如しと言う比喩の世界

 今回は視点を変えて[如し俳句]の、ピンからキリ迄の有り方について書いてみました。
 俳句を大きく分けると心で感じた事を書くのと、感覚で感受した事を書くのとの二通りに分ける事が出来ます。これを別の言い方をすると不易と流行とも言えます。又心俳句と感覚俳句と二通りと言っても、一人の人間の中で感じる事ですので、このどちらをも含んでいる事の方が多いと言っても良い位で、ではこの混同した形はどちらに属するのかと言う事になります。
 この場合句の仕上げの段階で、心俳句仕上げであれば感覚的把握が含んでいると言っても、これは心俳句であり不易です。反対に感覚把握の中に心が含まれていても、仕上げが感覚俳句仕上げだとそれは感覚俳句で、如しと言う比喩で書いた流行性の俳句と言う事になります。
 心俳句の場合は人の心で永遠に変わらない心理が書かれるもので手法は書き言葉の通りに書けば良いので単純ですが、感覚俳句の方はそれこそ千差万別自由奔放で掌握しきれません。この広範な句域を一貫するものとして、一つだけはっきりと言える事が有ります。それは感覚俳句は全て[如し]で説明がつくと言う事です。
 私が句作する様になり先輩の作品を読む様になって目についた事は、やたら[如し]と言う文字が使われている事でした。明治生れの人達はこの如しが好きだったのか、流行だったのか、ひどいのは十句の中で七、八句に如しと言う文字が使われていました。
 今でも作句を始めて間無しの頃には誰でも通る道だし、ここから始めるのは良いのですが、困るのは如しに至れず擬人法その侭句にしてしまい、これで俳句と思われている事です。では擬人法と如しはどう違うのかと言いますと、例えば「芒が手招きしている」と書くと、「芒は人やあるまいし手招き等しない」と言われてしまいますが、「芒が手招きしている様だ」と如しにすると、作者がそう感じたのだからこれには何も言えません。だからここが感覚俳句、現代俳句の起点と言えます。こう分かってくると明治大正時代に、感覚俳句が流行し出した初期の表現法で、目新しく又人気があったのだと思われます。その後同じ[如し]と書くにしても色々と工夫がこらされて、如しと同じ効果の得られる表現法が出てくる様になりました。表現に工夫がなされて来たと同時に感覚も磨かれ段々感覚の質が良くなり、[如し]と言ったレベルの句の様にベタつきで無く、読む側もその作品と同じ位、感覚が磨かれていないと理解が出来なくなって来ます。この感覚をもっと磨いて行くと感性と言われるレベルになって、内容も豊かになり読み手もそれに劣らない感性を要求される様になります。この辺りになると直感で把握した作品と言う事になり、読む側も直感で受け取ると言った世界になって来ます。作品の内容は広く深くなるのは当然です。こうなると繊細で風鈴の音の様な微妙な感性で、人間をも自然として書くと言う高度な事をやってのけるのですが、未だこの上を主張する人がいて、俳句を言葉の意味で書かないと言う処迄あり、これはどう言う事かと言いますと、単語を色や音と同じ感覚で用いる方法で、色なら赤を塗ってその横に黒を塗り黄色を塗ると美しい色彩が生れると言う様に、又音楽のドの音の次にミの音次にレの音と言う様に、音を重ねて行くと奇麗なメロディーになる様に、俳句の十七文字の中に単語を並べて、その単語と単語の関係に於いて美が発生すると言った発想で、この手法を編み出した作者はこう説明しています。言葉と言葉の関係を手だてに書いているのだから、送り手が意味で書いていない句を読み手が意味で受けようとして頭をひねっても、意味が出てくる訳が無いと主張しています。ではこうした作品をどう受け取るかと言う事ですが、この場合読み手側も直感で言葉と言葉の関係で発生する快美感を感受すると言う事になります。この言葉と言葉の関係で書くと言うのを究極に、感覚を手だてに書かれた現代俳句は頂点を極めました。これは先にも書いた様に言葉と言葉の関係で書くと言われても、分析してみればこれも[如し俳句]言わば[如しのなれの果て]と言えます。
 初期のなぞらえ程度のベタつきの[如し]から、段々距離が開いて感覚を越えて遂に最たる感性で言葉と言葉の関係と言う、直感で無いと受け止められない処迄、遠い処で響かせると言う事ですが、心俳句で無い限り感覚俳句はすべて[如し俳句]と言えます。こうして現代俳句が発達してどこ迄でも進化して行く様に見えましたが、ここで現代俳句の一つの極限に直面するのです。どうして極まった事が分かるかと言いますと、人間の言葉や知識に限界があったと言う事です。表現の道具に限界があったのです。言い替えれば人間の生態に幅と言う限界があって、新しい内容を表現しようとしても、言葉の幅に突き当り同じ様な言葉でより書けない、と言う致命的な条件に阻まれる事になったのです。これを打破しようとすれば全く違った条件下で無い限り無理で、現代俳句では感覚と心の完全混合に活路を模索するか、心仕立てにすると伝統派にすり寄る事になるし、感覚仕上げにすると[如し]から抜け出せないので、どこ迄も自己亜流と格闘しなければなりません。又言葉遊びと言われる事もあり、次の時代にコンピューターの中の世界や、数学とか物理科学の世界に新しい感覚を見いだす時代が来るかも知れないけれど、現代俳句の流行期は[如し]の手法が言葉と言葉の関係で書くと言う処へ行き着き開拓し尽くされてしまいましたので、今後は個性の新鮮さに重点を置いて、創られて行く道が残されているだけだと言える様です。

平成十八年十一月   磯野香澄

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