間歇日記

世界Aの始末書


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2003年11月下旬

【11月30日(日)】
四十一歳になる。もう、このあたりまで来ると腹がすわるとでもいうか、四十一も四十八もさしてかわらんような気がする。あまり身体が丈夫だとは言えないおれであるからして、折り返し地点は確実に過ぎたであろう。さすがに三十代で死ぬのは若すぎると思うが、四十代くらいなら、いつ何時ポテっと死んでもそれほど不思議ではない。「十年後は生きとらんかもしれんな……」という感覚が芽生えてくるのだ。だったらえらく焦りそうなものなのだが、不思議なことに、「いま死んだら死んだで、なかなか面白い人生だったのではなかろうか」と、早くも総括に入っている自分が頭の隅のほうにいたりもする。うまくしたもので、若いころほどは、死ぬのが怖くなくなってきているのをはっきりと感じるのである。これが子供でもおれば、「この子が成人するまでは……」みたいな執念じみたものが出てくるのかもしれないが、むろん、おれにはそんな気持ちも湧いてこない。まあ、いくらなんでも、せめて親よりは長生きしてやらんといかんだろうという感じはあるな。おれはもう、物理的な遺伝子の乗りものとしては、種になんの貢献もしない役立たずで不自然な個体だということがわかっているが、ミームの乗りものとしては、まだやつらにとっても使えるマシーンでありたいと思っている。人類史の中でも、これほどむちゃくちゃに面白い時代に生まれ合わせることができてとても幸運だと思う。せっかく面白いんだから、あとはそうだな、願わくば、人類がせめて火星くらいには立つところを見てから死にたいものだ。
 ずいぶん前にも書いたけれど、おれは自分が物質の組み合わせであることが無性に嬉しい。ことに近ごろ、おれは、おれ自身が物体であることが、ますますしみじみといとおしく感じられてきた。魂だのなんだのといった、わけのわからない超自然的な“汚らしい”ものなんぞが、おれの一部を構成していてたまるものか、と思う。ふとしたことで肉体の衰えを感じたりするとき、「ああ、おれはこの宇宙の物理法則にしたがって作動している機械なんだなあ」と、なにか大きなものに抱かれているような、ほっとした感じすら覚える。老いるというのも、ちょっと楽しいかもしれないなと思う四十一の誕生日なのであった。

【11月29日(土)】
▼翻訳家の磯谷彩子さんから、極秘のタレコミをメールで頂戴した。「冬樹さんならきっと有効活用してくれるにちがいない」とおっしゃるので、URLを示されたPDF文書にアクセスしてみた。有機化学の論文だという。そんなものを、英米文学科卒のおれにどう“有効活用”しろというのであろうか。この文書はハーバード大学のドメイン下にあるが、論文を書いたのはこのサイトの持ち主ではなく、どうやら雑誌をPDF化したものがこのサイトに置いてあるだけらしい。
 化学の論文など、おれには細部はもちろんわからないが、なにはともあれざっと眺めてみると、じつにとてつもなく怖ろしい計画がテキサスのライス大学で進行中であるらしいことが察せられた。こ、これは、「1/8計画」(『ウルトラQ』)どころではない。身長2ナノメートルの人間を造ろうという、世にも怖ろしい計画だ。いや、もうできているらしい。このPDF文書は、おそらく何人もの血を流して地下に流出したものであろう。モルダースカリーもすでにこれを追っているのではないか。ところが、大胆にも、とある製薬会社で研究職に就く日本人らしき方が、「ナノ世界の小人たち」と題して、この論文の要旨を日本語で一般大衆にもわかりやすく解説していらっしゃるのであった。勇気ある告発だ。日本語で書いてあるので、アメリカの政府秘密機関やFBIや黒い服の男たちや政府と密約を交わしているエイリアンらにはまだ気づかれていないのであろう。
 「ナノプシャン(NanoPutian)」――この極微人間は、そう呼称される。だが、カタカナで書くとどうもどこかから空気が漏れたような感じで、あまりよいネーミングとは言えない。やはり、日本語ではお尻が伸びたほうがなんとなくかっこよさげであるから、「ナノプシャーン」とでも呼んだほうが新造人間っぽいのではなかろうか。ザンッ(効果音)――

