間歇日記

世界Aの始末書


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97年2月下旬

【2月28日(金)】
▼リクルートが創刊した「ザッピィ」というのを買ってみる。さわりだけ聴けるCDが付いてるのが売りだ。聴いてみると、これがほんとにさわりだけ。フラストレーションが溜まることおびただしい。そりゃまあ、それが狙いにはちがいないけれど、これじゃまるで“演歌チャンチャカチャン”(古いなあ)だよ。
▼もちろん、大原まり子『アルカイック・ステイツ』(早川書房)も買う。ホームページの写真で装幀は知っていたが、こうして手に取って見ると、往年の「SFアドベンチャー」がハードカバーになったかのようだ。生頼範義の画が持つ不敵ないかがわしさは、ワイドスクリーン・バロックにぴったりである。

【2月27日(木)】
筒井康隆ホームページを見てびっくり。「筒井康隆フランス芸術・文化勲章のシュバリエ章を叙勲! 叙勲式は3月11日フランスにて。」とある。こんなのいつ載ったのだ。まあ、作家としてなにをもらってももはや不思議はない人だけど、フランスの勲章とはなあ。筒井康隆ほど、勲章というものがいい意味で似合わない作家はいないんじゃないか。なんだか愉快だ。これで「じゃあ、日本の文化勲章もあげましょう」なんてことになったら二重に愉快だ。そんなもの、大江健三郎でなくたって蹴るよね。筒井氏のことだから、ブラックな洒落のつもりで受けるかもしれんけれども。

【2月26日(水)】
▼朝、駅へ向かって歩いていると、黒いパーカのようなものを羽織った中学生か高校生か大学生くらい(最近はわからん!)のちょっと可愛い女の子が、自転車でおれを追い抜かして行った。うしろ姿を見ると、背中に白ヌキの大きな文字で“bitch”と書いてある。おいおいおいおーい! そういうのが流行ってるのかどうかおじさんは知らないが、頼むからそれ着て海外旅行だけはしないでくれ。うーむ、男社会に対する批判精神の発露かなんかで知っててやってるんならいいが、どうもそういうコには見えなかったなあ。なあに、なにやらアルファベットが書いてあればいいのよと思って着てるんなら、日本の英語教育は歪んでおるぞ。きっとこういうコが、"No sooner had he arrived at the station than the train pulled in."なんてのをすらすら訳したりするんだったりなんかりして(広川太一郎の声で)。
▼帰るとSFマガジンが届いていた。あ、ほんとだ。URLがちがっている。それはともかく、塩澤編集長の編集後記には、さっそく「本の雑誌」の「この10年のSFはみんなクズだ!」特集と日本経済新聞の「国内SF、『氷河期』の様相」記事が触れられている。日経だけ読んで納得している人がいてはいけないから、すでに森下一仁さんも詳しく報告なさっているけれども、あえてこんな辺鄙なページにも書いておこう。できるだけ多くの人の目に触れるほうがいいのだ(少ないけど)。おれも直接本人からお伺いしたが、塩澤SFマガジン編集長は、日本のSF作家が袋小路に入っているなんてことは言ってないとおっしゃってますので、そこんとこよろしく。袋小路云々は、まったく別の文脈で塩澤さんが言ったことを、記者が曲解したものらしいとのことである。言った言わないという話になると、おれはその場にいたわけじゃないからわからないが、そもそも人間が喋ることをたっぷりテープにでも録れば、それをマスターにまったく逆の主張に聞こえるように編集したテープを二本作ることも可能なはずだ。手書きメモなら、なおさらである。いやなに、日経の記者がそういうことをしたと言ってるわけじゃありませんよ。客観的に可能性を指摘しているだけだ。可能性があるだけに、取材というのは予断を持って臨んではならない難しいものなのであろうなあと、素人のおれなどは推察する次第である。まあ、“サイバースペース”という言葉を日常語として人口に膾炙させたくらいの新聞であるからして、よもやSFのエの字もわからん人をよこしたわけではないだろうけれども……。おっと、知らないことをあまり推量ばかりするのはやめておくことにしよう。
 それにしても、このところの騒ぎを京都の田舎から眺めていると、おれはなんというしあわせ者なのであろうかとわくわくしてくる。この10年、おれは海外SFのみならず、日本SFにもずいぶんと楽しませてもらった。ところが一説によると、それらはクズなのだそうだ。ということは、クズでさえこれだけ楽しめたおれには、これから日本SFがどんどん面白くなってゆくばかりの老後が待っているのかもしれず、これが喜ばずにおらりょうか。なにを食ってもうまいという人と同じで、単におれの鑑賞眼がなまくらなだけなのかもしれない。だとしても、主観的には幸福な人生を送れるにちがいない。おれはつくづくおめでたいやつなのだ。そして、おめでたい人をもっと増やしたいだけである。

