「オーディション」村上龍


ふと図書館でみかけた村上龍の「オーディション」を読んだ。読んだのですが、
最後の数ページはちょいと気持ち悪くて読めなかった。全体の4分の3までは
「小説」なのですが、最後の4分の1は、こりゃ、ホラーだね。

その気持ち悪さはホラー的ではあるのですが、捨ててしまえないような気がする
んだね。その昔、小説の世界は現実の生活を超えたところに存在したような気が
する。現実には「ありそうもない」、けれどそこを描くことに小説としての意味
があったというか。ところが近頃は現実のほうが小説世界を超えて、本来ならあ
りそうもないことが起こってしまうことがおうおうにしてある。少年犯罪の低年
齢化だけじゃなく、幼児虐待やその他さまざまなこと、傷を癒せないままの日常
がやっぱり存在するだろうし、さまざまな犯罪の根が「心の闇」という言葉で表
現もされる。
信じられないような事件が現実に起こってしまうのだ。
「オーディション」に登場する女性、心の奥深くに自分が受けた幼児虐待の傷を
癒せないままに大人になる。日常のなかでは、その女性が持っている傷からくる
何かに「気をつけたほうがいい」と感じる人もいるが、そういう風に感じない人
もいるのだ。

人の心の闇とは最近はよく聞く言葉になってしまったかもしれないけれど、村上
龍が描こうとしたホラー的世界、つまり、「人の心の闇」について、こりゃ小説
世界だよと切り捨ててしまえない何かがあるんだよねぇ。村上龍は、いま、直面
しているやりきれない現実の姿を小説という形でえぐり出そうとしてる?うん、
たぶん、そうかもしれないなぁとふと思ったのだ。
ふとそんな風に思ったとき、もしかしたら村上龍ってもっともっと注意していい
かもしれないなぁと今思っているんだよね。

小説のストーリーよりも妙なものが残る作品ではありますが、改めてふと手にし
てしまった「オーディション」という作品から、逆に村上龍に再度興味を持って
しまったよ。「オーディション」は1997年6月が初版です。

村上龍といえば、「限りなく透明に近いブルー」で芥川賞を受賞したのが1976年
。若い頃の村上龍って好きにはなれなかったし、今もほとんど彼の作品を読んだ
ことはないです。だけど、ちょいと気になる作家ではあるから、なんとなくいつ
も目のなかには入っていたというか。


村上龍がテレビのドキュメンタリー番組に登場して、「経済」について語ってい
るときはほんとに好きじゃなかった。むしろ嫌いだった。

http://jmm.cogen.co.jp/jmmarchive/
「円安+インフレ=夜明けor悪夢?」 NHK出版 2002年?

1999年12月29日
NHKスペシャル『失われた10年』のための、
寄稿家のみなさん、及び会員のみなさんへの編集長・村上龍からの質問

といいながら、こういうテレビの番組は気をつけて見ていたのは覚えています。

そして、「文体とパスの精度」(1997〜2003年の書簡集)は、そうか、村上龍は
「ナカタ」と親交があるのか、なんでだろうなぁと思いつつ、この本はちょっと
興味深く読んだけれど。

そして今年になって「徹子の部屋」に出ている村上龍を見た。「13歳のハロー
ワーク」2004年についての話をしていた。それから「報道ステーション」にも出
ていたなぁ。この時も「13歳のハローワーク」についての話だった。

今年になって「おじさん」になった村上龍を見て、ちょっと好感を持ったんです
よね。「13歳のハローワーク」は私は本屋で表紙を見ただけで、中身は見ては
いないから、この本についてはどうのこうのはないのですが、いま、こんな本を
出す村上龍って、私が思っている以上に小説家として未来について考えようとし
ている人なんだなぁと思ったってわけ。それってすっごい好感持てることだしね。
2004/06/25



「ゴドーを待ちながら」

2004年6月13日(日)午後10時からのNHK教育テレビ「芸術劇場」で「「ゴ
ドーを待ちながら」が放送されました。

舞台中継「ゴドーを待ちながら」串田和美演出 緒形拳ほか出演
舞台の放送の前にアーティストインタビューがあり、「緒形拳×串田和美」のイ
ンタビューがあったようですが、残念ながらそれは見逃してしまいました。舞台
中継も最初の約10分ほどは見逃してしまったので、あとでかなり残念なことを
したと思ってしまったけれど。