たったひとつの命を捨てて
生まれ変わった極微の身体
ナノの悪魔を叩いて砕く
ナノプシャーンがやらねば誰がやる

 ♪ひーびけ、ナノプシャーン、たーたけナノプシャーン、くーだーけナノプシャーン! ああ、唄いにくい。
 このナノプシャン、なんでもちょこちょこっと化学的処理をして電子レンジでチンしたりすると(論文にはそう書いてある)、頭の形が変わってさまざまな職業人に変身できるらしい。そ、それではまるで――「ナノプシャーン、フラーーッシュ!」 ♪このごろ流行りの分子のコ〜、亀の甲模様の分子のコ〜、こっちを向いてよ、ナノー、だってナノだか、だってだってナノだも〜ん。ああ、唄いにくい。
 それにしても、この研究、歴としたナノテクノロジーの研究なのだろうけど、いったいどんなふうになんの役に立つのかよくわからない。わからないが、なにやら素敵なくだらなさにクるものがある。もし田中啓文さんが化学者だったら、こういうことを嬉々としてやっていそうだ。ともかく、それがなんであれ、できそうなことはとりあえずやってみるという姿勢が好もしい。
 遠い未来のいつの日か、“ナノヒューマノイド・ロボット”みたいなもの(そんなものを造ってどうしようというのだろう)ができたとき、このナノプシャンは先駆者として称えられることになるのかなあ。ナノプシャンの構造式をじぃっと見るかぎりでは、先駆者というよりは、先行者と呼びたくなってくるにしても……。♪噂に聞こえたスゴイやつー、キック、アタック、中華キャノン! ああ、唄いにくい。

【11月26日(水)】
松浦亜弥は不思議だ。巷では、はしのえみは言うまでもなく(そう、すでに言うまでもなくなっているようなのだ)、濱田マリにも未知やすえにも似ていると言われている。不思議なのは、たとえば、はしのえみや濱田マリや未知やすえを個別に見ても、せいぜいみんな子供顔だと思うだけで(『ポンキッキーズ21』に出てくる子供の中には、はしのえみよりよっぽど大人びた顔をしているやつがいたりする)、とくに彼女ら同士が似ているとは思わないのに、松浦亜弥という触媒が加わると、たちまち彼女らがそれぞれ微妙に異なる似かたであややに似ているように見えてくる点である。
 一度ぜひ、この四人で座談会をやってほしいものだ。雑誌原稿かなにかに起こすと、濱田マリが五十行しゃべるのと並行して未知やすえが三十行しゃべり、松浦亜弥とはしのえみがその合間に十行しゃべるといったものになりそうだが……。松浦亜弥やはしのえみが無口なのではない。むしろ、おしゃべりなほうだろう。単に上には上がいる、とくに関西にはいるというだけの話である。まあ、松浦亜弥だって一応兵庫県出身だけど、濱田マリや未知やすえの敵ではあるまい。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『導きの星IV 出会いの銀河』
小川一水、ハルキ文庫)
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 『導きの星I 目覚めの大地』から二年弱、この巻で完結である。四巻に二年かかるというのは昨今ではかなりゆっくりしたペースだが、「あとがき」によると、次々に編集者の注文を反映しているうちに話がぐんぐん膨らんでいったようだから、これくらいのペースのほうが醸造時間が取れてよかったのだろう。単にはいはいと注文のスペックを入れるのではなく、注文に触発されて出てくるものがあったから時間がかかったのだろうし、また、編集者もそれを期待して注文を出したからこそ、拙速を以てよしとしなかったのであろう。
 と推測するのだが、おれも結局まだII巻からあとは積ん読になっているのだ。いま思えば、積ん読にしておいて結果的に正解だったかもしれない。禁断症状に苦しまなくていいし、こういう年表が必要なほどの歴史もの(異星の歴史だが)は、何か月もあいだが空くと、細部を忘れちゃうからである。
 どうしようもないこととはいえ、この時期に出るSF、とくにこの時期に完結する続きものは、ちょっと損をしてしまう。毎年二月に出る早川書房の『SFが読みたい!』のベスト投票対象作は、前々年の十一月から前年の十月までに出た本だからだ。十一月の下旬には、投票者はほぼ投票し終えている。つまり、このシリーズは、再来年に出る予定の『SFが読みたい! 2005年版』の「ベストSF2003」投票でようやく対象になるわけであり、投票時から刊行開始時を振り返ると、三年弱もむかしのことになってしまう。複数年にわたるシリーズものに投票する時にはもう一度全巻読み返すという方ももちろん少なくないだろうけれども、やっぱり人間が投票するわけだから、投票者の記憶にある印象の強さという点で、ちょっと損をしてしまうだろうことは否めないのだ。
 なにせ小川一水の文明コンタクトものだからして、ベスト5に残すかどうかはそのときになってみないとわからないが、デフォルトの検討対象として忘れずにメモしておかなくてはなるまい。まあ、投票依頼が来るときには、ちゃんと対象作の参考リストが同封されてますけどね。

