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七代目市川団十郎の印籠

 印籠が一つ今も残っているはずである。それは歌舞伎役者、七代目市川団十郎が助六を演じた時に提げたといわれる「牡丹鯉瀧登図」印籠である。

○原羊遊斎の蒔絵下絵集
 一九九九年十月に、五島美術館で開催された『羊遊斉 江戸琳派の蒔絵師』展の図録に、蒔絵の下絵集の図版や記述がある。それは江戸時代の蒔絵の下絵集で、蒔絵師は原羊遊斎、下絵は江戸琳派の総帥・酒井抱一や狩野派の画師、その他の画家によるもの、あるいは羊遊斎自らが臨写した縮図等が丁寧に貼付されたもので、現在八冊知られている。
 出光美術館が所蔵する下絵集五冊はいわゆる里帰り本で、同展図録に収載される玉蟲敏子氏の論文中に「チャールズ・ハヴィランドは、十七冊にもおよぶ蒔絵下絵帖を所持しており、それは原羊遊斎によって蒐集されたもので、多くは光琳に基づく写しで、櫛・手箱・団扇などの下絵であり、抱一の署名のあるものもあったが、一八七三年に日本を離れた(中略)出光美術館が所蔵する原羊遊斎蒔絵下絵帖のなかに、ハヴィランド旧蔵の下絵帖が含まれていることを、筆者は幸いに確認することができた」とある。ところでその下絵集の中に三升、つまり市川団十郎(七代目)に係わる印籠の図が四葉貼り付けられていたのである。

○羊遊斎と市川団十郎家
 羊遊斎と団十郎家について前出の展覧会図録等を参考に簡単に記しておく。
 原羊遊斎は通称「久米次郎」「粂次郎」「久米二」、号「更山」といい、出自は定かではなく、「原更山寿像図」や墓石の歿年銘記、あるいは『鷹見泉石日記』などから算定して明和六年(一七六九)五月十三日前後の生まれと考えられており、弘化二年(一八四五)に七十六歳で歿した。恐らく酒井抱一との関係からと考えられるが、文化人との交流も多く、また古河藩のお抱え蒔絵師として土井家に仕え、当然家老の鷹見泉石とも親交があったわけである。寿像図は合作で、作者を拾ってゆくと肖像画は谷文晁、他に亀田鵬斎(儒学)、中井董堂(書)、大田蜀山人(狂歌)、酒井抱一、小鸞女道士(大文字屋遊女、抱一が身請け)、七代目団十郎、幹長、真敏の名が見える。このように羊遊斎の交友関係は広く、また松平不昧ら当代の数奇者や大名家との付き合いも多い。半世紀ほど時代は下るが、柴田是真が画と蒔絵に独自の境地を開いたのに対し、羊遊斎は主に当代一流の画家達による下絵を用いた蒔絵で名を馳せた。ただ『近世人名録集成』(勉誠出版)に羊遊斎は勿論、管見の限りでは蒔絵師は掲出されないので、蒔絵師はそれほど特別扱いされていたわけではないようである。蒔絵は全工程を一人で行うことは稀で、何人もの手を経て完成するのが通常であり、そのことが一人の作家として捉えられない理由かもしれぬ。蒔絵師は『蒔絵師伝・塗師伝』『裝剣奇賞』等が主要な人名録といえよう。是真は画人として数種の人名録に収録されている。
 市川団十郎家は早世したり自殺者が出たりして、もちろん当時の医学や薬学は覚束なく、早世する者もほかに沢山いたのであるが、少々波乱に満ちた家系のようである。 
 初代は江戸初期の万治三年(一六六〇)に誕生、のちに市川団十郎家(市川宗家)を起こす。屋号は成田山新勝寺との関係から「成田屋」とし、定紋は入れ子升の「三升」で、荒事を得意とした。しかしながら元禄十七年(一七〇四)に舞台の最中に刺殺されるという事件が発生、享年四十五歳であった。
 二代目は初代の実子で、父親の急逝により跡を継ぎ、団十郎家の基礎を築く。俳諧や狂歌も能くした(号栢莚)。
 三代目は養子で二代目の隠居にともない団十郎を襲名したが、寛保元年(一七四一)に大坂で発病、翌年江戸で二十二歳の若さで病死する。詮方なく海老蔵と改名していた二代目が舞台を勤めたが、のち高弟の二代目松本幸四郎を養子にし、四代目団十郎(号五粒、柏筵)を継がせた。
 五代目は幸四郎の実子で、俳句も得意で「白猿」の俳名で活躍した。また写楽が大首絵にしている。五代目の子息桃太郎は安永五年(一七七六)八歳で死去した。
 六代目は妾の子であったが養子縁組の形を採り名跡を譲った。しかしまたも二十二歳の若さで風邪をこじらせ急死してしまう。六代目の急死により、養子であったゑび蔵が七代目を襲名する。なかなかのやり手で文化人との交流も多く、荒事十八種を選び「歌舞伎狂言組十八番」を確立、市川宗家の権威を高めることに成功した。