「ゴドーを待ちながら」はサミュエル・ベケットの代表作。初演は、1953年
1月5日、パリ・バビロン座だそうです。

舞台の感じはこのページの感想が参考になるかな。道のような広場のような舞台
で、舞台には何にもない。舞台の両側を客席が囲んでいるだけ。
ゴドーを待ちながら

登場人物もシンプルで、2幕構成ではありますが、1幕と2幕はほとんど同じ内
容が繰り返される。
ウラジーミル:串田和美
エストラゴン:緒方拳
ポッツォ
ラッキー
少年

ウラジーミルとエストラゴンという浮浪者のようなふたりが、ただただ「ゴドー
さん」を待っているだけなのです。ふたりがゴドーさんを待っていると、ポッツォ
とラッキーというちょっとわけわかのふたり組が現れて、なんだかんだとおしゃ
べりはするのですが、なんか変なふたり。そうこうしていると、少年が現れて、
ウラジーミルとエストラゴンに「今日はゴドーさんはこられません」と告げるの
です。1幕も2幕もこれだけなのですが。

いや〜、ちょっとびっくりして、ところが、なぜか妙におもしろくて、テレビに
も関わらずその舞台にひきこまれてしまった。サミュエル・ベケットといえば
「不条理劇」と連想しても、さて、その不条理劇とはいったいどんなものかと、
まあ、興味はあっても知らず知らずの食わず嫌いもやっていたのでしょうね。気
にしながら、あえて近付かないというか。だから、実は、「ゴドーを待ちながら」
という戯曲そのもののタイトルはずっと前から知ってはいたのですが、原作も読ん
だことはないし、「芸術劇場」も何の予備知識もなく見始めたのですが、時間が
たつほどに、この劇はおもしろいよ!と思っていたというか。なんだかわからな
いのですが、次に何が起こるんだろうというおきまりの期待感ももちろんあった
けれど、実際は舞台の上では何も起こらない。「ふたり」のぼそぼそした会話が
あるだけで、「ゴドーさん」なんか出てこないし、何より意味深に会話に出てく
る「ゴドーさん」とはいったい誰なのか、それすらわからないんですよね。

テレビの画面を見ている時、なんとなく目に止まっていたのは劇団の幕。そこに
Waiting for godou と書いてある文字がずっと気になっていました。
(godou ではなく、godot だったかもしれません。いずれにしろ日本語ではゴドー
いう名前から神は連想しにくいけれどね。日本語だとgodouと書きたくなるけれ
ど、どうやら原作はWaiting for godotが正しいようだ。)
「ゴドーさん」とは「godotさん」?うん、もしかして、godotさんって神Godと
関係あるかもねと思い始めたのは、劇の終盤近くだったかなぁ。
だから同時に頭に浮かんだのは、シモーヌ・ウェーユの「神を待ち望む」という本
と、遠藤周作の「沈黙」だった。テレビのなかの舞台を見ながら、こんな作品を
思いうかべると、「ゴドーを待ちながら」はかなりおもしろい劇だと思ってしまっ
たというわけです。

ほんとのところベケットが「godotさん」は「神」だと描いているのかどうか、
それは私は知りません。原作を読んでみようと現在の時点では本はまだ手に入れ
ていませんから。いや〜、ほんとのところ、生舞台を見たいですよ。不思議にも
日本では「ゴドーを待ちながら」の舞台は多いようですから、絶対見に行こうと
思っています。

「ゴドーを待ちながら」の「godotさん」が神かどうか、そこはわかりませんが、
「待つ」ってことはほんとうはとっても大変なことだよね。いつまで待つのか、
どこで待つのか、そういうことがわかっている時の「待つ」は楽しみのほうが多
いかもしれないけれど、「いつまで」待たなくてはいけないのかすらわからない
でただただ「待たねばならない」としたら、それは想像する以上に苦しいものだ。
もちろん何を待つかにもよるけれど、ただただ「待つ」ことはどれだけ苦しく、
どれほどの悲惨な状況をもつくり出してしまうこともあるのだと、こればっかり
は「体験」がなければわからないことかもしれないよ。2004/06/15



