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インターネット


 
インターネットと言う情報媒体が出来,世界の一人一人がインターネットを通じて,

情報発信,受信できるようになったことは今世紀の画期的な情報革命である。

書物,新聞,ラジオ,テレビに次ぎ,今まで情報受信だけだったのものが,

今度は手軽に情報発信者として好きなことを自由に発言できるようになった事は大変うれしいことだ。

ホームページも玉石混交でさまざまな意見,宣伝が発表されている。

読む側の選択の自由が有る事だから,それも良いこだと思う。

言葉の壁は有るというものの,最終的には世界平和に寄与すると考えたい。

何故なら世界の一人一人の思い,気持ちが理解しあえるようになってくれば,今までの閉鎖的社会から

開放的社会に移行し,世界は一つだと言う意識が生じ,戦争などという愚劣な行為は

全人類の叡智で無くなって行くと信じたいものだ。   



の副作


 どんな薬にも副作用,病気の治療の為とは違った作用が出てくることがよくある。

その発現の仕方は人により種々で,出ない人,出る人とがある。

殆ど大部分の人には発現しないのが普通である。

最近,気になることは薬製造業者(薬品メ−カ)が副作用情報として沢山な情報を医師に提供してくれる。

これ自体大変有り難いことだが、その副作用は患者のどの人に発生するか判らない。

メーカに聞いて見ると情報提供して置けば,メーカには法律上副作用発生に対する責任がないそうだ。

同じように医師が患者に副作用の有る事を伝えれば、医師にも責任はなくなることになる。

話はそれまでだが,いちいち医師が患者に副作用の有る事を説明したならば,

多分患者は薬を服用しない人が多数出てきて、本来の治療に支障来すことになる。

さらに困ったことはセンセショーナルに新聞乃至テレビで報道されることである。

副作用で死亡例が出たような薬の場合,如何様にすればこの患者さんにとって一番良いか

非常に迷うことが有る。多分大丈夫と思われるが,絶対大丈夫と言うことは出来ない。

投薬して,何もなければほっとする。

患者に副作用の情報を それも沢山な情報を伝えることは到底医師としては出来そうもない。

伝え説明するに大変な時間がかかり,さらに,もしまた伝えた後,患者がどのような反応を示し,

どのような利益があるかを考えればなおさらのことである。

いつも医師は怖い橋を渡らされる宿命を背負わされた立場に置かれている。

非常に稀でも,もし其の患者さんに副作用が起こるならば其の人にとっては100%のことである。

生命にかかわらない多少の副作用は,伝えない方が患者にとっても幸せではないかと考えている。

聞かれれば話すが,仮に,この薬を服用して死んだ例があると話せば,多分服用しないだろう。

願わくば副作用のない,よく効く薬が開発されてほしいものだ。

しかし よく効く薬は往々にして副作用も多くあるように思う。
                                                              
                                                            


