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学童疎開
太平洋戦争の末期,不利な戦局下で予想された空襲の被害を避けるために,
大都市の国民学校初等科児童を個人または集団で農村地帯に移住させたことをいう。
連合軍による直接的な本土攻撃の危機が増大した1943年12月〈都市疎開実施要綱〉が閣議決定されて
都市施設の地方分散がはかられたが,長距離爆撃機 B29による空襲が激しくなる中で
大都市児童の生命を守るために44年6月〈学童疎開促進要綱〉が決定された。
この決定により〈縁故疎開〉を原則としつつ,
それが不可能な国民学校初等科3〜6学年の児童を半強制的に〈集団疎開〉させた。
同年夏,東京ほか12の該当都市が指定され学校ごとに近郊農村地帯への移動が始まり,
45年春には全国で約40万人を超える児童が疎開したといわれる。
十分な準備もなく親もとから離れて寺社,公会堂,旅館などに収容された疎開児童たちの生活は
授業どころではなく,食料,衣料,衛生用品の不足のために病気やノミ,シラミの発生などに悩まされつづけた。
悪条件下での軍国主義的共同生活は,戦局の悪化にともない児童と教師の心理状態を圧迫し,
多くの混乱,対立,不信,苦悩をもたらすとともに,疎開先の住民との間にも軋轢(あつれき)を生み出した。
学童疎開は戦禍から都市児童の生命を一定数守ったとはいえ,
〈教育者のたちばから見たときは,完全な失敗だった〉(浜館菊雄《学童集団疎開》1971)といわれ,
疎開中家族を失った児童は敗戦と同時に戦災孤児,浮浪児となる受難の歴史であった。