哲学カフェ

6月3日の朝日新聞の夕刊の海外文化という記事で「哲学カフェが盛況」という
小さいコラムニュースがありました。
フィロスという市民団体があるそうです。
Cafes Philo 

英語での説明のページもありますので、メインからイギリスの旗をクリックして
みてくださいませ。

Cafes  Philo というのは、Philosophy Cafesだそうで、日本語で言うなら「哲学
カフェ」だそうだ。現在パリに160くらいあるそうで、その他の国では70く
らい。日本、米国、カナダ、イングランド、南アメリカ、ベルギーあたりにもあ
るということです。
各地の哲学カフェのリスト
日本にもフィロスの流れをくむ「哲学カフェ」があるそうですが、
Tokyo	Museum Cafe Poan Boshim Kang	2nd sunday of month
Japan	.	Ike Buro	.
というのがリストにあがっていました。
Ike Buro とは東京、池袋かも。

「哲学カフェ」って、要するに、お茶飲みながら、哲学しましょという場所だそ
うだ。
http://www.philos.org/
このページにも書いてありましたが、基本的に哲学カフェは、コーヒー代だけで、
誰でも参加でき、社会的な地位がどうとか言うことは問わず、自由に発言できる
場所、だそうだ。

日本語の「哲学」という言葉はわかりにくい。哲学とはいったい何なのよと、思
わずそう言ってしまうことは多いだろうけれど、「哲学」という何やら難しそう
な日本語にごまかされちゃいけないよね。「てつがく」ってシンプルに「考える」
ことなんだよね。ほら、誰だっけ、「人間は考える葦である」って、そんなふう
に言った哲学者がいた。

森羅万象、どんなことについてでも「考えること」それは人間だからこそできる
ことなのだろうなとやっぱり思うのです。

この記事を読みながら、ふと、佐野洋子さんの「てつがくのライオン」という詩
を思い出して、本を探した。

あった、あった。さっそく「てつがくのライオン」を読み、次の「夕陽のなかを
走るライオン」を読んだ。せっかくだから、あとで本1冊全部読もう。

日々、衝撃的な事件が起こります。正直びっくりするような事件ばかりかもしれ
ません。なぜこんなことが!そんなニュースを聞くたびに、社会全体が「人」を
育てる空気に満ちているか、と考えます。
人と人が気持ちを、心をかよわせることができる社会であるかと考えたりもしま
す。

そうですね、今日は私もらいおんに習って「てつがく」してみようか。

2004/06/03

だれが「本」を殺すのか

だれが「本」を殺すのか(上、下) 佐野眞一 新潮文庫 
ISBN4-10-131636-8
ISBN4-10-131635-X

こんな本があるということは、三月書房
の「三月書房販売速報」で知っていましたが、その本を普通の本屋さんの店
頭でみかけることはなくて、文庫本になったことを知り、上、下同時に購入しま
した。

本屋に行っても買いたいと思う本にあまり出会わない、そんなことを思い始めた
のはいつ頃からだっただろうか。本屋で本を探すとき、本のほうから呼びかけて
くれるんですよ。これと思って探している時なら「ここにいるよ!」、何かいい
ものないかなぁと探している時は「読んで、読んで!」と本のほうから呼びかけ
てくれるんですよ。何かわからないけれど、ピンとくるというやつかなぁ。
こういう感覚は必ずしも新刊の本屋でだけ感じることではなく、開架式の図書館
でも、古本屋さんの店頭でも、私が本を探すというよりも「本」のほうから呼び
かけてくれる、そんな不思議な感覚を味わうことはけっこうひんぱんにあるよう
な気がします。

店頭で本を探す時というのは、そういう感じがあるのだと思っていましたから、
いつの頃からか、本屋にはいってもなぜか本がシラ〜ッと沈黙してしまって、
何にも語りかけてくれない、うん?これは私の勘がにぶったのかなぁと思って
いたこともあったのですが。本屋さんに(私の読みたい本がない)と思うように
なったのは、あながち、私の勘がにぶったわけでもなさそうです。
「だれが『本』を殺すのか」こんな本が書かれなければいけないほど、本をめぐ
る状況は決して明るくないのだ。