 八代目は三十二歳で自殺し、九代目は劇聖と呼ばれ歌舞伎界で数々の功績を遺したが、十代目として期待のかかる養子(九代目の子供は二女のみ)は三十七歳でまたも急死してしまい、十代目を継ぐ者は無かった。九代目は跡目のことをせずに死去したため長く空白で、長女の夫の五代目市川三升(元銀行員、のち役者に転向)は昭和三十一年に死去するが、歿後に十代目団十郎を追贈された。
 十一代目も養子であるが、団十郎襲名ののち三年半後に五十六歳で胃癌で逝去する。
 十二代目は十一代目の長男で、新之助時代に小生は赤坂かどこかのクラブで紹介された想い出がある。当時二十歳そこそこであったと思うが、凛とした飲み方で、さすがに歌舞伎役者との印象を持った覚えがある。今年の二月三日に六十六歳で黄泉の国に旅立たれたが、心からご冥福をお祈りする次第である。
○助六の衣裳と印籠
 二代目団十郎は生涯三度の助六を演じている。京大坂で上演された助六を江戸に持ち込み、独自の演目としたのである。
 正徳三年(一七一三)四月、山村座「花屋形愛護桜」にて二代目団十郎が助六を初演する。『市川団十郎の代々』(伊原青々園著)に、二代目が助六を初演した時の衣裳が「黒紬へ三升と牡丹の模様の台附のふせ縫、幅広の帯に椛色木綿の鉢巻、紺足袋をはき、長刀を一本さし、両肌をぬぎ、尺八を振揚げ」とあって、この時点ではまだ印籠を提げておらず、また紫の鉢巻ではなかった。二度目は正徳六年(一七一六)で、衣裳も演出も変化して「尺八を腰にさし、蛇の目傘を手にした助六は、花道の出端に美しいおどりを見せた。初演の鉢巻は柑子色木綿であったのが黒絹になり、長刀が小刀に、黒紬が黒小袖に変った」し、寛延二年(一七四九)の三演の時には「黒羽二重の小袖に紅絹の裏、杏葉牡丹の五所紋、下には浅黄無垢の一つ前、綾織の帯、鮫鞘、一つ印籠、紫縮緬の鉢巻を左に結び、蛇の目傘をさし、桐柾操抜の下駄で花道の出端でおどった」(西山松之助『市川団十郎』)とあり、三十三年ののち、その間享保十八年に市村竹之丞、元文四年に三代目団十郎が助六を演じているが、それらを経て助六の形がこの時に「だいたい現行どおりの戯曲にまで完成されたと見てよい」(河竹繁俊『日本演劇全史』)と考えられている。

 二代目団十郎が三度目の助六を演じた時に用いたと思われる印籠の記事がある。平戸藩主松浦静山の随筆『甲子夜話』に記されている。『甲子夜話』巻六十八に「壽字の印籠あり。先考松英公本荘に退老ありし後、市川柏筵縷々御伽に出ける。或時、公の問はれしハ、今何をか狂言すると(中略)黒繻子小袖、杏葉牡丹の紋、紫鉢巻して鮫鞘の一小刀を帯候と。公曰く左らば印籠を與ふべし(中略)夫よりこの狂言の歌の中に一つ印籠一つ前といふ文句を添たり」(紫の鉢巻とあれば今年初演の時にてハなきかも知れず)とある(伊原敏郎『歌舞伎年表』)。篤信公(松英公)の隠居は享保十二年(一七二七)で、のち宝暦六年(一七五七)十二月に死去しており、その期間中に演じられた助六は、二代目団十郎の寛延二年(一七四九)と四代目団十郎の宝暦六年(一七五六)である。柏筵ならば四代目の俳名であるが、内容から二代目の栢莚のことである。その証左に二代目の日記には「松浦侯の隠居、畠山侯の隠居、津軽侯隠居などが(中略)芝居茶屋へ呼んで振舞いをうけた」(『市川団十郎』)とあり、大名の隠居達との付合いも多いようで二代目団十郎と断定できる。さすれば間違いなく、寛延二年、団十郎三度目の助六上演の時の話である。三度目上演の初めの方では、まだ印籠を提げておらず、松英公から印籠を拝領してからの事のようである。また『図説日本の古典』(集英社)の「歌舞伎十八番」に収載される山東京伝筆の助六図(氏家浮世絵コレクション)に「壽字」の印籠(黒漆地に金蒔絵の壽字)を提げる助六が描かれている。京伝の生存年(文化十三年歿)から、少なくとも六代目団十郎まで「壽字」の印籠を使用していた証となるであろう。二代目団十郎が松浦篤信から拝領した印籠を歴代が使用したと思える。