【2月25日(火)】
▼SFマガジンの塩澤編集長から電話。4月号の執筆者近況に入れたホームページのURLに印刷ミスがあったとのこと。あららら。そう聞いただけで、どこをまちがえたのか一発でわかりましたね。「ray_fyk」の「_」、コンピュータ業界者は「アンダースコア」と呼ぶ文字である。そう、「-」になっていたのだ。じつは、新聞・雑誌に載っているURLでは非常に頻繁にまちがえている文字なので、ひとこと注意を促しておかなかったおれが悪いのだ。新聞見ながら何度「−」を「_」にして試してみたことか(そうすると、かなりうまく行く)。コンピュータ業界ではしょっちゅう使うのだが、一般の出版物ではコンピュータ雑誌でもないかぎりほとんど使わない文字である。校正の人が見落としても無理はない。見落とすどころか、わざわざアンダースコアをハイフンに書き直してくださることもある。見てきたように言うけれども、会社の仕事で広告代理店にカタログ等を頼むときにも、この手のまちがいは日常茶飯事だからである。そのほかによくまちがわれる文字は「~」だ。インターネット・ウォッチが「これをなんと読むか」という投書を募集したとき、「うえにょろ」という傑作があった(以来、おれも堅気の人相手にはそう読むことにした)。コンピュータ業界の方、インターネット歴の浅くない方、スペイン語を嗜む方は、「チルダ」「ティルデ」(tilde)と読むことはご存じですね。
 URLがまちがってたわりには、いつもよりほんの少しアクセスが多い。「ははあ、この“-”はきっと“_”だな」と推理して辿り着いてくださった方、「http://web.kyoto-inet.or.jp/people/」まで“這い上がって”捜してくださった方がもしもいらしたら、まことにありがとうございます。
 塩澤さんはしきりに申しわけなさそうにしておられたが、気休めでなく本業の経験から申し上げると、じつは印刷媒体でのURL告知というのは、よほど大規模に金をかけてやらないと効かない。特集記事かなんかで取り上げてもらうならともかく、十も二十もURLが羅列してあるところにひょいと載ったところで、大した効果はないと見てよい。よほど興味を引くホームページでもないかぎり、人は印刷された文字を見てわざわざパソコンを立ち上げ、エッチ・ティー・ティー・ピー・コロン・スラスラ云々などと打ち込んだりしないものなのだ。サイバースペース内のものはサイバースペース内で宣伝するのが最も効果的なのである。クリックするだけでよいからだ。
 そういうわけで、ネットサーフィンをはじめたという塩澤さん、近況にURLを書いたのは、驚天動地の絶大な宣伝効果を期待してのことではないので、あまり恐縮していただかなくともけっこうでございますよ。たかが駆け出しレヴュアーが雑文を垂れ流しているだけのこのページには、ありがたいことに、我孫子武丸さん、大森望さん、尾之上・ぱらんてぃあ・俊彦さん、神代創さん、菊池鈴々さん、蛸井・糸納豆・潔さん、水樹和佳さん、森下一仁さんといった業界・ファンダムの方々が逆リンクを張ってくださっているばかりか、ネット上のSFファンはまず利用しているにちがいない 独断と偏見のSF&科学書評森山和道さん)、夏への扉タニグチリウイチさん)、Hirayan's Sci-Fi page平山祐之さん)などの強力サイトのリンクにも加えていただいております。ホームページが見られるSFマガジンの読者で、上記のどのページも見たことがないなどという方は、まずいらっしゃらないことでございましょう。URLなど書かなくとも、「ホームページ開設しました」と読者の方々に告知させていただけただけで十分なくらいです。
 しかし……こうしてリンクしてくださってる方々のページを羅列してみると、われながら畏れ多くなってきた。もっと、内容を充実させんといかんなあ。