【11月25日(火)】
▼昨日のアクセスログを見たら、「超目玉企画! ほんものの真中瞳ヌード&入浴シーン」3,821もアクセスが! ひいいいいいいいいぃ。おおかた、最近アレを発見した人が、どこかの掲示板かなにかで話題にしてくれたのだろう。このうち三人くらいが、「おや? こやつがなにやら頻繁に話題にしているSFなるものは、なかなか面白そうではないか」と思ってくれればいいのだが……。三人は多いかなあ。

【11月24日(月)】
▼昨日のアクセスログを見たら、「超目玉企画! ほんものの真中瞳ヌード&入浴シーン」699もアクセスが! ひええええ。おれ、そのうち夜道で誰かに刺されるんじゃなかろうか。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『火星ダーク・バラード』
上田早夕里、角川春樹事務所)
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 第四回小松左京賞受賞作である。近ごろ、またもや一、ニか月くらい先の未来を予知する能力がよみがえってきたおれであるからして、〈週刊読書人〉2003年12月12日号で寸評するのは、まるで一か月くらい過去のことででもあるかのようにまざまざと予知できるのである。おれの言う、いい意味での“遅れてきたSF作家”がまたひとり現れたかという感じだ。実際、藤崎慎吾平谷美樹に通じるテイストを感じる読者はかなりいると思う。あっと驚く、めくるめく大技を期待する人にはいささかもの足りなく感じられるかもしれない。大技がない代わりに(ハードSF的に凝った背景をあくまで背景としてさりげなく描いているが)、ジェットコースター的なプロットを上滑りさせずに下支えするだけの安定した筆力がある。多少乱暴を承知で言うと、この人は、キム・スタンリー・ロビンスンが『カウボーイビバップ』を書いたようなものが書きたいのではないかという気がする。それはある程度は成功しているが、おれとしては、もっと退屈でもいいと思う。読者にページをめくり続けさせねばならない、飽きさせてはならないという強迫観念に、まだ自信を持って抗し切れていない感じが残る。資質に反してサービスしすぎなんじゃないかと思うが、大きなお世話かな。ちょっとでも読者を退屈させてはいけないのなら、キム・スタンリー・ロビンスンはSF作家失格であるが、むろんそんなことはない(そこで「そう、失格じゃ」と言うとるのは誰じゃ)。「ここで退屈して投げ出すような読者は、べつについてきてくれんでええわい」くらいにケツをまくったほうが、この人が本来持っている魅力が出そうに思うんだが、こんなこと言うと、編集者には怒られるかもしれない。
 なんか貶しているのか褒めているのかわからなくなってきたけれども、いや、おれは楽しく読んだよ。こういうのも好きだ。ソツがなさすぎるところに、いささか苛立ちを感じないでもない。ソツがないのはちっとも悪いことじゃないけど、“ソツがない”と感じさせるということは、多少ソツがある(?)ということだ。新しい書き手には、得体の知れない野趣が多少はあってほしい。できれば、かなりあってほしい。欲を言えば、非常にあってほしい。この作家が、デビュー直後の難しい時期を切り抜けて“金を払う読者との間合い”を掴み、自信を持って本性を顕したとき、仰天させられるようなものが出てくるような予感がする。まあ、勝手な予感ではあるが。

