間歇日記

世界Aの始末書


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96年11月下旬

【11月30日(土)】
▼あーあ、三十四になってしまった。十八くらいから精神的にほとんど成長していないような気がする。身体だけが衰えてゆくものだから、不条理感が募る。
▼テレビ朝日の『ザ・スクープ』を観ていたら、不覚にも涙がこみ上げてきた。あまりのおれらしからなさに甚だうろたえる。やはり歳か。おれは子供が好きではないが、バカげた人口倍増化計画による、いわゆる“チャウシェスクの子供たち”がAIDSで苦しんでいるのを見せられると、神も仏もないものか(ないにちがいないが)と思う。
 それにしても、チャウシェスクにあんなしあわせな死にかたをさせてしまったのは、他国のことながら悔やまれる。一生あの子たちの看護をさせてやればよかったのに。自分の名を冠して呼ばれる子供たちが目の前でひとりひとり死んでゆくのを見るのは、それはそれは満足なことであったろう。
▼『ウルトラマン・ティガ』も観たいのだが、ここ半年ほどビデオが壊れているのだ。再生はできても、録画ができなくなってしまった。本を読む時間が増えてちょうどいいかくらいに思って放置しているけれど、観たいものが重なるとさすがに困る。もう十年以上使っているビデオで、いままで使った修理代を足せば新しいのが買えるくらいガタがきている。ボーナスと相談だなあ。

【11月29日(金)】
▼最近、コンビニに入るとついついミント菓子を買ってしまう。ライター大のケースに入っているアレで、思わぬヒット商品になっているらしく各メーカがいろいろ出している。おれもいろいろ試してみた。いまのところ、きわめつけはグリコの Wake up というやつである。 Fisherman's friend という洋モノのミント菓子が、いままでおれの体験した中では王者だったのだが、 Wake up の出現で記録は塗りかえられた。こいつはすさまじい。ほかのと同じようなつもりで5粒も一度に食うと、舌に電撃が走り、音を立てて鼻が通り、目から涙がぼろぼろとこぼれる。怖くて5粒以上は口に入れられない。コピー食品の人造イクラみたいな構造になっていて、5ミリほどの粒の中には液体が入っているのだ。眠気に困っている人はぜひお試しあれ。誓って言うが、グリコに知り合いはいない。
▼マスコミ関係者に言いたい。いいかげんに“心中”という言葉を使うのはやめたらどうか。百歩譲って、“一家心中”と“親子心中”だけでもやめてくれ。そもそも親子心中なんてものがあるものか。あれは、親が子供を非道にも殺害し、手前だけは利己的にも自分の意志で死んでいるだけの事件である。マスコミがわざわざ美化してやる必要がどこにある。親が異常な心理状態になって“心中”などを考え出すと、子供は絶対に「殺されてたまるものか」と思うのである。これは推量ではない。経験的事実だ。
 だいたい、ほかの差別用語は重箱の隅をつつくようにして言い替えなどしているくせに、子供が殺害される“心中”は差別用語だとは思わんのか? 繰り返すが、あの手の事件は、断固として、「大久保清子(35)が長男の勉ちゃん(8)と長女の美智子ちゃん(5)を殺害したのち、自殺した」と報道すべきである。見出しにも“心中”という言葉を使ってはならない。そのように報道している新聞もあるが、紙幅の都合もあるのか、見出しには“心中”が使われていることがある。なるほど、大久保清子にもよんどころない事情があったのかもしれない。おれが大久保清子の知り合いで彼女の苦労を知っていたら、葬式の会話では心中という言葉を使うかもしれない。だが、マスコミが一緒になって悲しむ必要は毛頭ない。また、子供を殺害して自殺しようなどという親は、あの世はいいところだといった根拠薄弱な幻想を抱いていることが多かろうから、ちゃんとした寺は子供を殺して死んだ親の供養を拒否すればよろしい。少しは子供殺害の防止に繋がるだろう。自殺するのは個人の自由だ。ただし、ひとりで死ね。