【2月24日(月)】
▼早川書房より依頼のリーディングとレジュメ書き。かなり前に読んだものなので、けっこう忘れている。仕事になろうがなるまいが、すべての読了本の簡単なレジュメをすぐに書き残しておけばずいぶんと助かるのだろうが、怠惰なおれにはなかなかできることではない。子供のころから、読書ノートというやつをつけるのが大の苦手だったのだ。そのくせ、「あっ」と思った作品については居ても立ってもいられず、発表するあてもない感想文やら小論文やらを発作的に書いたりする。パソコン通信をはじめたときに、「おお、こういうものは、ひょっとしてここに発表すればよいのか」と思ったものだが、発作的に自分のために書くものと人に読んでもらうものとのあいだには暗くて深い河がある。結局、パソ通の会議室にアップするとなると、ほとんど書き直すことになるのだった。ホームページだってそうだ。カラオケボックスで歌っているぶんにはいいが、何千人という聴衆の前で舞台に立って歌うとなると、歌い慣れた曲でも平常心を保てる人は少ないだろう。まあ、プロだって、ボックスでも舞台でもまったく同じように歌えるというわけではない。怖ろしいことに、プロは舞台に立つほうがうまく歌えるのである。なんの道によらず、それでメシ食ってる人はすごい。
“発作的に自分のために書く”というのに最も近いのは、とりもなおさずこの日記なのであるが、これとて人に読まれることを意識しながら“発作的に”書いている。ややこしいなあ。

【2月23日(日)】
▼ふと便意を催しトイレに入ろうとすると、足元のデジタル体重計が目に入った。体重を計ってから大便をし、再度計ってみる。変化なし。この体重計は500グラムが最小目盛りなのだ。くそ、次回は差をつけてやる。こういうバカな目標を立てるのも、小さなしあわせである。
▼先日買ってきたCDを二枚聴く。zabadak Remains biosphere, ZA-0013)と、なぜかヒーリング・ミュージック的売られかたをしているAdagio Karajan(Deutsche Grammophon - Polydor, POCG-3441)。Remains ってのも、ずいぶんシンプルというかヤケクソなタイトルで、要するに、いまでは入手困難なシングル盤用録音とアルバム未収録曲とを集めたもの。大阪弁で言うと“残りもん”ですな。上野洋子がいた時代のzabadakを懐かしむファンはけっこう多いらしく(いまが悪いというわけではないが)、バイオスフィアもなかなか商売上手。
 おれもCDはすべて持っているくらいのzabadakファンだけど、惜しいことにzabadakは英語歌詞の曲がやたら下手である。吉良知彦の英詞は文法がはちゃめちゃで、なんとなく意味がわかる程度、よくzabadakに詞を提供している小峰公子の詞にも時折ヘンなところがある。じゃあ、ネイティヴが詞を書いた曲はどうかというと、これがそこはかとなく不自然な音の乗せかたをしているものが多い。詞は紛れもなくちゃんとした英語だが、曲が英語でない。そこがまた妙にオリエンタルな印象を与えていいと言えばいいのだけど、英語には英語のアクセントとリズムがあるわけで、やっぱり気色が悪い。いっそ、英語の曲なんて作らなければよかったのに。もっとも、この欠点はzabadakの持ち味でもある。どんなにアイリッシュ・トラッド風のディテールを組み込もうとも、zabadakの曲からは骨の髄まで日本的なものが、農耕民族の血が香ってくる。そこがかえって西欧のミュージシャンにも“自分たちの持っていないもの”として評価されるのだろうし、大衆の深層にさりげなく訴えかけねばならないCM音楽などに、縁の下の力持ちとして引っぱりだこな理由のひとつでもあるだろう。吉良・上野体制の円熟期には彼ら自身がそのことを自覚していたようで、だからこそアルバム『桜』のコンセプトが出てきたのだろうと推察している。宮崎県椎葉村に伝わる民謡を現代風にカバーした「椎葉の春節」は、吉良・上野zabadakの最高傑作のひとつだと思う。
 Adagio Karajan は、書きものをするときにエンドレスで流しておくのにちょうどよい。通俗的かどうか知らんけれども、おれはカラヤンってのは、SFで言えばクラークみたいだと思っている。美しくってなにが悪いと、信じるものに子供のように無邪気なだけだ。能天気だの通俗的だのという世間の雑音には毫も動じない。「そうだよなあ。悪くないよなあ」と、“前衛的”なものに疲れたとき、ふと気がつくと帰って行きたくなる頑固親父みたいな感じだ。

