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97年2月中旬 |
【2月19日(水)】
▼パソコンをパコパコ叩きながらテレビのニュースを背中で聴いていると、アメリカでパトカー警官と悪者(なにをしたのか聞き損ねた)の銃撃戦をカメラが捉えたと小宮悦子が言った。見ると、なるほど、ドンパチやっている。まあ、アメリカじゃこんなこと珍しくもないんだろうなとパソコンに向き直ると、最後に悦ちゃんが妙なことを口走った。「――なお、撃たれた警官には怪我はありませんでした」
ついにアメリカはロボコップを開発したのか――と、おれは反射的に奇異に感じた。防弾チョッキを着ていたため怪我はなかったと言いたいのだろうか。それとも、賊の弾丸は警官を狙って発射されたが当たらなかったという意味だろうか? 謎は深まるばかりである。
思うに、これは外電だから、英語のニュース原稿があって、それを元に日本語原稿を作ったのだろう。たとえば、"The policeman they shot at was not injured."といった原稿だったのではあるまいか。自然な日本語にすれば、たしかに「撃たれた警官には怪我はなかった」とせざるを得ないだろう。「賊が彼めがけて弾丸を発射したところの警官には怪我はなかった」などとしても、なんのことやらわからない。とはいうものの、“撃たれた警官”などと言われると、"The policeman they shot was not injured."というふうに聞こえてしまい、ロボコップじみてくる。"They shot the policeman."と言えば、まず弾丸は命中した意になる。"They shot at the policeman."なら、警官が標的になったことはたしかだが、弾丸が当たったかどうかは不明だ(わざわざこういう言いかたをするからには、当たってはいないという含意がきわめて強い)。
ここでおれは、はたと考え込んでしまった。日本語でスマートに区別する言い回しはないものだろうか? 当たったら“撃たれた警官”で、外れたら“狙われた警官”にしてはどうかとも思ったが、後者だと警官がずっと付け狙われていたかのような誤解も与えかねない。やはり、「銃撃戦があったが、警官に怪我はなかった」という具合に、文脈で表現するしかないのかな。これなら、弾丸の応酬があったことはあきらかなわけだから、賊が警官を“めがけて”最低一発は撃ったことを伝えられる。でも、なんだか気色が悪いな。もしかすると、おれの盲点になっているエレガントな日本語表現があるのかもしれない。キレのいい日本語を思いつかれた方、ご教示いただければ幸いです。
きっと、翻訳家って、日夜こんなことばかり考えてるんだろうなあ。このあたりが、英語は英語のままで意味を取ればこと足りるレヴュアーなんかとは、苦労の質がちがうところである。
【2月18日(火)】
▼京都府立桂高校(というと、菅浩江さんの行ってらしたとこですよね)で、制服の導入をめぐって校長と生徒が対立しているらしい。そうか、桂高校って、私服だったんだなあ。京都のはじっこの方に住んでいると、そこいらへんのことには疎いのだ。おれの通っていた高校(京都府立某校)は最初から制服で、朝着ていくものを考えなくていいので便利だったことは憶えている。こういうのって、慣れとか校風とかもあるから、私服の学校は私服のまま、制服の学校は制服のままにしておくのが、さしあたり無難でいいんじゃないの? だって、「この学校は私服(制服)だから」というのも、生徒が入学校を選んだ判断基準のひとつでありうるわけでしょう。生徒を交えた検討を重ねてのことならともかく、上の一方的な判断で途中から変えられては納得行きませんわな。全部私服になっても気色悪いし、全部制服になっても気色悪い。国会議員になった途端、日本を制服したような気になって私服を肥やす人もおりますからして、どっちがいいってもんでもありますまい。ああ、今日はベタネタだ、ベタネタだ。