新聞,テレビなど,マスコミの責任


  最近あちこちで,毒物混入の報道を新聞,テレビなどで報道されているが,

その報道が誘引でさらにあちこちで事件が引き起こされている感じを受ける。

だから報道しない方が良いとは思わないが,報道の仕方にも一つは原因があるように思える。

一番良い事は犯人を早く検挙することだ。

テレビを見ていて,時々思うことは、ある医学の話題をセンショナールに取り扱って,

医師として間違っていると思われること,まさかと思うようなことを真面目に報道されているのを見る。

これはナントカならないものかと考えることが多々ある。

間違った診断 治療法 養生法など,そしてインチキまがいの医療施設の紹介は社会的責任を持って

編集、報道にあたるべきで,ただ視聴率を上げるだけが目的ならば背筋が寒くなり,恐ろしいことである。

こういつた番組を作る時には真面目な責任ある専門家に相談して実行すべきだと思う。

マスコミの影響は絶大で,結果的に誰かが被害を被るようなことになれば、マスコミが

責任を持つのだろうか。また顕在化しない被害者を防ぐに,取り締まる法律はあるのだろうか。

もし放置しておくとするならば我々医療関係に携わっている者にも責任の一端があるように思えるが,

さてどうすれば良いのか。    


北朝鮮のミサイル,衛星発射


北朝鮮の動向は日本を含め,韓国、中国など,周辺諸国にとって非常に気になる存在である。

政権が父子相伝で権力を握りつづけること事態、時代にそぐわない現象である。

其の国が日本海に向かってミサイルが発射され,さらには二段目が日本の領土を通り越し,

太平洋上に落下した事は大変に日本にとって由々しき亊件て゛ある。

北朝鮮のミサイルが日本の何処に落下しても、おかしくないと言うことを立証したことになる。

精度はもっと実験回数を重ねないと向上しないとの亊だが、近隣にこのような国家が存在する

ことは恐ろしく且つ悲しいことである。

日本もこの事態を傍観するだけでなく、経済的にも科学的にも誰もが北朝鮮より進んででいる亊を認め

ているのだから,毅然たる態度で臨むべき亊だと思う。

少なくともアメリカに自国の安全を守ってもらうというような事でなく,

自国は自国民の手で守る原則をもっと押し進めるべきだと考える。

駐留アメリカ軍の戦力位は日本人自身が自衛隊として持ち,日本の安全は日本人の手で守る。

そうすれば沖縄の基地問題も自然解消されて行くと考えるのは,全く素人の考える事だろうか。

                                                            