いつのまにか文庫本の書棚が妙にカラフルになり、それが当り前になったころ、
文庫本の書棚にはやたらに「XX殺人事件」という種類の本が増えた。うちの近く
の小さな本屋さんでは文庫では「殺人事件」しかないの?と思うほど、そんな本
が増えて、気がついたら単行本の書棚というのは、はて?どこなんだろうと思う
くらいになってしまった。まあ、私も浅見光彦シリーズはけっこう好きですが。

私の買いたい本がないとわかっていても私はかなりひんぱんに本屋に行くのです。
たま〜に「読んで!」と呼びかけてくれる本に出会うことはありますから。

ひところ、京都河原町通りにはけっこうたくさん本屋さんがあって、オーム社、
京都書院、丸善から駸々堂、こういうちょっと大きめの本屋さんの間に小さな書
店がけっこうあって、本屋さんのはしごというのは割合普通のことだった。それ
ぞれ品揃えにも特徴があったし、買いたい本の種類によって本屋さんを選んでい
たような気がする。そして、どの本屋にいっても、「欲しい」と思う本があった
ように思うのですね。書棚を眺めて、いつかあれを買おうとか、そんなことを思
っていたこともあった。

本屋は最近は、フロア面積がとても大きな大型書店が増えた。ほんとうにたくさ
んの「本」があるのは確かですよね。日に何万冊もの新刊書が出版されているわ
けですから。それだけ毎日たくさんの新しい本が出ているのに、本屋にいっても
読みたい本に出会わないとしたら、こりゃちょっと変だよね。2004/05/31

こちら「古本」もどうぞ。



ハヤシマリコさん

ハヤシマリコさんは、林真理子さんのことです。お名前を全部漢字で書くよりは、
「マリコさん」と書くほうが林真理子さんという人の雰囲気が表せるかもしれな
いなぁと単純素朴に思ったけれど。

「ウランバートルの蝶々夫人」もどうぞ。

いつだったか、NHK教育テレビの日曜日の「芸術劇場」にゲスト出演されていま
した。確か何かオペラの特集の時だったと思います。私はこの番組の大ファンで
日曜日の夜は9時からの「N響アワー」と10時からの「芸術劇場」はたいてい
見ているのです。マリコさんがゲストで出た日、へぇ〜、今日のゲストは「林真
理子か、絶対見逃してはいけない」と思ったのは確かなんですよねぇ。
なんでだろ?なぜか興味のある人ではあるんですよね。

というわけで、いま現在、林真理子の本は小説以外のさまざまなエッセイ集をほ
とんど全部読ませて頂きました。小説はほとんど読んでませんというところが何
か言い訳しなくちゃいけない気分にはなりますが。エッセイ集で読んでいないの
は、たぶん「ルンルンを買っておうちに帰ろう」とあと2、3冊くらいかもしれ
ませんね。さすがに「ルンルン」だけは、いま、読むのはなんだかなぁという感
じにはなっているのですが、ま、近いうちに、ここまで読んじゃったんだから、
やっぱり「ルンルン」にも目を通しておこうかと私のほうが負けるかもしれない
けれど。

まあ、ちょっと時代をさかのぼってしまう感じで新しいエッセイ集から始まって、
どんどん前のものを読んでしまったんだけれど、まあ、マリコさんって、なんだ
か、すごいですわ。けっこう俗っぽい面を見せては下さるけれど、かなり醒めて
いるかもしれないし、したたかな大人の女ですわよ。
だいたい日常的なところにころがっている材料をさらさら書いているように見え
るエッセイほど実は難しいものはないと私は思う。

ひとつやふたつの日常的な話題ならそれこそシロートにだって書けるわけ。けれ
ど、それが10年20年の歳月をかけて身近なところから材料を切り取れるかと
いうことになると、これこそがプロの腕だとしか言えないです。
というわけで、なぜか**いまさら**林真理子にはまってる私も何か変かもしれん
と思うのだけれど、いや、いま、私がマリコさんにはまっているのは隠れた理由
があるかもしれんと思う。その理由を本当は書かなくちゃいけないのだけれど、
おいおい、ぼちぼち。。。。。

女性作家のエッセイで、とにかくどんどん読んでしまうのは、
佐藤愛子センセイ
群よう子さん
最近ここにハヤシマリコさんも加わったというところですが。
2004/05/29

「エンジェル エンジェル エンジェル」 (梨木香歩)

