映像の世界と超文学の世界

 この文章は平成十年頃のテレビ番組を元にして、俳句と映像の文化との比較で芭蕉の編み出された究極の俳句が如何に高度なものであるかを理解して頂く為の一例にしました。
 「映像は芭蕉に届いた」と言うナレーションでNHKのトーク番組が始められた。
 私はこのナレーションにびっくりした。そしてそんな素晴らしい事が可能になり、この番組で伝えてくれるのだと期待してテレビの前に正座した。
 照明を少し落とした画面に登場した二人の人物は、映画を現在進行形で撮っていると話す新鋭で、難しく話す方が価値があると言わんばかりにこね回して話し出した。この時点でガッカリしたが、内容がよければと辛抱して聞いていたが結局は次の様なことだった。
 それは今迄の創作したストーリーを元に作られた映画や、ドキュメンタリーと言うのでも無い、人間の暮し振りをその侭作品にすると言うタイプの映画を、四作発表したと言う事で、現実を映像作品にして好評を受けたと言う二人の会話だった。
 私から言うなれば、映画と言う映像を手段としての作品の場合、すべてが現在進行形で上映される訳で、芝居や映画は創作で虚構の世界だが、この新映画の制作者は虚構では無く現実の生活をフィルムに焼き付ける制作の仕方で、これを「現在進行形で芭蕉に届いた」と言うのである。
 撮影しているのは現在そのものを撮っているかも知れないが、放映する時は既に過去になっているのだから、放映する時点で現在進行形である事は普通の映画と同じ事であり、ノンフィクションだと言っても、作品とするからには制作者の意図が関与するのだから、作品となると映画も芝居も同じ事で、例えば「出産のプロセスを撮影し作品化した」と言っていたが、それは現在進行形とは言えない。過去の映像を再現して見せているに過ぎないのである。
 これは普通の芝居や映画と同じ再現だし、「身体障害者の生活を追って映画にした」と言っても、それは同時進行ではあるが、「現在進行形で芭蕉に届いた」と言うのは可笑しい。
 芭蕉は超実景を十七字で表現する事に成功されたが、「同時進行で映画を成したから芭蕉に届いた」と言うのは非現実と超現実≠ニ混同している向きがある様に、このトークの内容もこれに似ていた。
 この出演者の認識不測は又既存の映画演劇に失礼な話でもあると思えたし、若い人が色々な試みをして多くの失策の中に、優れた新しいものが偶然の様に出て来る事もあるが、「芭蕉に届いた」と言う同時進行の映画の手法は、一つのジャンルを見つけただけで、これでは芭蕉のなされた[超実景の世界]は概念すら分かっていないと言える。
 日常の暮らしと言うものは、映画と同じ様に視覚によって判断出来るもので、これは動物的な本能で人間でなくても犬でも猫でも、どんな動物であっても差こそあれ風景と言う物は、目を開けている限り飛び込んで来るもので、そこにどんな情景が出現するか、生き物が食欲を満たそうとすれば、草食なら草木の景色があるし、肉食なら生きているものを捕らえる壮絶な光景が出現する訳で、生き物は餌をとる知能もあるし、音を聞き分ける能力もある。そうした動物に無い能力と言えば、文字で意思を伝達すると言うレベルからで、目や耳で判断するものはどんなに優れた作品でも本能的な感覚で感受している。文字によって伝達する手段が人間より出来ない表現の方法で、文字の文化が無かったら、どんな文明文化も伝達がうまく行かないから、今のハイテクの時代も来ていないし、医学の研究も進んでいないだろう。人間が文字を手にした時から動物と決別したと言えるだろう。その文字で小説とか童話詩歌が書かれ人の心を豊かにして来た。
 この中で俳句は文字を巧みに駆使して最も短い形で情感を伝える。この場合俳句が普通の文章のように書くのだったら、あらゆる文芸の中で最低の詩だし、それなら十七字で舌足らずな事を言うより、目一杯言う短歌の方が優れていると言える。
 俳句は芭蕉の到達された超実景の世界が表現出来て、そこに人類最高の文学が出現した訳で、本当の俳句とは有情だけだが、一般的に習作の時期の作品も俳句と呼ばれているし、俳句の認識は多岐にわたっているが、俳句は他のどんな芸術でも至れない超現実、超実景の世界を体験する処迄表現出来るのである。
 日本のみならず外国の文学者も、芭蕉を研究した人は概念の上ではよく分かっておられる。しかし学者は理論だけで、自分の作品をものにされない分、理解出来ない処が沢山お有りだ。幸い私達は実践の方から入っているので、超現実を認識し超実景を体験し作品として生み出す事が可能であり、学者が概念を理論的に発表して下さっているので、私は自分の理論が支えて貰えて有難いと思う時がよくある。
 映像の文化と言うものは今ではリアルタイムで全世界の事宇宙の事を伝えてくれる。動物的、本能的感覚で受け取れる楽な方法で伝達してくれる映像と、音のマルチ文化は素晴らしい。こうした本能の最たる部分で受ける文明と、後天的な文明である文字によって超実景の現象を、体験出来る俳句の後天的知的文化とは、人知の二極であると言える。
 こうした観点からも俳句のそんな超文学性に、本質が違う現代流の映像作品が届く訳が無いのであって、あの「映像は芭蕉に届いた」と言うナレーションは期待がはずれてガッカリしたが、芭蕉が如何に高度な文化を編み出されたのだと言う事を再認識したひと時でもあった。

平成十八年十二月   磯野香澄

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