【2月17日(月)】
▼三池炭坑閉山かあ。石炭ストーブなんて、いつまであるんだろう。小学校のころ、プレハブ教室の石炭ストーブでいろいろいたずらをしたのが懐かしい。安全面を考えると、よくもまあガキが跳んだり跳ねたりする教室にあんな危ないものが置いてあったもんだなと思うのだが、それなりのメリットもあった。石炭ストーブの表面に飛び散った水滴の挙動から、ライデンフロスト現象(なんて言葉はあとで知るのだが)を説明してくれた先生がいたのを憶えている。洗練された便利な道具や機械がどんどん出てくるのはいいが、ナマの物理・化学現象は日常生活に於いてますます“不可視化”してきている。見て触って感じて原理を納得できるような道具や機械が減ってきているのだ。理科の先生は、ますます教えにくくなってゆくことだろう。これで実験の時間を増やして補うというのならまだ話はわかるが、むしろ減らされているとのこと。「ベルヌーイの定理というのはですね、たとえば、霧吹きを思い出してください。あの管の狭くなったところで空気の流れが速くなって――」「あのー、先生、キリフキってなんですか?」「…………」
▼ペルー人質事件のテレビ朝日を見てると、アレですね、『ダイ・ハード』に出てくる例の記者を思い出しますね。しかも、ブルース・ウィリスに感情移入した状態で思い出してしまう。おまえら、何様のつもりだ、と。
【2月16日(日)】
▼『特命リサーチ200X!』(日本テレビ系)を観る。けっこうSFマインドのあるネタが多いので、時間のあるときは極力観るようにしている。もっとも、インテリ風の高島礼子が目当てでもあるのだが。
西暦2000年問題はおれの本業にも関わることだから(いまはプログラムは書いてないけど)、一般向けにどのように取り上げるのかと興味津々で観ていると、やたら危機感ばかり盛り上げてくれるじゃないか。まあ、コンピュータ社会があれくらいの大混乱に陥る可能性は常に念頭に置いておかなくてはならないにしても、実際に力技や人海戦術でプログラムを作っているほうは、拍子抜けするくらいに危機感がないのが実情である。一種の特需と見て、ほくほくしている向きもあるくらいだ。天に唾するようなことをあえて言うけれども、ソフトウェア会社にプログラムを発注するユーザはいい面の皮だ。
たとえば、あなたが高い金を払って心臓の手術をしてもらったとする。ところが、医者はなにを血迷ったか、「まあ、この弁の縫合糸は西暦2000年まで保つだろうし、それまでにはまた誰かが開胸する必要が生じるだろう」と考えて、2000年には溶けてしまう糸(ディゾルヴィング・スーチャー)を使ったとする(『刑事コロンボ』のトリックにありましたよね)。で、いまごろになって、「じつは、あなたは放っておくと2000年には死にます」と言っているのと同じである。「手術しなけりゃならないんですか?」「もちろん」「お金は?」「当然、払ってください」とゆーておるわけだ。こんな理不尽な話があるかいと思うのだが、コンピュータ業界では、これが常識であったし、いまも準常識くらいではあるんだよなあ。
おれが大むかしに仕事で作って忘れているプログラムにも、2000年対応が必要な箇所があるにちがいない。なんだか、ものすごく申しわけないけど、「世間に恥じるようなプログラムなど、ひとつとして作ったことはないぞ」と言えるプログラマは、業界にひとりもおるまい。だって、医者とちがってプログラマには免許が要らないのだ。むちゃくちゃなものでも、当座のアウトプットさえ正しければ、よしとされることがままある。あとからメンテナンスしようとしても、ドキュメントさえなく、ひどいときには、ソースコードすら紛失している。メンテナンスのための一子相伝の奥義が、企業のシステム担当者間で口伝されているなんてのは、日常茶飯事なのである。
2000年1月1日、午前0時――さあ、なにが起きるだろうか?