○七代目団十郎の印籠
 七代目団十郎は幼名小玉といい、寛政三年(一七九一)江戸に生まれ六代目団十郎の養子となった。四歳で初舞台を踏み、六歳で「暫」を演じたといわれる。ところが寛政十一年(一七九九)に六代目が急死したため、翌年七代目を襲名するが、十歳の時である。その後実力を付けていき名優の道を歩む。
 七代目団十郎の注文した印籠のことが、羊遊斉展の郷家忠臣氏の論文に収載(抱一や羊遊斎の親友芳村観阿・号白醉菴の『白醉菴筆記』)されているので掲出する。「当時の団十郎甚だ数奇者にて、舞台提げの印籠は頗る結構なる拵ひの物を用たり、先ず瀧登鯉の図は文晁の下絵、牡丹は抱一上人下絵、粉地高蒔絵にて、内は刑部梨子地とし、原更山と申すもの製作せる由、更山は神田下駄新道に住居せり(中略)此の印籠下絵より拵上げ迄三十五両は慥かに費へり、其上珊瑚の緒〆玉は拾両位、根附枝珊瑚十五両位、都合六十両の品なり(後略)」とあり、その印籠は牡丹と鯉の瀧登り図である。
 当時の一両は現在の円に換算すると凡そ十万円位に当たるそうで、さすれば安く見積もって六百万円ほどの豪華な印籠ということになる。文晁と抱一の下絵と羊遊斎の製作費が合計三百五十万円、緒〆と根附が合計二百五十万円となると、印籠の下絵や製作費が正当な価格とすれば、珊瑚が当時貴重品であったと想像できる。          
 羊遊斎の下絵集貼付の三升依頼の印籠の文様は、三枚が鯉の瀧登図のみで、一枚には「谷文一下画」「三升印篭下画」「龍門鯉図 一葉文一」の添書がある。もう一つは署名は無いが「鯉の瀧登と牡丹」の文様である。この図の印籠が白醉菴がいう印籠かどうかは特定できないが、可能性はあるだろう。

