間歇日記

世界Aの始末書


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2003年11月上旬

【11月9日(日)】
「京都SFフェスティバル2003」の続き。結局、ちゃんとした合宿企画には、「テッド・チャンの部屋」にしか参加せず、朝まで大広間でなんやかんや駄弁る。Arteさんに、フィギュアスケートのすばらしい世界について、独裁国家の反体制組織かなにかが何度もコピーを繰り返して地下に流したような画質のドイツのフィギュアスケート大会のビデオを見ながらレクチャーを受ける。なんの分野によらず、深くて濃ゆーい世界があるものだ。周防正行川端裕人が、いつの日かフィギュアスケート映画を撮ったりフィギュアスケート小説を書いたりしても、これでおれは驚かない。そこへ小林泰三さんがやってきて、“冷麺”というシニフィアンに対応するシニフィエとレフェランについての哲学的な論考をえんえんと展開しはじめる。そりゃあ、“冷麺”と言うたら、ではラーメンのような黄色っぽい麺に決まっている。すなわち、“冷やし中華”の別名である。“ぜんざい”と言うたら、小豆の入った甘たるい汁物であって、汁だけのやつは“おしるこ”であり、汁のない餡だけのやつは“かめやま”である。文化果つる地でそれらがなんと呼ばれていようと、おれの知ったことではない。文句あるか。
 朝まで駄弁って、エンディング。へろへろになって家の最寄り駅に帰りついたが、まだ家に帰るわけにはいかない。今日は、衆議院議員選挙の投票日だ。というわけで、近所の小学校に寄って、投票をすませてから家に帰る。
 夜、テレビを観て呆れる。なんという投票率だ。日本が“日、没する国”に向かって、まっしぐらに堕ちていっているのが実感される。投票に行かんかったやつ、あんたや、あんた。次にちゃんと投票するまで、絶対、政治家に文句を言うなよ。白票でいいから投じにゆけ。むちゃくちゃでいいから投票だけはしろ。たしかに多くの政治家どもを見ていると投票する気が萎えるのはわからんでもないのだが、しょせんおれたちは、自分たちのレベルに相応な政治家しか持つことができないことだけはたしかなのだ。投票にも行かんやつがぐだぐだと政治に文句を言うのは、天に唾しているにすぎない。

【11月8日(土)】
「京都SFフェスティバル2003」に出かける。今年も午前中の企画はパスして、午後から行く。とくに今年は母親が関節リウマチを発病してしまったため、布団の上げ下ろしやら洗いものやら買いものやら飯の支度やらあれやこれや日常の雑事や介助が俄然増えてしまい、早くもへろへろである。下手すると、どちらかが死ぬまでは続けてゆかねばならん生活なのだから、ふた月もしないうちにへろへろになってしまったのでは先が思いやられるが、まあ、人間、なんにでもそのうち慣れるものであるからして、こんな生活にもそのうち慣れるにちがいない。ほんの六十年ほど前には、そこいらへんに行き倒れが転がっていて、しばしば爆弾が空から降ってくるなんて状況があったが、それでもみんな片時も気を抜かずビリビリと緊張しておったわけではない。そんなことは人間にはできんのである。やっぱり、アホなことも言い交わしていたそうだし、おもろいことがあったら笑っていたのである。膝が痛い手が痛いと母親が目の前でよたよたと足を引きずって歩いておろうが、この息子はやっぱり宇宙の彼方から巨大な茶筒が飛んで来ることを夢見たり、気が狂ったコンパスやホッチキスに感情移入を試みたり、算盤で計算された世界に思いを馳せたり、銀河を駆ける弘法大師に笑い転げたり、神のごとき超知能を得た男や、感情を意識的に制御せねばならぬ羽目に陥った男に感情移入を試みたりすることを人生の最優先事項として生きてゆくであろうことよ。カエルは一生カエルで、突然タヌキになったりはできんのである。
 まだ母はトイレと風呂は自分でなんとかできる状態であるのと、ときどき妹が手伝いに来てくれるのがせめてもの救いだ。今後病状がどうなってゆくかは、神のみぞ知る――というのはあくまで言葉の綾というものであって、おれが神なんてものを信じているはずがないことは、この日記の常連さんたちには周知の事実であろう。まあ、なるようになる。ケ・セラ・セラ〜。そろそろ在宅勤務ができる仕事を考えなくてはならないころ合いなのやもしれんなあ。
 現実味のないほうの世界のことはさておくとして、会場にたどり着くと、一階のロビーで大森望さん一家と、かつて堺三保さんであったのかもしれない“すっきりと痩せた小太りの大男”がくつろいでいた。なんとなく矛盾を孕んだレトリックのように思われるかもしれないのだが、少なくともおれにとっては、そこにくつろぐ男は“すっきりと痩せた小太りの大男”としか表現のしようのない人物であった。男の声は紛れもなく堺三保さんの声であり、やはりこの男は堺三保さんらしいのだが、肉体の音響特性に変化が生じているのか、なんとなく“声まで痩せた”ような気がするのだった。しかも、すらりと背が伸びている。堺さんはこんなに背が高かったのか。おれとさほど変わらない堺さんの年齢で背が伸びるはずがなく、要するに、タテヨコ比が劇的に変化したために、おれの目が騙されているのだ。えらいもんである。
 というわけで、午前の企画『「人間的」SF――シオドア・スタージョンの世界――』(出演:若島正[翻訳家・大学教授]・大森望[翻訳家・書評家])は聴き損ねる。