【2月15日(土)】
▼『キューティーハニーF』(テレビ朝日系)を観る。なるほど、先日書いたテーマソングの“ボイン”問題は、こういう形で処理したか。前奏を長くして詰めるとはね。でも、CDではやっぱり歌ってるんだろうな。それにしても、フリフリ〜(はあと、と書きたくなる)。とても永井豪原作とは思えない。いかにもGoちゃん風というキャラは、敵役と生活指導教諭、学園長だけ。如月博士は若くて堅気風(笑)で、とても空中元素固定装置なんて大それたものを作りそうには見えない。科学者もかっこよくなくてはならないんだなあ。おまけに、むかしのハニーにはいなかった、銀髪のバンコラン少佐みたいな謎の男まで出てくる。ハニーの七変化にいちいち名前がついてたのは、識別子があったほうがおもちゃの管理がしやすいからでしょう(笑)。さすがに、片目の運転手というのはありませんよ、そこのおじさん。
▼諸星大二郎『天崩れ落つる日』(集英社)、水樹和佳『月虹 ―セレス還元―』『樹魔・伝説』(豪華本・集英社)をぶっ続けで読了。今週末はマンガ漬けだ。いずれも立派なSFとして面白い。
諸星氏のは、諸星版『SFバカ本』といった感じ。次の『SFバカ本』には(出るとすれば)、筒井康隆編の『日本SFベスト集成』(徳間文庫)シリーズのようにマンガを入れるというのはどうでしょうね? この作品集の収録作品は、まさにバカ本に打ってつけだと思う。水樹さんのは、今回初めて読んだけど、時代を超えてとても新鮮に感じた。本質的にミもフタもないニヒリストでありながらも、切れるとわかっているヒューマニズムの蜘蛛の糸を引っ張らずにはいられないぎりぎりの想い――おれはこういうのに弱い(手塚治虫がそうだった)。いやあ、SFって、ほんとにいいもんですね。
【2月14日(金)】
▼仕事の帰りに『パラサイト・イヴ』を観る。客はアベックばっかり。しまった、今日はヴァレンタインデーで金曜日だった。「あ、こいつはひとりで来ているぞ。お、目の配りからして(笑)おれと同じ人種にちがいない」と思うようなやつは、みな隣の劇場でやってるID4のほうに行ってしまう。千八百円をどう使うか、一瞬迷いが生じるが、これくらいの誘惑を振り切らねば葉月ファンはやっていられない。ID4はビデオで観たことだし、パンフだけ買う。
「『パラサイト・イヴ』って、ホラー大賞なのに全然怖くないよね」「モダンホラーが怖いわけないでしょ」「そうか、怖くないホラーをモダンホラーと言うのか」などという会話を本が発売されたころしていたものだが、映画もやっぱり怖くない。当たり障りのない娯楽作品としては、そこそこ楽しめると思う。ミーハー・モードに頭を切り換え、葉月里緒菜と中嶋朋子を存分に目に焼きつける。
葉月目当てだったとはいえ、中嶋朋子が予想以上に好演していて、ちょっと得した気分。どうもおれのようなおじさんには、幼いころの蛍ちゃんのイメージがまだ拭えないのだが、最近の中嶋朋子はめちゃめちゃに色気が出てきてゾクゾクしてしまう。断わっとくけど、脱がないよ。ただその場にいるだけで色気があるのだ。この人は三十越えるころには、すごい女優さんになるだろうと思う。もっとも、相当数の友人によると、おれは「女の趣味が悪い」そうなので、話半分に聞いておいてくださいよ。この映画の監督とは趣味が合いそうだけど。あ、三上博史にいまさらうまいと言うのは野暮ですね。とても真面目で勉強熱心な人なんだろう。
瀬名秀明がこれ以上ないというハマリ役でちらと出てきても、周囲の人は全然気づいていない様子。アベックばっかだから、それどころじゃないか。いや、気づくようなやつは、ID4のほうへ行っているという妙な構造になってるのかもしれない。
【2月13日(木)】