【2月22日(土)】
▼岬兄悟氏の「ときたま日記」を読んでびっくり。氏の前月分のダイアル通話料金はたったの3820円、テレホーダイを利用していなければ46490円だという。テレホーダイで4万円以上の節約になるとは、羨ましい話だ。サラリーマンではこうはいかない。たしかにテレホーダイがはじまってから、ずいぶん助かっている実感はあるが、いくらなんでも月に4万円ということはない。サラリーマンでは、せっかくテレホーダイを利用していても、平日にはその恩恵を高々二三時間分しか受けることはできないだろう。むしろ、メールの交換など急ぎの用事は、帰宅してからテレホーダイ適用がはじまる二十三時までのあいだに、あわててすませようとするくらいだ。繋がりにくくなるからである。NTTさん、もう少しなんとかなりませんかね?
 個人的なメール交換からホームページ作成まで、すべて会社でこっそりやってやれないこともなかろう。が、会社の設備を用いて個人的なネット活動をするのは、厳密に言えば業務上背任横領の類であって、おれはあまりやりたくない。そのかわり、おれが個人的活動によって得た情報や人脈を会社に役立ててやるつもりも毛頭ないのであるが……。業種によっては、個人的活動と会社の業務活動との切り分けがしにくいケースも多いだろうから、このあたりを悩み出すと、じつに難しいことになる。
 会社や所属組織が個としてのアイデンティティーの大部分であるといったしあわせな人々は、旧来の日本の企業文化と電子ネットワーク文化とのあいだにある決定的に相容れない部分が、こうした問題の周辺に隠れていることに気づかない。電子ネットワークを“生産性向上”とやらのための単なる一ツール、たとえば、電卓のようなものとしか考えていないわけである。あらゆる道具や機械は、それを生んだ者の文化や哲学を不可避的に反映する。電子ネットワークの場合、それはアメリカだ。社内LAN・WANを使い、インターネットを使うとき、おれたちはよくも悪くもアメリカを使っているのだ。あらゆるものを“ジャパナイズ”し、外の文化をほんとうには一度も取り入れたことのない国が、電子ネットワークによってどういう変容を受けてゆくかは見ものである。小野不由美の『東亰異聞』のように、おれたちも沈んでゆくのだろうか。それとも、村上龍の『五分後の世界』のように、己の本質を変える危機と痛みを乗り越えて、二十一世紀に君臨することになるのだろうか。

【2月21日(金)】
▼なにやら最近あちこちでSF絡みの新しい動きがあり、ちょっと不思議だ。シンクロニシティーっぽい。おれのところへ情報が入ってくるのが、たまたま同時になっているだけなのだろうけれども。
 まず、パソ通の友人・坂口哲也さん(ソニーコミュニケーションネットワーク)がプロデュースする、SF情報専門のオンラインマガジン「SF Online」が始動した。いま見られるのは創刊準備号だが、これで準備号なら創刊したらいったいどれほど充実するのか楽しみである。だいたい、テツヤという人がプロデュースするものは当たると相場が決まっている。
 一方、海外SF/ファンタシイの情報ファンジン「ぱらんてぃあ」のページが立ち上がった。昨年からページはあったようだが、お披露目は最近らしい。有名なファンジンだから、ファンダムに疎いおれでもさすがに名前はよく知っている。それにしても、ほんとにこんなものタダで読んじゃっていいのだろうか。面白そうだなと思って買うだけは買ってあった Greg Egan Permutation City やら、 Allen Steele The Jericho Iteration やらのレヴューが出ていて、なんだか得した気分だ。印刷媒体の同人誌に愛着がある人にしてみれば、オンライン・ファンジンになることには複雑な感情を伴うところもあったろうとは思うけれども、率直に言って、これはいいことだ。なにしろ、未訳の海外SFレヴューというのは、SFマガジンや非営利のファンジン、一部のポピュラーサイエンス誌、コンピュータ関連誌などでしか、なかなかお目にかかれない。つまり、もともと海外SFが好きな人の目にしか触れないわけである。これでは、「へえ、あちらにはこういうものがあるなら、ぼくもひとつがんばって洋書を読んでみよう」という若者を引きずり込む――失敬、動機づけることはできないだろう。おれも非力ながら、がんばらねば。
 また、「本の雑誌」3月号では、「この10年のSFはみんなクズだ!」という挑発的タイトルの特集が組まれ、すでにあちこちで話題になっているのはご存じだろう。おれは必ずしも与しない意見だが、よくも悪くも、人々の口にSFの話題が上るのはけっこうなことである。
 さらに、今日発売の「ワイアード」4月号を買ってきたら、こいつがまるでSF雑誌のようである。最近SF関係者の登場頻度が上がってきている「ワイアード」だが、今月号はSFファンにはとくに読みでがある。もっとも、「デジタル・テクノロジーと社会、そして人間の関係をリポートする雑誌」なんであるから、「ワイアード」がSFに無関心でいられるはずがない。いや、SFのほうでも、この雑誌が掬い取ろうと試みているものに無関心でいられるはずはないのだ。“古びた未来”や“なじみの異世界”の中で堂々巡りをしているのがSFだと思われていては癪ではないか。


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