【11月25日(月)】
▼朝、通勤電車で吊り革にぶら下がりながらナンシー・クレスの Oaths and Miracles を読んでいると(怪しいサラリーマンだよなあ)、真下に座っている若者が携帯電話で喋りはじめる。皮ジャンを着て髪をリーゼントに固めたいかにも軽そうなやつだ。リーゼント兄ちゃんはなにやらプリントを取り出し、しこしこ書き込みをしながら話している。相手は友人らしい。だんだん声が大きくなってきて、導関数がどうの、証明がどうのと、この野郎、数学の問題を友人に教えてもらっているようなのである。なんて外見と似合わないやつだ(すごい偏見)。どうでもいいが、サラリーマンにとっては、通勤時間は貴重な読書の時間なのだ。勉学に励むのはけっこうだが、なにも電車の中で携帯電話で話しながら励まなくてもいいだろう。おまえが喋ると、おれの読書速度が落ちる。電車を降りてからなら、導関数なと偏微分方程式なと好きなようにやってくれ。ええい、くそ。いっそ、車輌をシールドしてしまってはどうか。それじゃ携帯電話の意味がないというのなら、せめてデータ通信しかしてはならないことにしてくれないものだろうか。

【11月24日(日)】
▼京フェスの続き。夜も更けて、バラード部屋がどんどん濃くなる。時折バラードの話に戻るのだが、話題はあっちこっちに飛びまくり、ファンダム活動をまったく知らないおれには、ずいぶん勉強になった。日本の海外SFを支えてきたのは、こういう人たちなのであるのだなあと、ひたすら感心する。途中で、古沢嘉通氏や山岸真氏、塩澤編集長らも入ってきて、濃密な話が続く。部屋の主催者・バラード歴一年という森太郎氏はやがて寝てしまう。とうとう一睡もせず語り明かす。もちろん結論など出ないのだが、どうやらバラードを熱烈に愛している人もいなければ、万死に値すると思っている人もいないようだ。
 ここからは私見だが、すでにしてニューウェーブは歴史になってしまっているのだから、「あいつが悪かった」などと言うても“せんない”ことである。おれは門外漢だけれども、精神分析の世界でも、しばしば「フロイトに戻れ」と言う人が繰り返し出現するらしい。じゃあ、ユングやらなにやらがおらんかったら万事がいまよりうまく行ったのかとなると、そんなことは言ってる本人だっておそらく思ってはいるまい。歴史のIFは創作では重要だが、評論ではまったく意味がない。「オスカー・ワイルドもバーナード・ショーもジョン・オズボーンもハロルド・ピンターもいてはならなかった。シェイクスピアに戻れ」という“つもり”で戯曲を書くのはいっこうにかまわないし、それでたまたま傑作が生まれることもあり得るだろう。傑作はすべてそれ自身を正当化する。が、同じ考えで評論をやったら、これはアホである。創作と評論とを両立させ得る才能が少ないのは、この使い分けが難しいからだ――と、おれは愚考するのだがどうか。SFセミナーでの梅原克文氏の論は、「私の創作論」として発表すべきだったのであって、読者一般を下手に説得しようとしたところが反発や失笑を招いたのであろう。誰も作家に“説得”してほしいなどとは思っていない。作家には“魅了”してほしいのだ。作家のなすべきは、実作を以て語らしめることだけである。面白い面白くないは、金を払って本を買うおれが、あなたが、隣のミヨちゃんが判断する。その点で梅原氏は、いまのところ、十分に役目を果たしているではないか。
 さて、朝方、大森望氏や三村美衣氏、岡田靖史氏らも入ってくる。いまこの部屋にミサイルを打ち込んだら……まあ、それはいいとして、試験結果を事前に訊いてきた大森望氏によると、米村秀雄氏は好成績で上位に食い込んでいるとのこと。昨夜の酔っ払った姿を見ている一同は唖然。まるで、ジャッキー・チェンの『酔拳』である。
 バラード部屋にいた面々プラス・マイナスαと、からふね屋で朝食。大広間に戻って試験結果を見ると、おれは総合7位だった。一次ではぎりぎり20位なのに、二次がやたらいい。まぐれ当たりもいいところだ。どう考えても、それほど正解を書いた憶えはないのだが、創作回答がよほどウケたのであろうか? おれも米村氏状態だったのかもしれない。
 ひと晩中上映されていたエヴァンゲリオンはちょうど最終回のラストシーンにさしかかっていて、大広間に集合した全員がいつしか観ている。なるほど、これがかの有名な二十六話であるか。おれは初めて観た。おれの住んでいるあたりはテレビ大阪が映らないためアニメ後進地域になっており、人に借りた四話までしか観ていないのだ。本は読む速度を調整できるが、映画やテレビは“斜め観”というのができないから、リアルタイムで観られないとなかなか腰が上がらないのである。いずれはちゃんとできあがったヴァージョンを観ねばなるまい。
 三十過ぎると徹夜がきつい。ふらふらと家に帰りつくと、「ああ、地球に帰ってきたのだなあ」と思いつつ布団に倒れこみ、夕方まで爆睡。

