俳句菩薩になりたい

 私は俳句を書き初めてからおおよそ五十年になりますが、俳句と言うのは奥が想像以上に深くて、三十年程かかって五十五歳の時に俳句は、宗教と重なる処迄高まるものだと知るに至りました。
写生に始まる俳句は色々な書き方があって、虚実の手法が現在のところ最高の手法だと思われていて、超現実の書き方が有るのさえ知られていないのが現状です。
超現実と言う手法から奥は私性を越えた処で書く事になります。
そこからが本物の俳句ですが、本物の俳句と言うのはどう言う事かと言いますと、俳句を読んで下さった方に、良い気分になって戴ける様にとひたすら推敲します。
その時、書き方が稚拙だと言われようとも、読み手にいい思いを感じて戴く為なら、どんなに笑われ様とも読んで下さる方に奉仕出来ていれば良いと言う一心で推敲します。
少しでも感覚的な事を書いて自分で良い気分でいますと、それは下等な句か又は未だ完成していないか、どっちにしても未熟な句です。
とにかく捧げ尽くす気持で貫いて初めて、芭蕉翁が到達された奥義の俳句が書けるので、捧げる事で当然と言った境地に達していないと本物の俳句は書けないのです。
私はそうした気持ちで書いた俳句が一千余句になりました。
これは芭蕉翁の編み出された俳句手法の全てを、踏襲させて戴いたお陰で書けたものですが、他にこうした心に至れて至上の俳句が書ける様になったのには、私の生い立ちが大きく原因していると思えるのです。
私は十歳迄に父母祖父母全てを無くして、五歳迄は周囲の人からとても大事にして貰ったのを覚えていますが、十歳の時に祖父が亡くなると急に風当りが強くなって、精神的に一人で生きて行かなければならない事を実感しました。
その時私は周囲の人に普通に接して貰えるのには、自分が相手の人に誠意を持って行動するのが、一番生きやすい方法だと悟るのです。
今から思えばわずか十歳の子供が捧げ尽くす事が、身を守る術だとそんな事を悟るに至った事は、余程辛い思いをしたのだろうなあと思うと、自分の事ながら可哀想に思うのですが、そうして生きて来たので何とか正常に暮せたと思っています。
又十七歳の時に辛さを乗り切る為に次の様な[悟り唱]を作って、自分の心を励まして来ました。
これは又私がどんな辛い事でも耐えられる心を培った元になっています。それをここに書いてみますと、
一、我浮かばんと欲っすれど神それを与わず
 寵愛をまさぐれど神又それを与わず
 煩悶の渦を呼び淪落の淵を却下にして喘げども喘げども災いをぞ来たる
二、汝憂う事なかれ神は遍在にして愛を忘れず
 苦しめ悲しめ嘆け血涙の枯れる程にそして勤めよ力の限り
 神はその暁に団欒の園に招かん
この文体や考え方は、京都の河原町三条のカトリック教会へふらっと行った時に、聞いたお話で[神の元では皆平等だ]と教えて戴いて、救われた気持がしたのを覚えていますが、その時貰ったパンフレットに書いてあった文体と考え方を、自分に当てはめて作ったのだと記憶していますが、この[悟りの唱]を生きる指針にして、敗戦後の生きにくい時代をどんな辛い事でも耐えて来ました。
私は人には尽すと言うかお人好と言うか、とにかく相手の人が良いと思われる態度で人に接していたら、悪い様にはされないと、そして自分には、どんな事でも耐えておれば良いと思って暮していましたら、何時の間にかそれが私の性格に自分を創ってしまっていました。
従って人の嫌がる事は何一つした事は有りませんし、増して人の物を無断で持ってくる等言った経験は一度も有りません。どちらかと言えば何でも人に上げたがる性質で、それが人迷惑で私の悪い癖かも知れませんが、自分では悪い事だとは思っていなくて、私は自分の頭が判断した事を頼りにして生きて行けば、何も心配する事は無いと自分に言い聞かせて一人で生きて来ました。
この性質は私が京都新聞の広告代理店で、広告扱者として三十年の間非常に有利だったと思っています。
この間私は一人の女児を産み、そして自殺させています。理由を少し書きますと、先生のいじめが基で強度な神経症になって、家で静養させていると平常に戻るのですが、少し良くなると学校へ行き又すぐに神経過敏になって、それを繰り返していました。最終、病院の薬間違いで耐えられなくなって、貰っていた安定剤を皆飲んでこの世を去ってしまいました。
私は親の文化も貰えなかったし、仏教の影響も受けていないし、学校教育は戦争で話になりませんし、唯十四、五回行ったカトリックの影響と、敗戦後イデオロギーの改革に、方々で青年層を集めて講習がされていました。私もそんな所で当時イギリスから来日しておられた学者や、日本の大学教授とか色んな教育者に教えて貰った、社会的な考え方が身に付いて私を形成していると思うのです。
その後暫くして俳句に出合いそして三十年程かかって現代俳句の最高の手法を習得するに至り、そしてその後芭蕉の開拓された究極の俳句に目覚めるのです。
そこに子供の時に悟った人に尽くす生き方が、俳句の真髄である事に通じていて、芭蕉が漂泊の旅で至られた境地と同じである事に気付くのです。
そしてこれを極めて行けば俳句菩薩になると開眼して、その方に私は進むのだろうと予感しました。
今回俳句一千余句を八冊の著書に仕上げて、奉仕する心の全てを注入する事が出来たと思っています。
失明してしまって今後俳句を書く材料を戴くのが困難で、これからの新作は数が限られるので、今回の[京都抒情上下巻]を製本所へ送り出したのが一応の極だと思えます。
ここに至る迄一人で生きて来た天涯孤独な私は、自分は何なんだろうと思う事がよく有りました。
今では親の無い私が自分を知るよすがと成っていますのは、私の母方のルーツは、桓武天皇が京都に遷都された時に付いて来て都造りの資材の調達に当った時の事が未だにはっきりとしていて、口伝でも代々聞いて来ました。
又古くは天照大神を祀る種族だったとか、皇室の信頼を受けて誠意を尽くす仕事をしていたと、色んな記録にも有りますし、親族がお人好でそんな遺伝子が私には、不幸な運命によって色濃くなったと思う処と、父親の祖父は地方侍だったせいか、私は正しく無い事は承知出来ないと言った気持が強くそんな先代の性質が私の中で凝縮している様に思えるのです。
こんな古い事にしがみついている私ですが、今後精神を高めて俳句菩薩になれたらと、脱稿して一息の処で思っています。

平成十八年十月   磯野香澄

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