エンジェル エンジェル エンジェル 梨木香歩 新潮文庫

「西の魔女が死んだ」を読んで以来、梨木香歩さんの新しい作品をみつけると読
まないではいられない。
  裏庭
  からくりからくさ
  りかさん
  春になったら苺を摘みに
いま手もとに残っている本は「春になったら苺を摘みに」だけかな。「西の魔女
が死んだ」はどうしても読んで欲しい人がいて、その人にあげた。あとは処分し
た本のなかにまざってしまったのかな。
手もとに残さなくても、とても記憶に残る本というのはありますから、
私にとって梨木さんの本はそんな種類の本かもしれない。そういう本でまたどう
しても読みたい時は図書館で借りてくる。そういえば「西の魔女が死んだ」は3
度くらい読んでいるのですが、この本が私の手もとからなくなって、図書館で借
り出した本はハードカバーの本だった。すると、文庫本で読んだときととても印
象が違うような、不思議だけれど、そんな感じを持ったことがあった。なぜかは
わからないけれど、この本は文庫ではなく、ちゃんとしたハードカバーで読んだ
ほうがいいかもしれないと思ったのだ。

さて、「エンジェル エンジェル エンジェル」、正直ちょっと恐い感じがあるの
だ。何が恐いって人間の感情とか心とか、やっぱり不思議なものだという点で
ちょっと恐さを感じるのだ。ほんとうの思いとかほんとうの感情は、いつどんな
きっかけで表にでるのか、自分でもわからないのかもしれない。「表現」という
言葉があります。自分の心や気持ちを正直にありのままに「表現する」、これっ
て本当は実はとても難しいことなのだと思う。

「エンジェル エンジェル エンジェル」筋書きをあかしてしまうのはよくないか
ら、書かないでおこう。そう思うほど、コウコとおばあちゃんの関係が、ちょっ
とよくできたサスペンス的な流れを感じるのだ。なぜコウコとおばあちゃんは
「通じる」ことができるんだろう?熱帯魚のポンプの音がおばあちゃんの心のど
こに響いたのだろう。熱帯魚の水層のなかで起こる魚の食い合い。そんな音と光
景からおばあちゃんは幼い日のことを思い出す。いや、思い出すのではなく、そ
の過ぎ去った時間のなかで生きている姿でコウコの前に現れるのだ。不思議なん
だけれど、人間の心の不思議さをこんな風に書けるなんて、ちょっとびっくりし
たし、実にこわ〜いものを感じるのだ。

さて、あるダンスの舞台を見に行ったことがある。あるダンサーの動きを見て、
それはダンスというよりは「何か動きを探している」そんなことを感じたことが
あった。
その件はあとでそのダンサーの方と話をしたのですが、その方は「本当の動き」
という言葉を使っておられた。うまくは説明できないけれど、その言葉を聞いて、
私が感じたことはその言葉を使うと適切だと思ったことがあります。けれど、そ
れは訓練しなくては得られない表現でもあるなぁとも思いました。

自分の心や気持ちを探る、これは言うほど簡単なことじゃない。けれど、何かふ
としたきっかけがあって、自分の幼かった日のことをありありと目の前に思い出
すことがある。何がそうさせるのかはわからないけれど、まるで昨日のことのよ
うに目の前に見えることが実は私にもあるのだ。そこに何かしら「ほんとうのこ
と」と「真実」があるのかもしれないなぁとふと思うことがある。2004/04/13



さくら、さくら

そういえば「さくら」という歌がありました。
さくら、さくら、やよいの空は
こんな歌詞が浮かんできたのですが、
「やよいの空は」と頭のなかに歌詞はちゃんと浮かんだのですが、うにゅ?「や
よいの空」とは、何だっけと、ふとつまってしまった。
このは
「江戸時代に歌われた曲で、1888年(明治21年)に、明治政府音楽教育
係がまとめた「筝曲集」の中に取り入れられた」歌だそうです。そうそう、そう
いえば「さくら変奏曲」というのがあった。そういうものがひけるようになるま
でには至らなかったけれど。ところで、「やよいの空」とは?何か気になるなぁ。
国語辞書をひいてみた。
あ、「やよい」は「弥生の空」?弥生は3月ですね。でも陰暦の3月。
このような唱歌の歌詞はたいては「ひらがな」で書かれていますから、
「やよいの空」は「弥生の空」と書かれたものは少ないですね。

