感覚俳句について

 感覚で書く俳句の事を、現代俳句とか前衛俳句と言っているのですが、俳句は感覚を以って創るのと心の反映として書くのとそれにそのどちらをも含んだ句との三通りがあります。
心情俳句の理論の中で何度か書いて来た事ですが、今回は余り触れて来なかった感覚俳句について分かり易く書いて見たいと思います。
 私は京都俳句の理念として永遠に変わらない心情俳句でなければならないと言いつつ、毎月心情俳句のほかに、メタフォー(暗喩)による作品を十余句ずつ発表して来ました。
これを読んで同じ香澄の作品とは思えないとか、混乱しないかとか、毎月こっちの方が楽しみだとか、色々反響を貰いますが、感覚で書くのと心で書くのは全く違っているので、私自身の中で混乱する事は何も無いのです。感覚俳句を発表するのも私の仕事と思って書いていますが、先人が大方言い尽してしまい、今に廃れて行くと分っている感覚俳句は勧めていませんが、感覚俳句とはどう言うものかを理論的にまとめてみるのも私の仕事として一応書いて置きたいと思います。
 俳句は心情俳句も感覚俳句も写生から入るのは同じですが、誰しも写生をしていると何々の如しと他の物事になぞらえる様に成って来ます。心情俳句の場合はそれがどうなのかを書かないと一句として成立しませんが、感覚俳句の場合はもろ‘如し’だけで句として、一応認められるので楽に一句が書けます。時には擬人法ですら俳句として通っている事もある位で、景色を見て「何々の如きこの樹の景」とすれば上出来ですが、この如し俳句にもピンからキリ迄あり有名な句にこんなのがあります。
〈沖の帆をわれと思いて貝歩く〉これは如しがテクニカルに表現されていてやゝこしいですが、解釈すれば「沖の帆を貝が自分だと思って歩いている」と言うのですが、貝がそんな事を思う訳もなく、作者が貝がそう思っていると自分で決めてそう想像していると言う事で、技術的には高度でも「貝は帆の如し」と言っているだけでごく初歩的な如し俳句です。唯ここには思わせぶりなH味が感じられるので有名になったと思いますが、感覚俳句は「水面が鏡の如し」だとか「蔓珠沙華が炎と燃える如し」だとか単純な如しで終ります。
 又二物交感とか心象俳句と言う感覚と心のどちらをも含んだ思いを物になぞらえる手法とかがありますが、これらも要は如しで同じ事です。
 こうした俳句を書きながら感覚を磨いて行くと、「蛍袋に灯がつく」とか木犀の香りを平安の貴族にたとえたり、もっと感性を磨いて行きますと、「紫陽花の妖精とか女性の哀愁」とか「山茶花に傷心を託す」等段々如しの幅が広くなります。
 こうして最終は言葉と言葉の関係で書くと言う処迄希薄に遠ざけることが出来ます。
 如しと言うのはなぞらえ又は似ていると言う事であり、同じなぞらえでもメタフォーと言って暗喩とか隠喩、この反語に直喩と言う言い方がありますが、直喩の一例を挙げると「堅き事鉄の如し」等とはっきり分かり易く言うのに対し、暗喩は同じたとえているのでも、表面的には「如し」とか「似て」とか「様に」と言う言葉を使わず高度にたとえます。
 又比喩なれば、白髪の事を言うのに「頭に霜を置く」等と言い替えるだけですが、暗喩をうまく使いこなすと虚構の世界が書けますし、同じメタフォーでも隠喩を駆使して虚と実の世界をないまぜにして書く事が出来ます。
 「楠のもとに侍りし黒揚羽」等と言えば実と読めば実景だし、虚構の世界と読めば虚として読めます。こうして虚実の作品を創作するのですが、〈大杉に突き上げられて秋茜〉となると実景を書いている振りをして、実は隠喩で書いています。
 更に高度に言葉と言葉の関係と言う処迄行きますと〈現身に火種持ちよる草紅葉〉〈立てし鉛筆倒す桜の中は墓地〉〈今もいぶる尼の火元の百日紅〉これらの句の様な作品は隠喩の最たるもので、作者は「直感で書いているので字面通りに読んで意味が分かるはずが無い」と説明しています。
 そして直感で感得するのが鑑賞の仕方(読み方)だとアドバイスしていますが、隠喩で読めばちゃんと意味はあります。かと言って解読して絵解きしても、しっかりとした映像にはなりません。
 比喩の様に白髪の事を頭に霜を置くと言う類ならしっかりした映像になります。その事から言いますと作者の言う言葉と言葉の関係で書くと言う主張もはずれてはいませんが、何せ如し俳句のなれの果ての最たる処で書かれている事には違いありません。
 こうして暗喩、隠喩を駆使すると人生の裏も表もみんな句にする事が出来ます。
 虚実で創作する場合虚から入って実で表現するか、実景から入って虚にするかの二方法どちらでもよいとよく言われていますが、私はこの場合でも俳句と言うなれば実景から入るべきで、虚から入る机上の俳句は邪道だと言って来ました。
 これは私が創作の因は自然から戴かないと、頭で考えた作品は余程で無いと説得性に欠けると信じているからです。いかなる時でも自然の中で自分の感性に迫って来たものを、どう表現すれば感じた事により忠実に表現出来るかを必死で言葉探しをします。
 こうして自分の中でその時自然に貰ったものを忠実に表現しますと、直喩に始まり暗喩隠喩で書き更に虚実の世界と様々な比喩の世界が開け、その時の素材や感性や表現で数限りない作風が展開します。心情俳句と言う本物は音楽で言えばクラシックだし、虚実俳句は歌謡曲と同類で歌謡曲は歌謡曲の良さがあります、虚実俳句も結構面白い世界です。ただし歌謡曲も流行歌と言う位で俳句も虚実俳句は忘れ去られて行く運命にはあります。

平成十九年一月    磯野香澄

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