間歇日記

世界Aの始末書


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97年3月上旬

【3月10日(月)】
▼雨が降る。いったい、人はいつごろから傘の首を逆手に把んで歩くようになったのだろう。傘をスキーのストックのようにうしろに振り出しては、背後に立つ者に無意識に攻撃を加えるゴルゴ13みたいなやつが多い。とっても多い。駅の人ごみなんぞ、危なっかしくて歩いていられない。おれはと言えば、傘を順手に構えて、フェンシングの要領で前を歩く敵の突きを受け流すのだった。

【3月9日(日)】
▼そろそろスーツを買いに行こうかと思っていたが、しんどいのと忙しいのとでやめ。本を読んだり、原稿書いたりして過ごす。東野司『電脳祈祷師美帆 邪雷顕現』(学習研究社)をちょっと読む。文体もあとがきも、夢枕獏の九十九乱蔵シリーズを意識しているのはあきらか。むしろそう言われれば大いにけっこうだくらいに割り切って、読者層を絞り込んだ感じである。どういうわけか「歴史群像新書」というのに入っている。いろいろ事情があったのだろう。

【3月8日(土)】
▼SFマガジン4月号を熟読して過ごす。なぜ熟読しなきゃならんのかというと、えーと、それは3月18日以降の日記でお話しすることにいたしましょう。
 それにしても、谷甲州の連載「エリコ」って、いいタイトルだよね。これは、「マサコ」でも「キコ」でも「ショーコ」でも「ヨシコ」でも「クミコ」でも「サチ」でも「ケーノジョー」でもしっくり来ないわけで(これらの名前は断じて無作為抽出です)、この作品の主人公のような女性(元男性なのだが)は“エリコ”以外の何者でもないと思わせるものがある。他人に伝授不可能なこのあたりのセンスは、作家にとっても読者にとっても、存外に重要だと思う。薔薇は、ほかの名で呼ぶとよい香りはしないかもしれないのだよ、ジュリエット。

【3月7日(金)】
▼「かっぱえびせん」のマヨネーズ味というのを食ってみる。けっこういける。袋に書いてあるには、「私はマヨネーズをつけて食べる」というファンレター(なんて出すやついるのかよ、ほんとに)から生まれた製品なのだそうだ。最近、なんでもかんでもマヨネーズをつけて食うのが流行ってるみたいなのだが(おれも好きだけど)、なにか人々の味覚に影響を及ぼすような環境要因の変化でもあるのだろうか?

【3月6日(木)】
▼クローニングについて、にわかにマスコミが騒ぎはじめたけれど、なにやら徒に邪悪なイメージを与えようとしているかのような取り上げかたには反発を感じる。バチカンが不快感を表明するのは、いまのところ当然かつ正当なことだが(これだって、ガリレオが草葉の陰でどう思うかは知らない)、クリントン大統領の対応を額面どおりに受け取ってはならないと思う。なぜなら、ことは国家の安全保障にも関わる問題であり、アメリカ大統領ともあろうものが、昨日や今日の思いつきでものを言っているとは思えないからだ。
 いずれ霊長類のクローニングが行なわれるだろうことは、自明だったはずである。ウランの核分裂で連鎖反応が引き起こせることを知りながら、まさか核兵器なんてものが出現するとは夢にも思わない政治家などいるわけがない。ましてや科学者であれば、一般相対論が出現した時点で――クローニングの場合なら、DNAの構造が解明された時点で――やがて時間の問題で直面するであろう事態を想像してみたことすらない者などいないだろう。もしいたら、そいつはただの科学技術職人であって、科学者じゃない。“未来予測”をする必要などまったくない、SF作家という人々ですら、その程度の想像はしてきた。
 今回の実験成果を耳にしたアメリカ合衆国大統領が、「おお、世の中には、そういう研究や技術があるのか。これはよい勉強をした。どえらいことであるな」などと、あわてて専門家に諮問しているのだとしたら、それではまるで日本である。そうとはとても思えないのだ。だって、そうでしょう? 優れた生得的形質を持つ学者や芸術家や兵士や運動選手を人為的に複製できる可能性すら考えられるのである。倫理コードのまったく異なる仮想敵国がそうした技術を実用化したらどうするのだ。これが安全保障と国威の掲揚に関わる問題でなくて、なんであろうか? 倫理的問題は倫理的問題として切り離し、別途、安全保障上の問題として研究していなかったはずがない――とおれは思うのだがどうか。
 クリントン大統領が実際に要請しているのは、あくまでモラトリアムであって、大統領としての倫理的判断を国民に示したわけではない。ここぞというタイミングを見計らって、すばやく世間の不安を代弁するような声明を出し、「さすが、大統領」と、多くはキリスト教徒の有権者の信頼を得るのが目的であろう。おれには、プラグマティストたらねばならぬ政治家の口から spirituality などという言葉が出ると、戦術的媚びにしか聞こえない。