▼〈中央公論〉3月号の清水義範とイアン・アーシーの対談「この国のことば」を読む。アーシー氏は「訛りを隠すとか直すとかいうのは、日本の中央集権主義の現われですよ」と言うのだが、おれには必ずしもそうは思えない。たとえば、東北の子が大阪に転校してきたという場合、その子はおそらく東北方言を笑われたりすることだろう。しかし、彼なり彼女なりは、俄然、中央集権主義的思想に目覚めて、標準語や東京弁を練習しはじめたりするであろうか。当然、大阪弁を覚えようとするだろう。この子が訛りを隠したり直したりするのは、異質な者を排除しようとする反応に対して必死で防衛をしているのだ。
もっとも、アーシー氏が指摘するような現象がないわけではない。関西の人はよくご存じだと思うが、阪急沿線の一部高級住宅街あたりでは、なんとも不自然で奇妙な標準語らしきもので会話する子供に遭遇することがままある。親が関東から移住してきた人々であったり、“関西弁=下品”という歪んだ考えを持っていたりする場合が多いのだそうだ。前者はともかくとして、後者はあまりにも卑屈だ。親がどこで生まれようがどこの言葉を好もうが、ここにこうして住んでいる子供にとっては関西こそがふるさとなのだから、こういう家庭で育つ子供のほうがいい迷惑である。おれの経験では、こういう子供は例外なく“関西弁の正しい敬語”を身につけ損ねてしまっている。彼らは、「関西弁は非公式な場で用いる下品な言葉」「標準語は丁寧で上品な言葉」というおかしな序列を叩き込まれているため、インフォーマルには流暢に関西弁を話せるにも関わらず、目上の相手を前にすると標準語(らしきもの)になってしまうのだ。同じバイリンガル教育(?)をするのなら、標準語のフォーマル/インフォーマル、関西弁のフォーマル/インフォーマルと、四通りの言葉をきちんと話せるようにしてもらいたいものである。ヘンに省略して、フォーマルは標準語、インフォーマルは関西弁などと教えこむから、言語的根無し草ともいうべき、可哀想な子供ができあがってしまうのだ。ひどい学校になると、「標準語を話せ」という校則があったりする。馬鹿も休みやすみ言え。だいたい、これだけメディアが発達した時代に、わざわざ家庭や学校で標準語を使わせたりせずとも、社会人としての常識レベルの標準語くらい子供は自然に覚えてしまうわい。むしろ、生活の場では、正しい方言を使えるようにするのが本筋じゃろうが。たしかに、こうした卑屈な教育には、アーシー氏が批判する中央集権主義が色濃く反映されているだろう。
中途半端な標準語を喋る子供が多い上記の地域では、逆に面白い現象が見られる。金髪碧眼の子供が、「おかぁちゃん、はよこっちこんかいなー!」などと大声でブロンド美女を呼んでいたりするのだ。思わず微笑んでしまう。きっと、彼らはケンタッキーかどっかに住む祖父母のところに遊びに行き、「おじいちゃん、おばあちゃん、知ってるか? No kidding! て、日本語で“あほかいな”ちゅうねんで」と誇らしげに教えていることだろう。
【2月12日(水)】
▼女性の友人たちから、ヴァレンタイン・チョコが届きはじめる。このあいだ届いた第一号は、世界のカエルをあしらったマグカップ、財布に入れる小さな黄楊材の福カエルおよびチョコだったが、今日来たのは、カエルのカーミットのペンケース、同じくカーミットのメモ帳、カエル型のチョコなどである。どうも、いつもありがとう。
彼女らをはじめ、私のカエル好きを知っている友人たちが、ことあるごとにカエルグッズをくれるものだから、とくに集めるまでもなく、わが家にはカエルがどんどん増えてゆく。カエルというのはいくら増えてもまたいいもので、そこはかとないとぼけた風情が心を和ませてくれるものだ。最近あまりほんものを見かけなくなったのは寂しい。
【2月11日(火)】
▼体調悪し。一日中寝たり起きたりしてうだうだと過ごす。建国記念日らしい。何月何日にできたなんてことはうやむやになっているほうが、たかが二百年やそこら前にできた国よりも風格があっていいと思うのだが、休日はやっぱり多いほうがいいな。
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