句の選をしようと思っても、自分の好みを頼りに選するより基準がありませんから、何処の選でもばらつきがあるのに、それを数学や国語と同じ様に採点的な感覚で選をして、その結果その時の作品の価値が決められてしまうのは可笑しい事です。
唯俳句会で互選をして高点句は人気があって、作句の指針にもなりますので良いと思うのですが、これも優劣を決める基準には当りません。
俳句と言うからには、完成度が高く仕上がっているのが当然で、その場合は一般的に言う選をすると言うのは当らないので、強いて選をすると言うのなら、好みを披露すると言う意味での選と言う事になって、それは内容の好みを選者の感性でする事になります。
こう考えて来ても、俳句の選と言うものは作品の優劣を決めるものではないと言う事が分ります。
強いて優劣を付けると言うなれば、学習中の作品の出来不出来を完成度、内容、感性の程度を示して、出来の良いものから順位を付けて発表すると言うやり方なら、ある程度の基準が出来ますので、この様に改正して、俳句会なり俳壇の指導をするべきだと私は思うのです。

平成十八年九月   磯野香澄

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