 では、午後からの『対談・小川一水×野尻抱介「宇宙開発を小説にするということ」』(出演:小川一水[作家]・野尻抱介[作家]/司会:大野万紀[SF評論家・翻訳家])は全部聴いたのかというと、これもかなり遅刻して途中からしか聴いていない。でも、充分面白かった。“生・小川一水”の話を聴くのは、おれは初めてである。作風どおり、ストレートでいて繊細な感じの人だ。野尻さんのほうは年齢相応にスレているので、対照の妙が愉快である。未知の惑星だかなんだかに派遣され調査を命じられる海千山千の中年宇宙飛行士と一本気な青年技術者といった二人組がしばしばSFに出てくるが、ずばりそんな感じであった。あるいは、松本零士の戦場ものによく出てくる、おっさん兵士と青年(少年)兵士というパターンにも通じるものがある。両者とも取材魔であることはよく知られているが、小川さんは取材そのものを楽しんでいるわけではなさそうなのに対し、「ずっと取材だけしていられたらどんなにいいだろう」と“夢”を語る野尻さんに会場苦笑。もちろんそれは論理的に“取材”とは呼べないなにものかなのであるが、気持ちはよくわかるところが野尻おじさんの風格である。

 続いて、『「武器と少女」――冲方丁インタビュー――』(出演:冲方丁[作家]・三村美衣[レビュアー])“生・冲方丁”の話を聴くのも、これまた初めてなのである。著者近影が不当にかっこいい作家某林泰三某中哲弥など)というのがたまにあるが、冲方丁氏は、なんと著者近影よりもかっこいい。高橋克典克実にあらず)かと思った。照れ臭そうな笑顔がとくに似ている。作品中に、どうも“英語で発想している”(“英単語を多用している”というのとはまったくちがう)としか思えないバタ臭い部分が多いなと思っていたのだが、冲方氏は少年時代をネパールで過ごしたのだそうである。日本のマンガなどを翻訳して多国籍なクラスメートに紹介したりしていたとのことで、むべなるかなだ。以前の日記で、「器に水を流し込んだら、水は器の形になる。しかし、小説という器は奇妙なもので、水を流し込まれたら水が取ろうとする形に合わせて形を変えるのである。水は器に操られ、器は水に操られる。冲方丁の語りは、こうしたダイナミズムの面白みをよく映す」などと聞いたふうなことをほざいたが、このインタビューで冲方丁自身が、表現は異なれど同じようなことを言っていたのが印象的であった。