 『市川団十郎の代々』には「助六の帯は三升に牡丹を金糸色糸にて繍ひ、この価一尺につき銀五十八匁(当時大坂の米価一石五十九匁)なりき。印籠は意休に扮せし五代目松本幸四郎が聟引手として三十両にて新調せしを贈り、梶川の蒔絵、鯉の瀧登りなり。根附の枝珊瑚珠は鳥越辺の坊主衆が質入せしを元金十五両にて団十郎が受出し、別に三村某より贈られし九分珊瑚をも此の時に用ひ」とあり、印籠は団十郎が作らせたものではなく、贈られたものとの記述である。根附は団十郎が質屋から受け出したが、緒〆は三村某からの贈り物とあって、白醉菴の記述とかなり異なる。伊原青々園がどのような資料から引用したかを確認せねばならないが、今のところ不詳である。印籠の製作費や文様、あるいは根附のことなどは白醉菴の記すところと似ているが、梶川の蒔絵(梶川家は幕府お抱えの蒔絵師)は恐らく間違いで、羊遊斎の製作になる印籠が正しいはずである。抱一や羊遊斎と親しかった白醉菴の方を信用したい。実際に下絵集に鯉瀧登の印籠の図が貼付されていることからも明白である。いずれにせよ、これらの記事以外に、これほどの印籠があまり話題に上らなかったのが少々不思議ではあるが、あくまでも小道具でしかなかったのかもしれぬ。
 ともあれ牡丹の文様は、市川宗家が替紋として用いる「杏葉牡丹」を助六の衣裳に使用し、家紋は近衛牡丹であるので、印籠の片面に蒔絵されても不自然ではないが、鯉の瀧登の文様はどのような意図から生まれたのであろうか。鯉の瀧登を市川家の家紋とする研究家もおり、牡丹と鯉の両紋を表裏に表わした印籠とも考えられるが、『明和伎鑑』(淡海三麿著、明和六年刊)には市川宗家の紋は三升、舞鶴、壽の字の三種のみで鯉や牡丹は記載されず、また現代の成田屋の話では市川宗家の定紋は三升、替紋は杏葉牡丹で堀越家(本名)の紋は近衛牡丹とのことである(「家紋を探る」森本勇夫)。つまり鯉の瀧登、舞鶴、壽の字、ほかに寿海老や蝙蝠なども紋として挙げる方がいるが、それらは衣裳に採用された文様といえる。家紋や替紋をそれほど沢山持つわけがないのである。前出の「歌舞伎十八番」には、政信筆「中村座芝居図」(二代目団十郎の不破伴左衛門の衣裳は壽字文様、享保十六年)、初代豊国「七代目団十郎の弾正」(衣裳は海老や鯉の瀧登文様、文化九年)、三代豊国「五代目海老蔵(七代目団十郎)の鎮西八郎為朝」(衣裳が鯉の瀧登文様)の図版が収録されている。これらの資料から、七代目団十郎は鯉の瀧登文様を好んだことが判る。
 ところで助六の愛人三浦屋の花魁揚巻の衣裳は、豪華絢爛で、数種の裲襠(うちかけ)や俎板帯で五節句を表現する。五節句とは正月、桃、端午、七夕、重陽で、このうち端午の節句は周知のとおり男児の成長や出世を祝う行事で、鯉幟を立てる風習がある。端午の節句の表象として、揚巻は鯉の瀧登の文様の帯を正月用の裲襠に使用する。この五節句の衣裳は、二代目団十郎の時代からすでに始められていたといわれる。『演劇界』(2010年8)に中村福助が「初演は栢莚さん(二代目団十郎)の時代ですから三百年近く前のことですが、その時すでに五節句にちなんだ衣裳が使われていたそうです」と書いている。
 団十郎が助六を演じるに当たり、龍門の鯉の由来から舞台の成功あるいは出世を願い、揚巻と同じ文様の印籠を付けることで一層の愛情表現とし、また観客を驚かせる狙いがあって、文晁や文一にこのような下絵を描かせたのではないだろうか。