嘘と信用


方便として,嘘をついてその場で互いに傷つかぬ嘘もある。

いわゆる嘘も方便の嘘は許されると思うが,仕事上或いは自分が有利に運ぶための嘘は,

これは許されない。人と人との会話は互いに嘘はつかないと言う約束事によって会話がなりたっている。

もしある事を尋ね答えが,嘘の答えで答えるならば,その会話は成立しない。

会話は嘘をつかないことが前提で会話が成立する。

ある職種によっては嘘をつくことが当たり前と考えている人達が往々みかけることがある。

其の職種同士の場合、同類の場合はそれはある程度嘘か゛含まれている亊を割り引き聞いて,

互いに話し合うから,傷はつかぬ。

しかし真実しか話し合わない人との会話て゛は嘘は絶対ついてはいけない。

一言の嘘が相手に深い傷を与え,全く信用を失くして,其の信用を回復する為に,

ついた嘘の何十倍,何百倍の努力が必要となり,場合によって相手から全く信用されないままになって,

見はなされてしまうこともあるだろう。

よほどのことでない限り嘘はつくべきものでない。

嘘を話す場合は相手の信用を失う亊を覚悟して,嘘をつくくらいの心持ちが必要である。

世間には嘘をつくことがが当たり前のごとき人達を良く見かけるが大変残念な事である。  




パソコンと文章


 パソコン並びにワープロで文章を書く場合と,ノートとペンて書く場合との違いは,

まず漢字の誤字を書かないかとの心配で,ノート,ペンの場合いつも座右に辞書を置き書く。

漢字がまちがっているかどうか辞書を引いて誤字を訂正する作業をするが,

パソコンの場合はそれがなく漢字はキーの変換で自動的に出てくる。

ペンの場合は辞書を引いて確認する。

字を書くと言う動作は自然に字を覚える可能性が高いが,漢字キー変換の場合は字を覚える確率は低い。

どちらか良いかどうか分からない。文章の校正,推敲する時はパソコンの方がはるかに便利のように思う。

字を消して改め書くのには,パソコンは得意で,簡単に書き加えたり,消したりする亊が出来,便利である。

パソコンに慣れていない時はペンでノートに書くほうが遥かに早く書ける。      




テレビと読書


 最近はテレビを見る機会が多くなり,それにつれ読書する時間が少なくなってきている。

テレビは視覚と聴覚 特に視覚は直接の訴えがあり,読書の場合は同じ視覚でも文字を読み,

自分でイメージを作り,それから心に訴える所が違っている。 

又テレビの場合受動的だが,読書の場合能動的で意識して自分で読み,

イメージを膨らまし,それは読み手の自由でもって色々なイメージを作る事が出来る。

読む側にとって感受性か゛豊かで創造性が富んでいるものにとっては,読書は有益だが,

より強烈な印象を直接与える点ではテレビの方が優れている。

どちらがよいとも言えないが,時代の進歩と共に人間に情報を与える手段として,

読書,新聞,ラジオ,テレビそれに此れからはパソコンによる情報インターネットが加わって来ている。

限られた時間をどれに割くか,沢山な中からの選択を迫られ,知識の集積,人間形成にとって,

どの情報手段の選択するのが良いかが重要な要因となってきそうで有る。         




人間ってなんだろう


 人間って生まれ来て,それも何処から来たのか分からない。

いずれ此の世をおさらばして,何処か分からぬ所に行ってしまう。その間が人生で,後戻りはあり得ない。

其の事が良く分かっているのに,ダラダラと毎日を過ごしている自分を見て,慄然とする。

考えて見たら短い人生,自分の意志とは違った所で振り回されている時間が多い。

自分の意志と関係無く,どうしても仕方ない事に時間を費やす事が比較的多くあるように思う。

自分の好きな事に,いつも自分の人生を投入出来る人は大変幸せである。

やりたい事があって,時間が有るのにお金が無くて出来ないとか,逆にお金があっても,

時間が無いか,或いは健康を害したりして,出来ない事が往々にして有る。

すべて上手にかみ合う事は稀である。

生まれて来たからには,社会に役立つ事を一つでも多くしたいと考えても,

他の人達が其のように呼応し,同じ考えをもってくれる人が少なく,一人で空回りしている事がよく有る。

思ったように行かないのがこの世の常で,とんとん拍子に事が運ぶのは,むしろ珍しい事と考える事にしている。

人生て何だろう。そして人間ってなんだろう。それだからこそ宗教・哲学を必要とする所以でもあるのか。   


                                                           


全ては吾が師


 吉川英治氏が好んで使っていた言葉のように記憶している。他の人からの借用かどうか,

本当の事は良く分からない。自分が磨かれてくると,全て吾が師の境地になるらしい。

自分の場合は全て逆で,悪い結果に遭遇すると,他の人の所為にしたくなってくる。

人でも,物でも自分の心の持ち方で,学べることが多くある。

誰もが無頓着に過ごしてしまう現象についても、心の状態によっては深く心に影響受ける場合が有る。

それにより心の立派な人は益々磨かれ,其の事に依って,どんどん立派な人になって行く。

できればそのような人間になりたいと希望しているが、なかなか成れるものでもない。

死ぬまでがそれに向かう修行の連続なのか。

できれば早くそのような人間になりたいものと急いでも仕方ない。時が熟さないとなれないものなのだろう。

 

                                                     

自然には勝てぬ


 台風の季節になり,再々台風がやってくる。

いつも新聞に大きく被害が報道され,何人かの死亡者,洪水,家屋の損傷、破壊をみる。

昨日も室生寺の塔の破壊が大きな写真入りで報道されていた。痛ましい光景で有る。

神戸大地震は凄まじい被害が発生し,自然の恐ろしさを,まざまざと見せつけられている。

科学が如何ように発達したといっても,人間は自然に勝つ事はできない事を証明している。

自然に勝てないまでも,台風を見ていて,台風に成長し,手がつけられない以前に

なんとか予防する方法がないのかと素人ながら考える。

医学の場合は早期発見,早期治療で,.ある程度成功を収めている。

同じ手法で初期の熱帯性低気圧の段階で台風を取り除く方法が工夫されないものかと考える。

医学が如何ように発達しても,老,死がさけられないよう,同様に仕方ないことなのだろうか。                                    





純粋な人とは 


 真正直な,素直な人に出会う事がある。

そのような人は世間からは往々にして世間知らずの人と,揶揄されたり,

所謂世間から見て,脱落の人で有る事がある。

そんな人に出会うと宝物に遭遇した如く,嬉しくなってくる。なかなかそのような人に出会う事は少ない。

世間での出世と,人間としての出世、こんな言葉があるかどうか分からぬが,違うように感ずる。

誰もは世間一般の出世を求めるものだが、人間としての出世を求めてもおかしくはないと思うが。

誰も其のように思う人は少ない。

先が読め,要領がよくて 世間知が豊富で,根回しのできる人達が世間では珍重され勝ちである。

でも純粋な人に出会うと,こちらの気持ちがほのぼのとして嬉しくなってくる。

純粋の人になるには知能とは別の才能で、学習で得られぬ天与のものだろうか。

それともやはり学習が必要なのかどうか,分からない。
 

                                                             
                                                           