 昼の部の企画が終わって、林譲治さんと合宿会場の旅館・さわやに移動して荷物を置き、夕食に出る。さわや近くの“値段のわりにやたら量が多い食堂”とおれが認識しているおなじみの食堂に林さんと入ったら、大迫公成さんらのグループがいらしたのでご一緒させてもらい、いろいろSFな話をする。なんだかむかしの NIFTY-Serve「SFファンタジー・フォーラム」(FSF)の深夜チャットみたいだ。思えば、林さんとも大迫さんとも NIFTY-Serve で知り合い、オフ会で初めてお会いしたのだった。ここでのSFバカ話の収穫は、この宇宙のダークマターの謎がみごとに解明されたことであった。詳しくは、林譲治さんの日記(2003年11月8日)をご参照いただきたい。じつに単純なことなのである。おれたちは、この宇宙のユーザとしては格が低いだけの話なのだ。いつの日か、おれたちが充分な技術を手にすれば、ルート権限を奪取できることであろう。
 夜の部は、さわやの大広間で例年どおりのオープニング。しばしあちこちで駄弁ったあと、これもまた京フェス名物となった古沢嘉通さんの“ワイン部屋”にうかがって、おいしいワインやおつまみを片っ端からいただく。ワインの味をSF作家に喩えるという遊び(?)がいつしかはじまった。「ソウヤーみたいなワイン」などと言うと、誰もがなーんとなくわかったような気になるところが面白い。“共通感覚”とはなんぞやといった哲学的な思考を惹起される。
 さーて、弱った。合宿企画の「喜多哲士の名盤アワー」「テッド・チャンの部屋」とが裏番組同士なのである。おまけに名盤アワーは、手塚治虫特集だという。悩んだ末、名盤アワーはあとで喜多さんにお願いして聴かせてもらうことにしようと、「テッド・チャンの部屋」にゆく。
 なにしろ短篇八つだけで世界のSF界にその名を轟かせている異才テッド・チャンであるから、まだ“作家を語る”というレベルのことは難しい。いろんな人の意見を聴いて思ったことがある。チャンの作品は、作品ごとに“公理系”とでも言うべきものが堅固に設定されている。それらの公理系は、チャンの哲学として、複数の作品にわたって通底しているわけでは、必ずしもないのである。よって、一作読んで、「ははあ、チャンというのはこういう考えの人なのだな」などと思ってはならないのだ。チャンが“そういう考え”なのは、あくまで“その作品”一作の公理系内に於いてのみなのだ。チャンは、一作ごとに、その作品の公理系がいかに美しく全うされるかしか考えていないような気がする。つまり、チャンの作品は、思想の準拠枠を作品の外に於いて読むべきものではない。その作品かぎりに通じる“公理系”に浸れるかどうかが、チャンに馴染むかどうかの分かれめだと思う。その点、グレッグ・イーガンのほうが泥臭い。複数の作品にわたって、“自分の思想”のようなものが通じている。だからチャンは、イーガンに比べると、完成度が高く洗練された感じがする代わりに、作家の印象としてずっと冷たい感じがするわけである。まあ、あくまで私見だが。どうでしょうね?

【11月7日(金)】
▼昨日どこからともなくダウンロードしたMP3ファイルの「日本ブレイク工業」社歌をPDAに転送して持ち歩くことにする。手軽に聴けるし、歌詞も覚えられるし、知らない人に布教できる。べつにおれが布教せんでも、もう充分に人口に膾炙しているとは思うのだが、バカな着メロを次々と集めてしまうのに似て、そうせねばならないとなにかが耳元で囁くのであった。Da Da Da!
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『邪馬台洞の研究 私立伝奇学園高等学校民俗学研究会 その2』
田中啓文、講談社ノベルス)