さくらの歌詞について

本当のことを言いますと、さくらの花で思いうかべた歌は、実は、
さくら、さくら、いま咲きほこ〜る
こちらのほうの「さくら」だったのですが。

京都の町なかには想像以上にたくさん「桜」がある、今年はふとそんなことを思っ
てしまいました。

手近に花見がしたいなら、ともあれ小学校か中学校へいけば、かなりきれいな桜
が見られます。3月、どんなに寒くても、入学式の頃になると、ほんとにきれい
に桜が咲くのが不思議といえば不思議ですね。
二条城周辺の桜もきれい。御室川沿いの京都外大の体育館のあるあたりの川べり
の桜もきれいです。平野神社の桜は満開になると雪のように散る花びらが美しい。
桜の花が見られるのはほんとにわずかの1週間2週間程度ですが、ようやく暖か
さが本当になるのを実感できるし、「春」の風景には欠かせない花ですね。
2004/04/06



テコンドーの岡本依子さん

2004/04/05 
テコンドーの岡本依子さんがアテネオリンピックに個人資格で出場でき
るかもしれないというニュースが入ってきました。オリンピックも関心があると
は言えないほどの関心しかないし、テコンドーという競技もみたことはないから、
何がどうだってことはよくわからないんだけれど、岡本さんのインタビューを見
ていて、あの方の純粋さ、素直さ、だけど、強い意志に、私のほうが限りなく励
まされたのは確か。「テコンドー好きだし、今、泣きません。泣いたらあきませ
ん」と言いながら、こぶしで目をぬぐっておられましたが、テコンドーの団体さ
んの内紛で純粋な気持ちをふみにじってしまうようなことだけはやっぱり許せな
い。



ケータイ小説!?

3月24日朝日新聞の夕刊で、こんな記事を見た。

  ケータイで小説を書く
  「圧縮」した細部に魅力
    中毒性高いデジタル・テクノロジー

この見出しを見た時は、ちょっと勘違いしたかもしれない。「ケータイで小説を
書く」となっていましたから、携帯電話を持っている人が「ケータイ」をキーボー
ドかわりに使って、小説を書くのかと思ったわけ。
でも、この記事はそういう意味ではなく、ケータイに小説を配信するという話し
ですね。小説を書く人がケータイを使ってるというわけではないでしょうね。書
く人はコンピュータですか。ケータイの画面で読む小説ですから、極端に短い。
100字程度の「携帯電話小説」(ケータイ文庫)の話しです。

ケータイ文庫については新潮社のここを見てください。

夕刊を見てすぐアクセスしたんですが、「ケータイ小説」のところを見ていて、
トップページに戻ろうとしたら、もう戻れない。アクセス多数みたいで身動きで
きない状態になっていた(笑)。同時刻にアクセス者多数!みなさん、反応が早
い。こういうことに素早く反応してくるのはやっぱりすごいのだけれど、こうい
う風にして「小説」が読みたいからなのだろうか。

話題(?)のケータイ小説を書いているのは、もともとがスーパー短篇作家の
バリー・ユアグローさん。
超短篇の場合、書きだしの1行に満身の力を込める、そんな感じがしないでもな
いなぁ。その1行で読者を小説の世界に導きいれてしまうとしたら、それはすご
い力だね。ユアグローさん自身は携帯電話を持っておられないそうだ。なぜって、
それは「離れられなくなるに決まっているから」だそうだ。う〜ん?そうなると、
ユアグローさんの小説を携帯で読む人はますます携帯から離れられなくなるんだ
ろうけれど、いいのかなぁ。

日本には俳句や短歌といった非常に少ない文字数での文学が存在する。ケータイ
小説に魅力があるとしたら、そういう世界に通じるのかもしれないけれど。

ずっと以前に、Stephen King(スティーブン・キング)が、ホラー小説「植物」(The
Plant) のインターネット直販をはじめたというニュースがあった。こちらにまとめてますので、
参考にどうぞ。だけど、これは代金の払い込み状況が悪くて、確か中止になって
しまったように記憶している。

「ケータイ小説」ももちろん有料ではありますが、こんな形の「小説」読みたい
ですか?いつでも、どこでも手軽に「読める」のは確かだ。
いつも何か新しいものを探してる、そんな感じの時代ではありますが、デジタル
文化はどんな花を咲かせるのだろうか。

