間歇日記

世界Aの始末書


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2003年11月中旬

【11月19日(水)】
▼人間五十年と言うが、どうも最近、人間の脳は四十年くらいがひとまずの寿命なのではないかという気がしてきてならない。企業三十年寿命説みたいなもんである。つまり、四十歳くらいになると、自分の脳がなにをどういうふうに発想し、どういうふうに情報処理するかがおおかたわかってきてしまい、自分の脳に飽きはじめるのではないかと思うのだ。べつに確たる根拠があるわけではなく、ただただそういう実感があるだけなのだ。同年輩の方々も、たぶんそんなふうに感じているんじゃないかと思う。ここらでおれはなにか、いままでの人生でまったくやってこなかったことなどをはじめて、なけなしの脳の可能性を引き出さねばならないのかもしれない。さもないと、残りの人生を自分の脳に退屈して過ごすことになる。いまからはじめれば、十年か二十年か三十年かはできるはずであって、なんであれ、それだけやっていればかなり楽しめるものにはなるだろう。さて、問題は、なにをはじめるかなのだが……。

【11月14日(金)】
▼朝、会社へゆく準備をしていると、母が喉を両手で押さえながら、血相を変えてやってきた。しわがれた声で、「……薬、銀色のやつごと、飲んだ」と苦しそうに言う。ははあ、錠剤が入っているパウチごと呑んだという意味であるな。しゃべれているということは呼吸はできているということであるから、一刻も早く気道を確保するなどといった緊急性はなかろう。トイレへ連れていって吐かせようとしたが、喉のあたりに止まったまま、いっこうに出てこないようだ。
 そもそも、どういう状況であれば、あのようなものをパウチごと呑んだりできるのかを確認せねばなるまいと、どれを呑んだのか実物を見せろと母に言ったところ、ご丁寧にも一錠ずつ鋏でパウチを切り離した錠剤であった。二錠ずつ飲まねばならぬ薬を二錠ずつあらかじめ切り離しておくというのなら合理的な意味があろうが、一錠ずつ飲む薬を一錠ずつ切り離しておいていったいなんのメリットがあるというのだろう? 誤ってパウチごと呑んだりするリスクが高まるだけだ。べつにおれの母は著しくボケているというわけではなく、むかしからしばしばこういう不可解なことをする。思い込みが激しいうえに、意味よりも形式にこだわる性格だからだ。「病院で処方された薬というものは、あらかじめバラバラに切り離しておくもの」というルールをいったん自分の中に作ってしまうと、ルールを作ったときの合理性がいつのまにか失われ、その形式のみに捕われてしまう。ある意味、非常に日本人的な性格と言える。官公庁のようだ。不思議なことに、母は売薬ではそのようなことはけっしてしないのである。
 上から出ないのであれば、いたしかたない。下へ落とすしかあるまい。腹の中で溶けて有毒物質を出すボタン電池などとはちがい、あんなパウチなんぞ少量食ったとしてもたいしたことはないだろう。下手に上から出そうとして食道を傷つけるよりも、胃のほうに落とすのが合理的だ。パウチはほぼ正方形に切り離されているから、角で食道が傷つくおそれもあるが、粘膜で保護されている消化管は少々尖ったものを食ったくらいで大事に至るほどヤワなものではなかろう。剃刀の刃を呑んで吐き出す藝人もいる。カタツムリは剃刀の刃の上を平然と歩く。少々形の変わった魚の骨が引っかかったのと、事態の本質は変わらないはずである。
 そこで、米で小さなおにぎりを作り、それをできるだけ噛まずに呑み込むようにさせてみた。二、三個食ったところで、胃まで落ちたようだ。むかしの人の知恵は偉大である。
 しばらく様子を見てみたが、出血はないようだから、大事ないだろう。一錠ずつ飲む薬を一錠ずつ切り離すような無意味なことは危険が増すだけだからしないようにと言い聞かせ、会社へゆく。あのパウチがなんでできているかは知らんが、どのみちなんらかの有機ポリマーとアルミ箔であろうから胃酸で溶けるか、溶けないとしてもたいした大きさではないのだから、蠕動で他の内容物と一緒に塊になり自然に排泄されるだろう。まったく朝からひやひやさせてくれる。
10月31日の日記を読んだ林譲治さんから、超合金Zに関する考察がメールで寄せられた――『思うんだけど、超合金Zって、本当にZなのか? マジンガーZを作った博士ってのは、けっこうな年配者のはずで、あの世代の感覚では「Z」ではなく「乙」が自然だと思うんですが。僕らが小学生の時点ですでに老人なんだから、戦争体験者ですよね。書類に超合金乙−−きっと超合金甲とか超合金丙なんてのもあるんでしょう−−と書いてあったのを、若い科学者がZと読み間違えてそっちが広がったんで、博士も超合金Zと呼ぶようになったとか……』
 ううむ、鋭い指摘である。そういえば、中学校の技術の先生に、「年配の人にはT定規を“てーじょうぎ”と言う人がいるが、Tを“てー”としか読めないのか、“丁定規”のつもりで言っているのかはさだかでない」と教わったことがある。もしかしたら、マジンガーZも、ほんとうは「魔神力一乙」かなにかだったという可能性はある。「イ号弐式マジン力一乙」なんてのは、旧日本軍の未完成兵器かなにかにいかにもありそうである。だとしたら、グレートマジンガー「マジン力一改」だ。
 そうかー、あれは超合金乙であったかー。

【11月11日(火)】
中島美嘉「雪の華」というのはたいへんいい曲だとおれも思うのであるが、どうもあれを聴くと、チョコレートをまぶした巨大なウェハースのようなものが「チュウ、チュウ」と鳴きながら手を振っている不条理な映像が自動的に脳裡に浮かんできて困る。当該菓子にはなんら含むところはないけれども(そもそも食ったことがない)、いったい全体、なにを考えてよりもよってああいうCMに使ったのだろう? いやまあ、たしかに冒頭はロマンティックなシリアス路線だと錯覚させないとあのCMは意味がないのだが、あまりといえばあんまりである。


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