 『蓬莱洞の研究 私立伝奇学園高等学校民俗学研究会 その1』から一年、第二弾が出た。ご存じのように、本格伝奇と学園ドラマとミステリを同じ釜にぶち込み、駄洒落と小ネタを次々と放り込んで煮込んだようなケッタイなシリーズである。三巻で完結する予定とのこと。
 このシリーズ、表題作だけではなく、エピソードのタイトルはすべて「○○の研究」となっている。田中啓文のこの作品にかぎらず、ミステリの人たちはしょっちゅう「○○の研究」をしていて、ミステリ作家やミステリ評論家であれば必ず一度はどこかで小説やエッセイや評論や書評やその他雑文のタイトルに「○○の研究」を使ったことがあるにちがいないくらい人口に膾炙している言いまわしである。これはもちろん、コナン・ドイルシャーロック・ホームズもの第一弾 A Study in Scarlet『緋色の研究』と訳されたことから、それが連綿と日本のミステリ文化圏の中で受け継がれているわけだ。
 この study がはたして「研究」なのかどうかについては、むかしからいろいろ言われているらしい。国際シャーロキアナ雑誌〈The Shoso-in Bulletin〉のサイトでも、同誌の編集者でもある世界的なシャーロキアン、平山雄一氏による論文 Some Problems on the Translation of the Title of A Study in Scarlet〈The Shoso-in Bulletin〉vol.4 August 1994)が読める。「緋色の習作」とするのが適当ではないかとする意見もあるそうなのだが、平山氏は、非西欧語に訳す限界を認識したうえで、やはり「研究」とすべきだろうと結論してらっしゃる。
 「習作」も捨て難いが、おれも最終的には「研究」がいいだろうなと思う。非西欧語に訳す限界というのももちろんあるけれど、この問題は、簡潔な体言止めのタイトルだから漢語を使わざるを得ないところに生じる問題だ。要するに、study「研究」でもあり「習作」でもあり「勉強」でもあり「考察」でもあり……といった、日本語には equivalent な一語がないなにものかなのであって、あえて大和言葉で言うとすれば「なにかについてしろうとつとめてあれこれしたりおもいをめぐらせたりすること」なのである。以前に当て字について書いたことと同じで、study という非常に意味領域の広い言葉を、世界の“切り取りかた”が異なる言語でさらに切り取ろうするところには、おのずと限界が生じるということだ。となれば、study の意味領域から、漢語の「習作」に重なる領域を涙を呑んで切り捨て、作品の文脈において意味領域が最も大きく重なっていると考えられる漢語を無理やり当てるしかない。となると、やはり「研究」かなあ。日夜こんなことばっかり考えてなきゃならないんだろうから、翻訳家というのはたいへんな商売だ。
 ちなみに、「研究」とか「習作」とかいった具合に漢語でもって意味領域を分断しなければならない英語−日本語間の翻訳とちがい、類縁関係の強い言語間の翻訳では、ここまで悩ましい問題は生じないようだ。たとえば、『緋色の研究』のフランス語版タイトルをウェブで調べてみると、Une Etude en Rouge だってんだからもう、「まんまやがな」という感じである。studyétude は同一の祖先から分化した語だから、研究か習作かなどと、さほど意味領域論に悩む必要がない。イギリス人にもフランス人にも、「ああ、この作品のタイトルは、ここいらへんのこんなふうな意味ね」というのが暗黙裡に了解されるはずである。おまけに、その暗黙裡の了解を利用した本歌取りさえ可能だ。刑事コロンボ『黒のエチュード』って作品がありましたね。ほれ、オーケストラの指揮者が犯人のやつだ。あの原題は Etude in Black となっている。このタイトルを見れば、英語化したフランス語がこういうふうに使われていることに、英語圏のミステリファンはフランス語の基礎知識に照らして「本家取りやね」とニヤリとするわけだ。日本語の翻訳では、『緋色の研究』と『黒のエチュード』の関係など、かなり原題に注意を払っている人しか気づかないだろう。W・リンク&R・レビンソンが考えたのかプロデューサーが考えたのかその他の関係者が考えたのか知らないが、Etude in Black というタイトルは、二重三重に意味を乗せたなかなかの傑作なのである(作品そのものはたいしたことなかったが)。
 というわけで、「研究」の研究(考察? 習作?)でありました。まあ、まちがっても『緋色の勉強』にならなかったことは、その後の多大な影響を考えると喜ばしい。