【11月23日(日)】
▼さてさて、またもや『仮面ライダー555』テレビ朝日公式サイト東映公式サイト)であるが、件の警察の謎の男は、オルフェノクから人間性を取り除く研究を進めているのか。いやあ、ますます『バンパイヤ』(手塚治虫)みたいになってきた。
 『アストロボーイ・鉄腕アトム』(フジテレビ系)には、童話を語るロボット・フライデー役に、なんと手塚眞が声優で登場。エンディングのクレジットを見るまで、まったく気がつかなかった。なかなか藝達者である、というのも失礼か、もともと役者でもあるのだからして。
 それはともかく、予告編には目が点になった。いよいよロックが登場かと思ったら、画面に猿田博士火の鳥まで出てきた。おまけにナレーションでは「変形生物ムーピー」ときた(べつに昨今の賢いお子様向けには、オリジナルどおり「不定形生物」でいいと思うんだけどなあ。変形する生物なんてそこいらの地球上にいっぱいおるぞ)。うーむ、『アストロボーイ・鉄腕アトム』、いよいよ大きなお友だちを本格的に狙ってきたのだろうか。小さなお友だちに手塚キャラの顔見世をしようというのかもしれんけれども、妙な第一印象を与えてほしくないなあ。

【11月22日(土)】
▼昨夜会社からの帰宅途中、夜中にコンビニに寄ったら今日になっていた。「鬼畜なものを出すなあ……」と先日から棚を横目で眺めていたのだが、とうとう「J's ポップスの巨人たち」ブルボン)なるものに手を出してしまう。これはまあ、なんというのか、8センチCDがオマケに付いた菓子である。というか、8センチCDにオマケの菓子が付いたものである。玩具菓子が“食玩”と呼ばれているのなら、これはさしずめ“食盤”とでも呼ぶべきものであろう。最近、この手のものがあちこちから出ているようだ。狙われている。おれたちは狙われているのだ!
 で、まんまと釣られて買ったのは「南沙織」――と言うても若い人にはわからんかもしれんが、おれが小学校二、三年生くらいのころのアイドルである。はっきり言って、おれは子供心に好きだった。なぜか当時のフォークシンガーには南沙織の崇拝者が多かったらしく、吉田拓郎が南沙織に捧げ(浅田美代子にではない)、かまやつひろしとデュエットした「シンシア」という曲があるくらいである。ところが南沙織は、やがて篠山紀信という邪悪な男にさらわれて、十年と活動しないうちに引退してしまった。同年輩の方々にはいちいち説明するまでもないことであろうが、最近すっかり爺いになってしまったのを実感するおれとしては、若い人にこのような歴史を語り継がねばならんというおせっかいな使命感に襲われることがあるのだ。
 この“食盤”には、デビュー曲の「17才」(というのは、もちろん森高千里がカバーしたアレだ)と「潮風のメロディ」が入っている。「17才」が入った懐メロコンピレーションもののCDはもちろん持っているのだが、ついつい再現ジャケットに釣られてしまったのである。ああ、鬼畜だ、じつに鬼畜な商品だ。
 家に帰って遅ーい晩飯を食い、さっそく聴く。いやあ、むかしの歌謡曲の伴奏は音が薄くていいねえ。いまのポップスに慣れた耳にはほとんどアカペラのようで(ってのはオーバーだが)、適当なソフトとシンセサイザーがあればおれでもたちまちプログラムできてしまいそうなくらいシンプルだ。それだけ歌手の声とメロディとがじっくり楽しめる。むかしの歌謡曲といまのポップスとのちがいはそのへんですな。アカペラに耐えるかどうかだ。いやまあ、いまの曲だって、カラオケで声を絞り出して唄ってはじめて「なかなかいい曲だ」と気づく類のよさを持つ曲もあるけれども、むかしの曲は夜中にひとりで小声で口ずさんでもちゃんとその曲に聞こえたんだよなあ。近年、平井堅とか森山直太朗とか元ちとせとか夏川りみとか、とにかくああいったシンプルな曲でヴォーカル勝負しているあたりが愛でられているのには、オヤジとしては喜んでいるわけである。
 ところで、このCD付き菓子、よく考えたら保管が面倒だな。8センチCD用のプラケースをレコード屋、じゃない、AVショップで買っておかなくちゃならない。