医学の発達と医療の進歩


 留まることなく医学は日進月歩,発達しているが,医療もそれに伴い進歩しなければならない。 

その担い手である我々臨床家は少なくとも医学に遅れをとらないように,

 講演会,体験学習,雑誌,本,ラジオ,ビデオ,CD-ROMさらには最近テレビでも

終日 衛星放送で学会の放送などしてくれるようになり,雑誌などで読むより理解がし易くなってきた。

インターネットを利用してもかなりの新しい情報が取得できる。

昔と違い,家の中に居てもかなりの情報が得られやすくなってきた。

しかし一見は百聞に過ぎずで,病院での体験は大変貴重である。

間接的な見聞より直に見る事は大変有益である。

高価で医院では買う事が絶対できないような機械類を見る事ができる。

 これらの機械類を見ていて,大正,明治,さらにさかのぼって江戸時代の時のように,

病院と開業医が同じ器具を使っていた時代とは様子が違う事がよく分かる。

最近医療費の加速度的な上昇はこの当たりが原因しているのではないかと考える。

何億円もする機械類を使わずに放置しておくと,病院は経営が苦しくなり,赤字に陥る。

だから出きるだけ使い,それに病院同士の競争が加わり,争って設備投資で機械類を買う事になると,

一番喜ぶのは器械類を研究開発販売する会社となるようだが。?

新しい医療器械が開発,発明されないと,医学の進歩が無くなる。

それでは困るので,頑張って研究はし続けてもらいたいものである。
      
同じ事は薬品について言える事で,医療費の高騰は医学が進歩発展して行くには,

ある程度やむをえないことではなかろうか。                                                                
                                                 



生活習慣病と成人病


 
最近といっても1-2年前,厚生省により今まで呼び習わしていた

成人病のかわり
に生活習慣病と呼びかえられた。これには確かに一理ある。

若い頃からの長年の生活習慣が災いして,壮年,老年に至って病気が発祥すること,

その生活習慣を若い頃から断ち切ることにより,年をとってから発生する病気を予防する意味がこめられている。

タバコの喫煙,大量の酒類の飲用,運動不足,大食での肥満,片寄った食事の摂取,遅くまで遊び過ぎ,

働きすぎなどを防いで,若い頃から良い生活習慣を身につけ正しい生活をする,

それによって病気にならぬよう配慮されて,呼びかえられたに違いない。

しかし毎日の診療で感ずることは此れだけでは無い要因がどうしても有る事が分る。

毎日の生活の為,家族を養うために自分では身体に悪いことを承知で,

無理な生活を強いられている人達を沢山みかける。そのような人達には生活習慣病の名は適当でない。

強いて名前をつけるとするならば,そのような人達には社会病と名ずけても

良いのではないかと思う事がよくある。          

成人病は生活習慣病と社会病を比率はさまざまだが,混合された病気ではなかろうか。
                                                             
  

                                                    

日常の生活と機械化


 電車に乗る際まず切符を買うのに,切符の発売は殆ど機械化され,

行く先のボタンを押してお金を入れ切符を買う。改札口も切符は機械を通して改札口をとおる。

喉が乾いて飲料水を買うのに機械にお金を入れると飲み物が出てくる。

銀行・郵便局へお金を入れたり出したりも機械でできる。お金の振り込みも同様である。

インタネットの入会その他色々全て機械を通し機械が自動応答してメールを送ってくれる。

スーパーでの買い物もパーコードで値段を読み取り,半分機械化されている。

インターネットでの買い物は機械で売買することになる。

料理店では寿司がベルトをまわり其のうえの寿司をとって食べる。これも半分機械化されている。

産業のなかでは機械化が随分と進んでいるように聞く。

映画でチャップリンが風刺して,撮った風景が今や現実化している。

医療の世界もロボットが診断し,ロボットが治療,介護する時代が現実にすぐ近くに来ているように思える。

機械化による便利さ、効率化が本来の人間の暮らしに幸福をもたらしているのか,どうか。

人間其のものも機械化された人間になるのではないかと心配する。

効率主義,実用主義の行きつく所はは人間性喪失の世界ではなかろうか。

何処かで歯止めをかけ,効率の良さ,便利の良さと人間らしさの調和を見出す時期に

そろそろ来ているのではなかろうか。
                                        1998年9月    10月  


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