【11月6日(木)】
▼先日からあちこちのウェブ日記で見かける「日本ブレイク工業」というのは、いったいなんなんだろうと思っていたのである。なんでも社歌が面白いらしいのだが、忙しいのと面倒なのとで、それがどういうものであるか聴いてみるにはいたらなかったのだった。面白い社歌? おおかた以前流行った「ゆんゆん」校歌みたいなものだろう……と思っていたおれが甘かった。今日、会社の昼休みに林譲治さんの日記を読んでいたら「ある会社の社歌」というのが言及されていて、「ははあ、最近あちこちで見かける日本ブレイク工業のことだな。よし、会社だから線も太いし聴いてみよう」とクリックしたところ、パソコンからとんでもない“社歌”が流れ出し、あわてて音量を絞った。な、なんじゃこりゃあ!? アニソンやんけ。どういう社歌やねん。これ、朝礼のときとかに全員が斉唱(というか、シャウト)してたらコワイな。
 度肝を抜かれたおれは、一解体屋さんの社歌がなぜこんなにあちこちで流行っているのかを、遅ればせながらひととおり調べて納得した。なあるほど、『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系)で取り上げられたのか。こういうネタは、もはやきまってネットで先に話題になるものなのだが、ネットで広まる前にテレビで取り上げたとは、『タモリ倶楽部』畏るべし。さすがと言えよう。残念ながら、これが放映されたときは観てなかった。
 日本ブレイク工業のウェブサイトでは、どうやら最初はMP3形式で社歌がダウンロードできるようになっていたらしいのだが、あまりの大反響にCD化の話が進んでいるのだそうで、そのため公式サイトでの音声ファイルの配布はすでに中止していた。だが、そんなもん、一度テレビやネットで流れたものなど、どこかの誰かが勝手に配布しているに決まっている。検索するとうようよ出てきた。ダウンロードしてゆっくり聴く。うーむ、おもろいなあ。やっぱりどう聴いてもアニソンである。『マジンガーZ』系という気もしないでもない。“ケミカルアンカー”だの“ダイヤモンドカッター”だのといった解体作業に使うらしい機械の名前が、ちょうど必殺技の名前のようだ。マジンガーZだかグレートマジンガーだかが、「ダイヤモンドカッターーーっ!」とか叫んで、悪いロボットを粉砕しそうである。おれが思うにこれは話が逆で、たぶん、解体作業をしている人は、ああいうパワフルな機械を操るとき、なにやら正義の巨大ロボットを操っているかのような高揚感に襲われるのではなかろうか。だものだから、きっと満を持してダイヤモンドカッターとやらを使うときなど、「ブレストファイアーーーっ!」などと叫ぶのと同じノリで、「ダイヤモンドカッターーーっ!」と頭の中で叫びながらレバーだかボタンだかを操作しているのにちがいない。でもって、「おお、社歌はこのノリで行こう」という着想したのではあるまいか。激しくそんな気がするなあ。いやあ、それにしても、「コンプレッサー 大地に響け」かあ。雄々しい。
 ああ、頭の中で日本ブレイク工業の社歌がぐるぐる回っている。カラオケで唄いたいなあ。ブレイク! ブレイク!