【11月21日(金)】
某駄本、じゃない、ボーダフォンテレビCMで、最近、バリー・マニロウ公式ファンクラブサイト)の Can't Smile Without You が流れているのを懐かしく聴く。あのCMがはじまると、一緒に唄ってしまうくらいだ。のっけからバリー・マニロウのいちばんおいしい音域で掴む名曲であろうと思う。Copacabana なんかは、どうもおれにはけたたましすぎてあんまり好きじゃないのだが、Can't Smile Without You は気軽に口ずさめて親しみの持てる曲ですな。われらがカーペンターズもカバーしている。はっきり言って、カーペンターズ・バージョンのほうが好きですが。天性の歌手としての才能はともかく、作曲家・アレンジャーとしては、バリー・マニロウよりもリチャード・カーペンターのほうが数段優れていると思う。ここでトリビアを披露しておくと、マニロウ版とカーペンターズ版は歌詞の一部とアレンジが異なるが、カーペンターズ版にもシングル版とアルバム版とがあって、やはり歌詞の一部が異なる。どーでもえーことであるが、カラオケで唄うときには注意が必要だ。
 それにしても、近年、CMやドラマに使われる洋楽を聴くと、広告業界にいるおれたちの世代が第一線で企画しとるんだろうなあと思わされることが多い。にわかABBAブームのときと同じく、これでまた若い人がバリー・マニロウを再発見してブームに火が点くかもしれないなあ。もう、たぶんCDは動きはじめているのではないか。そういえば、八十年代にやってた「ベスト・ヒット・USA」「Time Machine」というコーナーで当時すでに懐メロであった古い曲を紹介すると(ドアーズとかT−REXとか)、翌日からレコード屋で覿面にそれらが動きはじめるという現象があって、えらいものだと思ったと小林克也が書いていたことがある。歴史は繰り返す。
 そういえば、若い人でもバリー・マニロウを比較的最近日本のテレビで観ているはずではあるんだよな。『アリー・myラブ4』でのアリーの“幻覚役”でだが。往年のグラミー賞歌手も、ダンシング・ベイビーと同じ扱いかよ。もっとも、若い人はウィッキーさんだと思ったかもしれないけどさ。
《ご恵贈御礼》まことにありがとうございます。