ずっと以前に、福音館書店の松居直さんの講演を聞きにいったことがあった。
その時、本を読み終えて表紙をパタンと閉じて、あ〜おもしろかったと思う、
あるいはそういう言葉が口をついて言葉が出る、それが本だみたいな話しを
しておられた。本を閉じるとき「パタン」と音をたてるということは、その本は、
ハードカバーの本のことを指していますね。松居さんの話しだから、絵本とかも
ふくめての本の話ではありますが。

携帯で小説って、いいのか、悪いのか、私にはわからないねぇ。

まあ、どうでもいいんだけれど、小説を読むときは、読みはじめてその世界に入
り込むまでにやっぱり時間が必要。すっと入り込めるものと、そうでないものが
ある。その世界に入り込むのに時間がかかったが自分に向いてないというわけで
もないのね。入り込むのは時間がかかるけれど、はいってしまうとたまらくおも
しろいと思う「本」もある。

読み終えて「表紙をパタンと閉じる」、読書にはそんな区切りが必要かもしれない。
それは、その世界から出るための儀式のひとつかもしれない。2004/03/25



緑色の不思議

3月12日の金曜日の夜「探偵ナイトスクープ」という番組でちょっとおもしろ
い話を聞いた。というか、この番組、どのテーマもそれなりにおもしろくて、ほ
とんど毎週見てますが。

赤色とか黄色は「あか」、「きいろ」と言いますが、なぜか「緑色」に限って、
「これ何色?」と聞くと、「グリーン」と答える人が多いけれど、本当だろうか
というお尋ねでした。ただし、「人」とは言っても、40代50代以上の「おば
さま」たちがそう答えるという限定つきではありましたが。

町に出た探偵さんが、それらしき年代の女性たちに「緑色」の紙を見せて、「何
色ですか?」と尋ねると、確かに!ほとんどの女性たちが「グリーン」と答えて
いたのです。うーん?なぜ「緑色」と言わないのだろうか、不思議といえば不思
議な話ですね。探偵さんが持っていた緑色より薄い緑系の色について尋ねられる
と、「若草色」だの「うす緑」だのと言った答えもあったようですが。

さて、翌日、私、交差点で信号待ちをしていました。後ろにお孫さんを連れたお
ばさまがいました。信号をながめて、「グリーンになったら渡ろうね」と。おお、
やっぱり「緑になったら渡ろうね」とは言わず、「グリーン」だった。けれど、
その信号の色は「緑」ではなく、確か「青」だったはずではありますが。

信号の色もこれまた「緑」系、「青」系、微妙な色合いではありますが、これま
では「青」と表現していたはずですよね。最近のは「緑」系が増えているようで
すが。となると、信号も「赤」「黄」「青」ではなく、「赤」「黄」「グリーン」
と言うのかなぁ。「グリーン」はたぶん、「グリーン」ではなく、「グリン」と
聞こえるのではありますが、「緑」色の不思議?!?!2004/03/14



あいるらんどのお祭--セントパトリッ クスディ

京都で、「アイルランドフェスティバル2004」セント・パトリックス・ディ・
パレード京都が行われると知って、ついついもの好きの好奇心から、市役所まで
行ってしまいました。

アイルランドフェスティバル2004については、
ここの新着情報を御覧ください。

ところが、3月7日の京都は朝から雪など降っており、もう寒いのなんの。。。。

あまりの寒さのためか、ほとんど人がいない!市役所前広場にテントが5つか、
6つか、CDとか本、アクセサリーなどのおみやげがちょっと。シャムロックという
日本のクローバーに似た植物の鉢植えなどが売ってました。だけど、人がいない!
あんまり寒いので「タラの丘」に避難しました。昼からギネス飲んでしまった。
ギネスビールはあの「泡」に感動します。ビールの泡とは思えないほど、クリー
ミーでとろんとしていて濃厚で、泡が本当においしい。もうビールといったらギ
ネスだよと、しっかりはまりそうです。

1時頃からアイリッシュダンス・ライブとやら。何やらフォークダンスみたい
な踊りをやっていて、この時はちょっと人が増えていたかな。2時すぎからパ
レードするということでしたが、パレードに参加者は200人はいたかな。
いっしょにどうぞと旗までもらったのですが、あまりの寒さと、そこまではいけ
ないか〜という感じではありましたが。