【11月4日(火)】
▼選挙戦たけなわ。神頼みしているところがテレビで報道される候補者があるが、おれはああいうのを観ると「あ、こいつダメ」と頭の中で巨大な×をつける。ああいう姿が謙虚だというふうに好印象を持つ人も稀にはあるのやもしれないが、少なくともおれはそのような価値観を持ち合わせていない。限られた選挙運動期間中に、なにをバカなことをしているのかとしか思わん。神頼みしているヒマがあったら、ひとりでも多くの有権者に自分の考えを自分の言葉で伝える時間に割かんか、この大たわけが。おまえは宗教家になりたいのか政治家になりたいのか、どっちじゃ!? こういう輩が議員になったら、肝心なときに神頼みして時間を無駄にするに決まっているのだ。カエルのものはカエルに、神のものは神に返しなさいイエス・キリストも言うておろうが。

【11月3日(月)】
▼先日 amazon.co.jp に注文したCD『ハンナ・バーベラ同窓会[トムとジェリー〜チキチキマシン猛レース]』が届いたので、連休でもあることだし、さっそく聴く。この手のものがいくつか出ているのは知っていたのだが、なんか突然聴きたくなったのである。
 いやあ、『宇宙怪人ゴースト』(一九六七年四月七日〜同年九月一日放映)の主題歌なんて聴いたのは何年ぶりだろうか。思えば、ゴーストが腕にしている「Uバンド」なる万能兵器は、いまで言う“ウェアラブル・コンピュータ”(のずっとすごいやつ)ではなかろうか。おれたちゃ、こんなものを年端もいかないガキのころから刷り込まれていた世代なのだなあと、しみじみ懐かしむ。
 『大魔王シャザーン』(一九六八年一月一二日〜同年五月二○日放映)なんてのは、誰もが指摘するように、『ウルトラマンA』の先祖みたいなものである。「♪ヘンヘンヘンテコリンな怪物を/トントントンコロリンと退治する」かあ。「トントントンコロリン」のあたりに、まだ戦中の影響が残っている。考えてみりゃ、そりゃそうだよな。『大魔王シャザーン』が放映されるわずか二十三年前にはまだ戦争してたわけで、原爆もまだ落ちていない。つまり、『大魔王シャザーン』を日本のテレビに乗せるために働いていた三十代から五十代くらいの人たちは、いまのおれたちが一九八○年のことを思い出すように戦争を思い出していたにちがいないのだ。なんて平和な時代になったもんだと嬉々として仕事をしていたのだろうか。あるいは、いつの日か、戦勝国が作ったこれらの作品を凌ぐものを日本から連中に輸出してやろうと闘志に燃えていたのであろうか。いずれにしても、右肩上がりの時代の息吹みたいなものが、日本で独自に作った主題歌に込められた気概として伝わってくる。
 『スーパースリー』(一九六七年九月八日〜六八年一月五日放映)に『チキチキマシン猛レース』(一九七○年四月六日〜同年七月二七日放映)に『銀河トリオ』(一九七一年八月二日〜同年十二月十三日放映)に『ドラドラ子猫とチャカチャカ娘』(一九七一年十二月二十日〜七二年四月三日放映)かぁ〜、ああ、なにもかもみな懐かしい。
 『スーパースリー』は好きだったよなあ。おれの中では、“戦隊もののハシリ”といった感じである。それはいくらなんでもこじつけではないかとおっしゃる方もありましょうが、おれにとってはそうなのだから、そこは譲ってもらわなくては困る。ラーリホーーーーーっ!
 このCDの資料を見て改めて驚いたのは、このころの外国アニメの放映期間の短さだ。『チキチキマシン猛レース』って、四か月弱しかやってなかったのかよ!? おれの体感時間とはずいぶんちがうような気がする。そりゃまあ、八年やそこらしか生きていないうちの三か月と考えれば、印象が強いのも頭では納得できるのだが、なんだか狐につままれたようである。
 『銀河トリオ』でひさびさにフォーリーブスの歌を聴いたな。「♪銀河銀河 ギンギラギンギンギン」ではじまる人を食った歌は同年輩の方はよくご存じのことかと思うが、いま考えると、こうした人を食ったコミカルな歌詞は、どことなく「♪ニッチもサッチもどうにもブルドッグ」などと唄っていたころのフォーリーブスに通じるものがあり、彼らを起用した人は、主題歌の歌詞を見て「フォーリーブスで行こう」と思ったのだろうか。あるいは、それどころか、最初からフォーリーブスに唄わせるつもりで作詞したのだろうと推察しても、さほど無理はないのではなかろうかとすら思う。
 『ドラドラ子猫とチャカチャカ娘』(なんてタイトルだ)の主題歌なんてのは、ほんとに三十年ぶりくらいで聴いたけど、なーんとなく『美少女戦士セーラームーン』の主題歌「ムーンライト伝説」に似ている。というか、「ムーンライト伝説」のほうが、あのころの流行歌によくあった雰囲気をあえて復活させていたんだけどね。『ドラドラ子猫……』は小原乃梨子があの独特の不思議なかすれ声で唄っていて、いまのおれの耳にはどう聴いてものび太が唄っているようにしか聞こえない。長年やっている当たり役とは怖ろしいものである。小池朝雄コロンボにしか聞こえない、藤田まこと中村主水にしか聞こえないってのと同じ現象であろう。
 いやあ、ひさびさに子供に戻って(おまえはいつでも子供に戻っておるではないかというツッコミはなしね)、涙がちょちょ切れたことであった。こういうのって、ふだんは忘れているけど、ちょっとしたきっかけでどどどどどと記憶の底から出てくるのよなー。この日記読んで懐かしゴコロを刺激され、思い立ったが吉日とばかりにアマゾンに買いに走る(?)人が数人は出そうな気がする。もっとも、この日記の常連読者には、このCDをすでに持っている(下手をすると、以前に出た二枚組のやつも持っている)人がやっぱり数人はほぼ確実にいるはずである。あんたや、あんた。