 羊遊斎製作の牡丹鯉瀧登図印籠を団十郎が使用したのが文化八年(一八一一)二月十八日、市村座での「助六所縁江戸桜」上演の時と考えられている。弱冠二十歳の七代目団十郎の助六は、この時が初演で、大変な期待を背負ってのことであった。
 浮世絵にはほとんど助六の印籠は描かれていない。少ない資料の中で、歌川国安(寛政六年〜天保三年)は文政二年の七代目団十郎、二度目の助六を描いているが、その印籠は松皮菱か雷文のような形を散らし、牡丹と思える文様を描いたものである。国安が実見して描いたとすれば、団十郎はすでにこの時に牡丹鯉瀧登図の印籠を使用しなかったのである。貴重な品で大切に保管していたと考えられるが定かではない。
○印籠の行方
『別冊太陽 印籠と根付』(平凡社)に十二代目団十郎が「助六の印籠」と題して小文を載せているので要略し引用する。「二枚目たとえば廓文章の伊左衛門ですと華奢で洒落たもの、熊谷や盛綱などの生締ものの武士ですと、厳しくて堂々としたもの、鞘当でしたら不破伴左衛門は雲と雷文様に近いもの、名古屋山三郎は雨に濡れ燕の柄があり、それに馴染むもの、助六ですと牡丹をアレンジしたもの」「昔は衣裳にしても持ち物にしても、自前で揃えたと聞いていますが、現在手許に残っているのは助六の印籠だけでしょうか。木の無垢に漆を塗り、牡丹文の金蒔絵を施したもので、舞台用で薬などを入れる細工になっておらず、普通のものの二倍以上はある。七代目さんの頃、文化文政から天保頃ではないかと思います(中略)襲名披露など特別の折り以外、舞台で下げることはありません」。この文章に十二代目が助六を演じている写真(梅村豊撮影、十二代目団十郎襲名披露時か)が添えられているが、その印籠は黒漆地に金の牡丹文である。写真で見るとそれほどの古さは感じないが、大切に保管されておれば奇麗な状態で残っても不思議はない。しかしながら鯉の瀧登文様や羊遊斎には触れていないし、写真では判別が困難であるが恐らく両面牡丹文と思われるので、七代目団十郎初演時の印籠と異なる。やはり奢侈禁止令で処罰され、諸道具類も没収されてしまい、牡丹鯉瀧登図印籠はじめ、七代目団十郎が好んで用いた印籠や道具類は市川家に伝世しなかったようである。『江戸歌舞伎 歴史と魅力』(江戸東京博物館)に市川宗家伝来の鮫鞘、尺八、印籠が収載されている。印籠は黒漆地に牡丹文で、緒〆は丸珊瑚、根附は枝珊瑚である。十一代団十郎使用との解説が付くが、十二代目の書いている印籠のようである。寸法は縦14.6センチ、横6.3センチ、厚み3.4センチの特に縦に長い印籠である。この印籠が伝世したのであろうが、七代目や八代目まで遡るかどうかは、実物を見ていないので何ともいえない。大正六年発行の『市川団十郎の代々』にも歴代の所蔵品が掲載されているが、印籠は無く、またこれらの所蔵品は関東大震災により灰燼に帰したといわれる(渡辺保『四代目市川団十郎』筑摩書房)が詳細は不明である。
 天保十三年(一八四二)四月に七代目団十郎は、南町奉行所からのお達しで、觸面に背きし廉を以て吟味中手鎖の上家主預かりとなり、のち奢侈禁止令(天保の改革)に背いた罪で江戸十里四方追払いとなる。六月二十二日の遠山左衛門尉(遠山の金さん)の落着申渡に重要な記述があるので抜き書きする。「(前略)革製具足一領并鉄にて甲無之具足一領、何れも武用之品を所持致狂言に相用ひ且又先代より持伝へ候とも珊瑚珠之根付締メ付候高蒔絵の印籠等狂言之節相用ひ(中略)觸に背候品并居宅取崩候木品共取上ヶ江戸十里四方追放申付ける」とあり、印籠が先代よりの物との記述があるが、高蒔絵に珊瑚の根付等から七代目が製作させた牡丹鯉瀧登図印籠と思われる。江戸十里四方追放にしては罰が重いが、ともかく高価な品物は没収されたのである。
 天保十三年以降に団十郎家で助六を演じるのは、天保十五年中村座「助六廓桃桜」の八代目団十郎であるが、もし十二代目が記述しているように、文化文政か天保時代からの伝世品とすれば、天保十五年の助六で八代目が使用した印籠ではないかと推定できる。新しい印籠を製作させたが、それほど豪華な蒔絵の品ではないようである。羊遊斎あるいは名のある蒔絵師ならば銘があるはずで、何の記載もないので、あまり著名でもない蒔絵師に依頼した印籠と思われる。それは八代目団十郎の印籠であろう。天保十四年頃の製作で、没収されたあとに豪華な蒔絵の印籠は遠慮し、また奢侈禁止令もあって簡素な印籠を製作したと考えられる。七代目は追放の命が下った三日後の六月二十五日に江戸を出ているので、新調する余裕も必要もなかったと考えられる。八代目自殺後、五代目ゑび蔵(七代目団十郎)は安政四年に大坂で助六を演じているが、印籠のことは不詳である。
 安政五年(一八五八)久しぶりに江戸に戻った海老蔵は、安政六年正月、中村座「魁道中双六曽我」に出演するも、下の巻「正札附根元草摺」の幕に舞台で発病し、同年三月二十三日に死んだ。六十九歳の生涯であった。

 ところで奉行所による没収品はどうなったのであろうか。江戸初期以降、闕所物奉行(けっしょものぶぎょう)というものが置かれ、死罪、遠島、追放などの処分を受けた者の財産を没収する職制があり、没収した財産を入札に掛けたりして売却したという。またお上が取り上げる事もあるらしい。江戸十里四方追放にしては、財産没収という重い罰を受けた七代目団十郎の牡丹鯉瀧登図印籠も誰かが購入し、あるいは大名家に召し上げられ、今もそこに伝世しているかも知れないのである。上記『印籠と根付』に尾張徳川家の蓬左文庫「御印籠附」に「弐拾番 鯉瀧」と記される印籠が一点あるが詳細は不明である。また羊遊斉展の図録には二千五百件に及ぶ売立目録を精査し、羊遊斎作あるいは羊遊斎作と推定される作品が収録されているが、残念ながら鯉瀧登図印籠は発見できなかった。