すっごい素敵な犬が5匹ほどいました。犬さんたちはパレードに出ていた。
たぶん、アイリッシュ・セターというのかな、すっごいきれいで、おとなしい。
もう犬にさわりまくりでうれしかったですね。

ほんとに寒い日でしたから、通りすがりにのぞいて行こうかという人というのは、
残念ながらほとんどいなかったのではないだろうか。
なんとなく「緑」のムードがただよって、なんとなく音楽がアイリッシュで、な
んとなく、ああ、アイルランドなのかという感じではありましたが、結果的には
やっぱりけっこうおもしろかったのではないかと思います。

セント・パトリックス・ディについてはこちらをどうぞ。2004/03/09



「ウランバートルの蝶々夫人」

ここのところなぜか林真理子さんのエッセイをあれこれ楽しませてもらっている。
私、林真理子さんについて、なぜかちょっと誤解もあったかなぁ。雑誌に掲載さ
れている短篇小説くらいはいくつか読んだことはあるのですが、なぜか本を買っ
てまで読もうとは思わなかった。林さんは、クラシックバレエやオペラを始め、
歌舞伎やその他舞台を見るのがかなりお好きなようだし、ご自身日本舞踊も習っ
ておられるようで、時にはオペラのアリアを歌うなんてこともあるそうだ。
エッセイ集に書かれたことがそのまま林さんご本人の姿と思ってはいけないかも
しれないけれど、エッセイ集を何冊か読んで、思う以上に楽しい方のようだし、
楽しい方だからこそご自分の周辺からあれこれネタも拾えるのかもしれないなぁ
と、ふううっとなんだか楽しいため息(笑)が出てくる。

さて、「世紀末思いだし笑い」(文春文庫)のなかに「ウランバートルの蝶々夫
人」というのがある。三枝成彰さんのお誘いで、林さんを含む5人でオペラを観
にモンゴルに行かれたそうな。モンゴルでオペラを観る、うん?なんか不思議な
思いがわいてくるような気がする。モンゴルについて、パオや羊、そしてモンゴ
ル出身のお相撲さんがいる程度の知識しかない者にとったら、モンゴルとはいっ
たいどんな国、ウランバートルとはいったいどんな都市なのか、あまり想像がで
きない。もちろん椎名誠さんの本をはじめ、モンゴルについて書かれた本はたく
さんあっても、普通の日本人はモンゴル、ウランバートルについてそれほどの知
識は持っていなくてもそれはそれでしょうがないですよね。

さて、ウランバートルには専門のオペラ劇場があり、劇場専属のオーケストラが
あり、ソリストは20人おり、ちゃんと専属の歌劇団、バレエ団があるそうだ。
これはすごい。日本には劇場はたくさんあっても専属のオーケストラや合唱団、
ましてバレエ団を持っている劇場など、数えようとしても「ない」に等しい。
林さんたちがウランバートルに行ったとき、劇場は工事中で閉鎖中だったとのこ
とですが、遠来の客のためになんと4日間オペラを上演してくれたというのです。
へぇ〜、そんなことがあるの、これまたすごいもんですね。初日は「トスカ」で、
最終日が「蝶々夫人」だったそうです。最後の日に舞台見学もさせてもらったそ
うですが、これが穴ぼこだらけの舞台で、舞台装置もかなりぼろぼろ、オーケス
トラの楽譜も手書きで、楽器も相当ぼろぼろだったらしい。ところが、ところが!
その劇場で観たオペラはほんとうに興奮するほど素晴らしかった、のだそうです。

オペラというとお金がかかるもの、私もそう思ってきた。
けれど、ニューヨークの片隅には感動がいっぱい詰まった「アマトオペラ」があ
り、ウランバートルにも素晴らしいオペラがあるという。
オペラを演じる人たち、そして舞台を観ようと思う人たちの「情熱」がすべてを
支えている!

ひるがえっていまの日本に、いや、私にでもいい、欠けているものがあるとした
ら、それはどんなことにでも「情熱」を注ぎこもうとするエネルギーかもかもし
れないとつくづく反省してしまう。熱気は活気を作り、生き生きした暮らしのエ
ネルギーを生み出すはず。2004/02/29


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