【11月1日(土)】
▼先日初めてテレビ放映されたのを録画しておいた『TRICK ――劇場版――』をようやく観る。うーむ、劇場版のわりにイマイチ感が強い。キャストは豪華なんだが(根岸季衣怖い。ハマってる)、ストーリーは凡庸。思うに、このシリーズはそろそろキャラクターがあまりにも“おなじみ化”してしまい、この世界に浸るだけでファンにはそこそこの満足を与えられるようになってしまっているのが裏目に出ているのであろう。まあ、おれだって仲間由紀恵阿部寛が漫才をやっているだけで十分満足ではあるのだ。いや、おれ的には、仲間由紀恵が出ていればなんでもよい状態であることも否定しない。要するに、これは単なる“ファンムービー”にすぎない。この手のドラマがキャラだけで引っ張ってゆけると思ったら、それは衰退のはじまりである。「ああ、『TRICK』はやっぱり第一期がいちばんよかったな」と言われないようにしてもらいたいものである。また映画化することがあるとしたら、「さすがは劇場版! 度胆を抜かれた」とわれわれに言わしめてほしい。敵キャラに三國連太郎くらい出しても見劣りしない屋台骨が欲しい。三國連太郎って、一度は『TRICK』に欲しい俳優だと思わないすか? 『マルサの女2』で怪しい宗教団体の幹部をやってたからそう思うのかな。きちんとした骨格のあるエピソードなら、インチキ超能力者には適役だと思うぞ。あるいは、きっともう出演交渉はしているのかもしれない。もっとも、劇場版だと『釣りバカ日誌』の時期とかぶらないようにしなきゃならないかもな。東宝対松竹、ゴジラ対ギララになっちまう。
 それにしても、人気俳優のわりには、仲間由紀恵や阿部寛のウェブサイトは地味である。ドメイン名すら取ってない。いやまあ、地味で悪いってことはないんだけどね。阿部寛のサイトは、地味だけど中身は充実している。仲間由紀恵の公式サイトとしてはいちばん充実していたアンティノスレコードのサイトがなくなっちゃったので、いま、仲間由紀恵の公式サイト(というか、公式ページ)はプロダクション尾木内の“タレント紹介ページ”一枚だけになっているようだ。出演番組のサイトはいくつもあって豪華なんだけどね。おや、いま知ったけど、仲間由紀恵とアバレブルーは同じプロダクションだったのか。


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