[略年表]
 <団十郎や助六にまつわる事項を伊原敏郎の労作『歌舞伎年表』(岩波書店)を参考に簡単に記す>
○延宝元年(一六七三)初代団十郎十四歳の初舞台である。
○元禄十年(一六九七)市川九蔵(十歳、のち二代目団十郎)初舞台。
○元禄十七年(一七〇四)二月十九日、初代団十郎横死。
○宝永元年(三月十三日改元)七月十五日、九蔵改め二代目団十郎(十七歳)となる。
○宝永三年(一七〇六)京早雲座「助六心中紙子姿」が助六の初演。同年大坂片岡座「京 助六心中」上 演。
○正徳三年(一七一三)四月、助六に二代目団十郎、初演。
○正徳四年(一七一四)二月八日、山村座断絶。江島生島事件による。
○正徳六年(一七一六)二月、助六に二代目団十郎、二度目。
 「この時から大かた今の姿になりしなり」と『市川団十郎の代々』にあるが、三度目が 正しいようである。
○享保二十年(一七三五)二月十二日、松浦侯より三代目団十郎尺八を賜はる。
○元文四年(一七三九)三月、助六に三代目団十郎、初演。
○寛保二年(一七四二)二月二十七日、三代目団十郎大坂にて発病、江戸に帰りて死す。
○寛延二年(一七四九)三月、助六に海老蔵(二代目団十郎)、三度目。
○宝暦六年(一七五六)四月、四代目団十郎助六を初演するも大不評とある。
○宝暦八年(一七五八)九月二十四日、海老蔵(二代目団十郎)死去。七十一歳。
○宝暦十一年(一七六一)三月、白酒売に四代目団十郎。助六は亀蔵。
○明和八年(一七七一)三月、助六に五代目団十郎。
○安永七年(一七七八)二月二十五日、市川柏筵(五粒、四代目団十郎)死す。六八歳。
○天明二年(一七八二)五月、助六に五代目団十郎。同年同月市村座でも羽左衛門の助六で「助六所縁 江戸桜」を上演する。
○天明四年(一七八四)三月、意休、鬼王に五代目団十郎。
○寛政十一年(一七九九)三月、助六に六代目団十郎、初演。海老蔵二十三回忌追善。
 同年五月十三日、六代目団十郎死す。二十二歳。
○文化三年(一八〇六)年十月晦日、五代目団十郎(白猿)死去。
○文化八年(一八一一)二月、助六に七代目団十郎、初演。
○文政二年(一八一九)三月、助六に七代目団十郎、二度目。同年同月中村座にて菊五郎
 の助六上演。これより両人不和となる。文政五年に和解。
○文政十一年(一八二八)三月、助六に七代目団十郎、三度目。
○天保三年(一八三二)三月、外郎売ととらや藤吉の二役に八代目団十郎(十歳)初舞台 で襲名披露、助六に七代目団十郎改め五代目海老蔵、四度目。
○天保十三年(一八四二)六月二十五日、白猿、江戸出立。同年七月、九月中旬、幡谷重蔵と変名し伊勢の舞台、十一月大阪角の座に海老蔵として出勤。のち大坂の舞台に立つ。
○天保十五年(一八四四)三月、助六に八代目団十郎、初演。
○嘉永二年(一八四九)十二月二十六日、市川海老蔵御赦免となる。
○嘉永三年(一八五〇)三月、助六に八代目団十郎、二度目。
○嘉永七年(一八五四)八月六日、八代目団十郎、大坂にて自殺す。なお、八代目の自殺 については戸板康二の『団十郎切腹事件』(河出書房新社他)や西山松之助『市川団十郎』を参照されたし。
○安政四年(一八五七)七月大坂で助六にゑび蔵(七代目団十郎)。
○文久二年(一八六二)三月、助六に河原崎権十郎(七代目団十郎五男、後九代目団十郎)初演。

 余談だが江戸っ子は「火事と喧嘩は江戸の華」などと粋がっているが、実際に火事の多さには驚かされる。芝居小屋も幾度となく焼失、類焼しては再建されている。前出『市川団十郎』に「わけても娯楽街の中心であった中村・市村両座の火災はきわだっていて、明暦の江戸大火で全焼してから、今回の天保12年に至までの185年間に32回全焼している」とある。                     注:傍線は筆者