【11月23日(土)】
京都SFフェスティバルへ行く。一年ぶりに会う人が多い。毎年会って話をするにもかかわらず、名前が出てこない人というのもけっこういる。おれは、SFコンベンションよりパソ通のオフ会を先に体験しているので、こういう人間関係にはまったく違和感がないのだが、普通の人(?)にオフ会の話などをしてみると、「そんな人間関係はとても理解できない」と言われることが多い。なんなんだろうな、これは? 必ずしも年齢と関係ないここいらの感性の差が、電子ネットワークに馴染むタイプの人とそうでない人を分けているような気もする。まあ、オフ会とコンベンションは別のものだけれども。
 さて、京大会館での本会。SFマガジン史上最年少編集長・塩澤快浩氏と大森望氏による「SF専門誌の未来」では、編集後記に和久井映見の話が書きにくくなった(塩)氏の抱負が語られ、SFマガジンの弥栄をみなで寿いだ。最近ホームページも開設した森下一仁氏の「SFの原理〜私にとってSFとは何か」では、氏のSFとの出会い、SFなるものの正体に迫るための最近のアプローチなどが語られ、英保未来(大森望)少年の双葉より芳しい活躍が意外な側面から明らかにされた。久美沙織氏・菅浩江氏の爆笑美女対談「エンターテイメント(プログラム冊子ママ)の条件」では、両氏の創作方法に於ける実感がテンポよく語られた。もちろん、久美氏がツッコミで菅氏がボケの役どころである。一昨年の大原まり子・菅浩江対談では、両者がボケ役で、あたかも不条理劇のような独特の間による面白さが漂っていたものだが、今年はきわめてオーソドックスなノリで、久美氏のチャキチャキした関東言葉と菅氏の有名な京都弁の応酬が絶妙であった。対談の内容は、論理的にはよくわからないが、感覚的にはなんとなくわかるような気もした。
 本会が終わって、ネット仲間と早めに飯を食おうとレストランに入りだべっていると、お茶大の人々やらSFマガジン執筆陣やらが大挙して同じレストランに入ってきた。いまこのレストランにミサイルを打ち込んだら、SFマガジンは出なくなる――などとチラと考える。
 さわや旅館で合宿企画の開始を待つ。昨年山岸真氏がジェスチャーゲームでしがみついた柱には、“さなぎ柱”と書いた紙が貼りつけてある。みなが集まったころ、突如、京大SF研の諸君がアングラ劇のように立ち上がるや滑舌の悪い台詞を叫びはじめ、J・G・バラードを礼賛する替え歌「ときめきビレニアム」の合唱になだれ込む。参加者一同、大爆笑。
 そのあとがしんどかった。なんと、SFの試験を受けさせられるのである。クイズなんてもんじゃない。一次の“センター試験”は、SF I、SF II、日本SF、現代SF、マンガ、SF関係基礎(後三者より二科目選択)がそれぞれ約50問ずつ、回答用紙はマークシート。旅館の小部屋に数人ずつ閉じこめられ、SF研諸君の試験監督がつくという洒落にならない企画である。「こりゃ、まるで本格的な試験みたいですね」とおれが言うと、「みたいじゃない。本格的な試験だよ」と、本職の教師氏。途中で酒を飲んだりしながら、五科目終えるころにはへとへと。これで終わりではない。上位20位以内に入った者には、さらに論述式の二次試験が待っており、総合上位20名が翌朝発表されるのである。まるで罰ゲームだ。
 大広間に戻り、ぶっ続けで上映されている『新世紀エヴァンゲリオン』をちょっと観る。二十三時に、お目当ての『バラードの部屋』へ。『若者の部屋』への立ち入りを禁止された東京創元社の小浜徹也氏登場。徐々に集まってくるのは、いかにも濃そうな人ばかり。しばし、バラードの話で盛り上がる。途中、綾辻行人氏が麻雀の面子狩りにやってきた。やがて、今度は“試験官”がやってきて二次試験受験対象者を発表する。バラード部屋からは七人も合格者が出た。やっぱり濃い人ばかりだったのだ。おれも入ってしまったのだが……。
 大広間に戻り、二次試験を受験。さっぱりわからぬ問題ばかり。おれの隣で受験した米村秀雄氏はすっかり酔っ払っており、「なんやこらぁ、こんなんわかれへんやんけ。なんやこらぁ」などと、にこにこ笑いながら呂律の回らぬ舌で連発している。回答用紙にへのへのもへじでも書いておられるんじゃないかと心配になった。おれはといえば、ほとんど創作のノリでウケを狙った回答を適当に書き、そそくさとバラード部屋に戻る。


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