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96年12月上旬 |
【12月7日(土)】
▼講談社現代新書とブルーバックスのフラップについている三角券を十枚集めて送ると、特製ブックカバーがもらえることはご存じだろう。あれはたいていの洋書のペーパーバックにも、ちょうどいい大きさなのである。以前5つほどもらって必要十分な数が揃ったため、それからはずっと券だけを切り取っては惰性で箱の中に放りこみ続けていたのだ。今日ふと思い立って数えてみたら、八十枚貯まっていた。いっぺんに送ってやろう。ブックカバーはそんなに要らないから、百枚貯めたらパソコンがもらえるとかにしてくれればいいのに。
▼なんだか、当たったりもらったりする話ばかり書いているなあ。とくとくページじゃあるまいし。
【12月5日(木)】
▼読書週間書店くじ、新聞を見るとやっぱりはずれている。お年玉付き年賀葉書だって、切手シートくらいは当たったことがあるというのに。ずいぶん本屋さんの売上には貢献しているんだがなあ。
【12月4日(水)】
▼というわけで、『BLACK JACK』を観てきた。OVAもそうだけど、オリジナルストーリーとはいえ、とにかく原作をじっくり読み込んでわがものにした結果がアウトプットされてきているのがよくわかる。要するに、作り手に愛があるので、絵のタッチの違和感はさほど気にならない。1800円(当日)の値打ちはあった。
おれはアニメの技術的なことはわからないから、作劇面を捉えるしかないのだが、あえて気になったところをあげつらうとすれば、やっぱりピノコをもてあましている点である。もっともこれは、ないものねだりかもしれない。なぜなら、ピノコは、読み切り短篇連作の連載という形式の中でのみ、初めて活きてくるキャラだからだ。劇場版ではもてあまして当然である。ピノコは単なるコミック・リリーフではない。週刊誌の連載に於いて、一篇一篇が読み切りであることからくる不連続感をピノコの存在が緩和しているのだ。ピノコによって、エピソード間の“語られざる連続”の存在感が出てくる。これは、ゴルゴ13の“日常”というものが想像もつかない(したくもない)のと好対照をなす。ピノコ登場以前のBJは、それぞれのエピソードが強く孤立している。それも道理で、もともとBJは数回の読み切りで終わる予定ではじまったのだ。やがて好評のため長期連載の見通しが立つや、手塚治虫は、小賢しい分析によるのではなく、おそらく職人の本能といったものでピノコを生み出したのだろうと思う。たしかに、小林少年ではないが、何度もさらわれたり行方不明になったりと、ピノコネタで本数を稼いでいるかに見える部分もあるが、ピノコはけっしてそのためだけの存在ではない。ピノコがいればこそ、われわれはBJが今日もあの崖の上の一軒家で海を見ながら患者を待っているであろう姿を、厚みを伴って想像できるのだ。
というわけで、秋田書店には悪いが、『ブラック・ジャック』は、エピソードがシャフルされている秋田文庫版よりも、ほぼ時系列に並んでいるチャンピオン・コミックス版を順番に読むのがよい、とおれはこだわるのである。
▼宮本亜門は金谷ヒデユキに似ている。いや。まあ。言ってみたかっただけ。
【12月2日(月)】
▼このあいだやっと回ってきた「文學界」の十二月号を眺める。“回ってくる”とはどういうことかというと、おれの住んでいるあたりではいまだに巡回貸本屋が生き残っていて、おれは十年以上その会員なのである。一応普通の本屋らしいのだが、おやじはほとんど意地になって巡回貸本を続けている。巡回貸本屋とはなんぞや、と若い人に言われそうなので説明しておこう。
月にいくらか払って、自分の興味のある雑誌をメニューから十種類ほど選んでおく。すると、毎週二冊ずつくらい指定した雑誌を持ってきてくれるわけだ。新しい雑誌を持ってくるときに、前の雑誌を引き上げられてしまう。結果的に、買うより安く多くの雑誌に目を通すことはできるという仕組みである。全部は読まないが興味のあるところを部分的に読むという雑誌は、この方式を利用するのが便利だ。多くは月遅れになるが、安いのだからいたしかたない。おれの子供のころには、こういう本屋がたくさんあったものだが、なぜ滅びてしまったのだろう。
ちなみにおれは、文學界、群像、新潮、小説新潮、オール讀物、小説現代、文藝春秋、中央公論、スクリーン、SciAS(だっけな)を、この方式で読んでいる。あっ、SFマガジンはちゃんと買う(か、もらう)。じっくり読むこともあれば、ほとんど目次しか見ないこともある。泣いても笑っても、読まなければそのまま持って行かれてしまうのだ。律義にいろいろ買っていたころもあるが、結局、積読になってしまうものなのである。とくに手元に残しておきたいものは、希望すれば回覧が終わってから安くで譲ってくれる。インターネット時代になって、興味のある分野を指定しておくと関連ニュースだけ送ってくれる電子新聞なんかが出てきたけれど、考えてみれば、あれを雑誌でやっているのが巡回貸本屋だ。案外、現代的なシステムなのかもしれない。いまに、記事単位、短篇単位で同じようなサービスが電子的に提供されるようになるだろう。出版社や文筆業の形態は大きな変貌を迫られることになる。温故知新だなあ。
▼それはともかく、文學界十二月号である。小谷真理が日本のスリップストリームについて論文を寄せているかと思えば、日野啓三がバラードの新作を論じている。かと思うと、大原まり子が斎藤綾子の書評をやっている。純文誌にSFらしきものが載ると大騒ぎで買ってきてにやにやし、「ふふふ、これが純文誌の読者ごときにわかるものか」と誇らしげに感じていたころが懐かしい。隔世の感がある。
とくに小谷真理の論文「極東スリップストリーム――ファンタジイの変貌」は面白かった。西欧政治学から疎外された他者の物語、「それをまるごと、西欧にとっては他者であるわたしたちが輸入し、わたしたちの文学に接ぎ木していくとき、テクストはいわば二重の他者性を内包する」というファンタジーの見かたは興味深い。これを裏返して、「西欧合理主義を纏い日本的政治学から疎外された他者の物語を、日本にとっては他者である西欧人が輸入し、連中の文学に接ぎ木したもの」――というのが、たとえばギブスンだったりすると考えれば、 idoru ですっかりスリップストリーム化してしまった彼が、じつはもともとそうだったのだと納得できようというものだ。
それはともかく、九○年代になってアメリカSF界と連動する形で日本のスリップストリームが一気に華開いたという指摘は、たしかに現象としては正しいけれども、日野啓三の『天窓のあるガレージ』は八二年だし、八五年にはすでに『夢の島』が登場しているんだけどなあ。これは“連動”したんじゃなくて、大原まり子がサイバーパンクを日本で同時発生させていたように、やがて来るスリップストリームを主流文学の側から独自に析出していたとしか言いようがない。小谷真理が日野啓三をどう評価しているのか、いつか読んでみたいな。
▼で、その日野啓三だが、DOS/Vマガジンを買いに会社のそばの本屋に行ったら、『日野啓三短篇選集(上・下)』(読売新聞社、各1900円)が出ていて、迷わず上下とも買ってしまう。よく考えたら、ほとんど読んだものばかり。それでも欲しい。財布が寒い。アホである。でも、年末の楽しみができた。いひひひひ。
【12月1日(日)】
▼爆睡。気がついたら夕方だった。このところ疲れているのかもしれない。
▼ホームページがあまりに無愛想なので、ユーザ・インタフェースを改良。日記も背景色を変えてみた。
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