『シャドウ・オブ・ヘゲモン(上)』
『シャドウ・オブ・ヘゲモン(下)』
(オースン・スコット・カード、田中一江訳、ハヤカワ文庫SF)
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『楽園の知恵 あるいはヒステリーの歴史』
牧野修、ハヤカワSFシリーズ Jコレクション)
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 いままでどのウェブ書店のアフィリエイトにもなっていなかったのだが、今回からまとめて bk1 のブリーダー、amazon.co.jp のアソシエイトになることにする。書評屋が本をご恵贈いただいたことのお礼を述べて(「本を紹介して」ではない。なにしろ、ご恵贈いただいた時点では、多くの場合、まだ読んでいないのだから)商売するというのはいかがなものかという気持ちがあったので逡巡していたわけであるが(いちいちアフィリエイト用のリンクを作るのが面倒くさいというのもある)、まあ、よく考えたら、本をくださった方々にとってみれば、お礼であろうが書評であろうが、本が売れる確率が高まるほうが嬉しいに決まっている。おれとしても、なにかと雑用が増えて時間を捻出するのが以前よりキツくなってきたため、好きでやっているウェブサイトとはいえ、間接的に多少のカンパを頂戴してみずからへのインセンティヴにしようという魂胆である。京都iNETは利用料が非常に安いので、年間の運営費くらいは浮けば助かるなと皮算用している。
 とはいえ、おれの仕事は本を紹介することであって売ることではない。それどころか、紹介することによって特定の本を売れなくすることすら仕事の一部である。が、結果的に、「こいつが褒めた本だから買うのをやめよう」「こいつが貶した本だから買おう」という効果もあるやもしれず、要するに、書評屋がなにをほざこうが、よっぽど権威あるいは人気のある人は別として、その言説の内容が特定の本の売り上げにリンクするわけではない。だが、本というものを話題にすることそれ自体によって出版文化を多少なりとも盛り立て、本全体の売り上げに微々たる貢献をすることにはなるのだろう。最近、商業的なものであるとそうでないとにかかわらず、書評というのはいったい文藝にとってどういう行為なのだろうと妙に考えてしまうことがある。いまのところおれは、書評なるものは、早い話が、『たけしのTVタックル』(テレビ朝日系)に於ける、ビートたけし阿川佐和子大竹まことみたいなものだろうと思っている。彼らがなにを言ったところで特定の方向に政治や経済や社会が動くわけではないが、国民の政治への関心を高めている効果はたしかにあるだろうし、それらへの関心が高まるということは、すなわち民度が高まるということであり、それが結果的に政治や経済や社会の質を高めてゆくベクトルにはなろうという程度の意味である。
 さて、それはともかく、『シャドウ・オブ・ヘゲモン(上・下)』だが、『エンダーのゲーム』『死者の代弁者』『エンダーズ・シャドウ(上・下)』に続くおなじみ《エンダー》シリーズである。意外というかなーるほどの人選というか、妹尾ゆふ子が解説を書いている。つっても、おれまだ、『エンダーズ・シャドウ(上・下)』も読めていないのだ。《エンダー》関連の作品がこんなに出るとは、正直思っていなかった。『エンダーズ・シャドウ』以降は“姉妹編”だから、独立したものとして読んでも差し支えないそうだが、細部は忘れちゃってるから、一度全部まとめて読まんとなあ。
 この『シャドウ・オブ・ヘゲモン』が本国で出版されたのは二○○○年となっているから、〈9・11〉以前なわけだ。解説によると、この続篇の Shadow Puppets も二○○四年にハヤカワ文庫から翻訳が出るそうで、こちらの原書は二○○三年に出ている。〈9・11〉によって、カードの中で“戦争”というものがどう変容したのか、あるいは、しなかったのか、今後の《エンダー》シリーズの読みどころになってゆきそうな気もするよね。
 『楽園の知恵 あるいはヒステリーの歴史』は、牧野修の傑作短篇集。あちこちのアンソロジーや雑誌で一度は読んだものが多いとはいえ、こうして牧野修個人の作品集としてまとまると、これまた強烈なものがありますなあ。ことに、名作「インキュバス言語」が個人作品集に収録されたのは喜ばしい。筒井康隆宇能鴻一郎野坂昭如にいっぺんにとり憑かれたような文体で速射されるインキュバス言語は、ストレスの溜まったときなどに音読すればスカっとさわやか腰が軽くなること請け合い。なにしろ「中年男性の性的妄想を主体として構成された言語」であるから、そこのあなたとあなたとあなたには容易に習得できるだろう。そのうちビジネスなどでの要請が増えてくると、NHKの語学講座に『インキュバス言語会話』が登場する。講師はもちろん牧野修先生だ。生徒役には、やっぱり女性アイドル・タレントがよい。おれとしては井上和香小野真弓を推したいところだが、いくらNHKでも事務所を説得するのが難しそうだ。そもそも、彼女らにインキュバス言語を音読してほしいというあたりが、もろに中年男性の性的妄想である。それからアレだな、もうひとり、お手本役にインキュバス言語のネイティヴ・スピーカーが必要であるな。これもやはり女性が望ましいが、女性のネイティヴがおるかどうかだなー。うーむ、ここはやはり森奈津子先生に哀願。


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