俳句の読み方22

磯野 香澄   

< 往 く 春 や 鳥 啼 き 魚 の 目 は 泪 >  
  最後に難問のこの句を取り上げます。何故難問かと言いますと、一般的な解釈と私の読みが余りにもかけ離れているからです。この句の解釈を一般的には次の様にされています。「春も終りとなって鳥はなき魚の目にもなみだが溜っている。《魚の目は泪》とあるのは《魚の目に泪》の間違いだろう」と解釈に都合の良い様に芭蕉さんの間違いにされています。そして大方の読みは芭蕉との別れを悲しんでいる内容だとされているのですが、私はこれを無視して《往く春》は秋とは反対にとても賑やかで生物の命が満ちあふれ、鳥も恋の季節で芭蕉さんは《鳥啼き》とこの「啼」を書いておられる。そして《魚の目は泪》と高度な表現をしておられる。絵融きをさせていただくと「春もたけなわ草木は伸び鳥はうたい良い季節だ。これから長い旅に向けて季節は良いけれどこの魚の目は泪ものだ。芭蕉は旅立に備えて繕いをしたり三りと言うつぼにお灸をすえて万全をきしておられる。これは奥の細道の文中にあります。さて《魚の目》ですが足に出来た魚の目は長旅を思うと泪ものだ。足の裏を過酷に使う旅に魚の目の痛さはたまらない。三里に灸をすえて魚の目も削っておかれたと思えますが、この句のポイントは一般的に間違だとされている《魚の目は泪》の「は」です。この一字で相反する状況と魚の目の実態とそしてその痛さを実感させています。「痛い魚の目」と読んで同化してみて下さい。  
 
< 岩 陰 で 沖 見 る 老 婆 敗 戦 忌 >  
  舞鶴湾から少し山手へ上って公園の様な処から海を眺めていました。少し移動しようと横にある岩と言っても良い程の巨大な石を回ったら、そこにお婆さんが座ってじっと海の彼方を見ているのです。私達が前を通ってもただ沖を見ているだけです。日はとっくに落ちていました。もう少し海を見ていようと思っていたのですが、私達はそこを立ち去りましたが、そのお婆さんは左足を前に伸ばし右足を曲げて石に座っている。足が悪いのかも、そしてどんな思いで海を眺めて居るのか、その日は丁度敗戦忌の日でした。私は歌謡曲の岩壁の母と同質の情景に思えるのでした。
 
< 西 行 の 桜 の 下 と 屯 ろ す る >  
  <西行の桜>西行法師がおられたと言う勝持寺の桜。当時里人が西行さんを慕い、桜を見に集ったそうでその桜を「西行さんの桜」と言い、そしてお寺を「花の寺」と呼ぶ様になったと言い伝えられて来たそうです。この句の読み処は<桜の下と>の「と」です。この「と」は「西行さんの桜なのだ」と言う省略と里人が慕い寄ったと同じ様に今もみんなが色んな思いを持って屯ろしていると、この「と」には時間と歴史と今屯ろしている人達の心と作者の思いの全てを担って貰っています。憑って桜の花の下に屯ろして下さい。
 

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