【3月5日(水)】
▼以前この日記にも登場した巡回貸本屋だが、病気で長期入院するため休業するとの知らせが、昨夜本人の声で留守録に入っていた。今日の夕方電話してみると、退院後は仕事が続けられるかどうかわからないという。じつは、おれの爺さんであっても不思議はないくらいのご老体なのである。今の世に巡回貸本屋の後継ぎなどいるわけがない。入院前に配達する本は回収に行けないからもらってくれていいし、今月の会費は要らないとまで言うのだ。どうやら、余人が口を挟むような事態ではなくなっているらしい。口を挟もうにも、帰って来られないと思っているにちがいない、そして、事実そうなのかもしれない老人に向かって、「お疲れさま」とも「さようなら」とも言えたものではない。客として平静を装って、いつ再開するのかといったことを明日の天気の話でもするように訊き、最後に「お大事に」と電話を切る。これでいいのだ。

【3月4日(火)】
▼このところ読んでいた Steve Perry The Trinity Vector(Ace)を投げ出す。派手なドンパチとコケおどしのガチャ文が続くばかり。あとの半分で奇跡的に面白くなるのかもしれないが、おれはこういうのは苦手だ。各章の頭にいちいち名著の引用が入っているのも、おれの好みじゃない。西洋人って、妙にこういう書きかたする人多いよね。西洋人にかぎったことじゃないが、まるで自分が知っていることを全部ぶちこまなきゃならないと思っているかのような書きかたというのがある。誰曰く彼曰く、これに曰くあれに曰くというやつだ。伝統を踏まえるということと知識(の断片)をひけらかすということを混同している。要するに、品がない。いかにも品のある文体で書かれた品のない文章というのはあるものだ。
 もっとも、こういう小説を好む読者というのもいて、彼らが本を読んで言うことは決まっている――「ああ、ひとつ賢くなった」 そう、どうやら、彼らは賢くなるために小説を読んでいるらしいのだ。とんでもない了見ちがいである。この手の読者を騙すのはわけないにちがいない。賢くなったことがはっきりするようなディテールを、そこここにばらまいておけばよいのだ。そうしたサービスもたしかに必要ではあろうが、それが目的であるかのような小説は読む気にもならない。そんなものを読む時間があったら、これ見よがしに引用されている原典か学術書を読んだほうがずっといい。人生は短いのだ。

【3月3日(月)】
▼NECのリリースを読んでいて大笑い。高画質の42型ワイドプラズマテレビを発売したというのだが、商品名が「プラズマX」。どわははははははは。いやあ、NECもずいぶん洒落っ気が出てきたもんだ。ネーミングした人を愛してしまうな。『パタリロ!』の愛読者にちがいない。企画会議で冗談まじりに言ったところ、「おお、それはいい」なんてことになってどんどん話が進んでしまい、出典を説明する機会を逸したんだったりして……。まさか。
CNN Interactiveが報じるところによると、3月2日に打ち上げ25周年を数えた探査機パイオニア10号の動力は、すでに意味のある観測ができないほどに弱まっているのだという。しかも、96億kmの彼方から9時間15分かけて故郷に届くパイオニアの8ワットの声は、1兆分の1ワット以下に減衰してしまうのだそうだ。そろそろ引退というわけである。
 パイオニア10号には思い出がある。同年輩の科学少年はみなそうだろう。どの雑誌にも、異星の知的生命宛てのメッセージを記したあの金属板の絵が載っていたものだ。小学生のおれはわくわくした。いつの日か異星人があれを解読するであろう想像にもわくわくしたが、こんなマンガみたいなことを考えてほんとうに実行してしまう立派な大人がいるということに、いっそうわくわくしたのだ。こんなすごい国に日本はほんとうに竹槍で立ち向かったのかと、素直に呆れた。科学力もすごいが、それ以上に、関西弁で言う“アホ”な夢を諦めないところがすごい。
 日本SFの第一世代〜第二世代作家たちが、SFを蔑視や偏見なしに受け止めてくれるおれたちに向けて、その若い才能を子供雑誌に注いでくれていた時代でもあった。SFという言葉を意識せずとも、「ああ、あのとき読んだあれはSFだったのだ」と思い起こす同世代の人も多いことだろう。おれたちの世代は、科学にもSFにも、こういう洗礼を受けているのだ。
 むかしを懐かしんでばかりいては爺いの繰り言になるのでやめるが、その科学少年がブンガク青年になりSF中年になるまでのあいだも、パイオニア10号はずっと飛び続けていたのである。ご苦労さま、パイオニア10号! 太陽系を初めて脱出した人工物という栄誉は、永遠に君のものだ。
 いつの日か、異星人が君を回収するというのはなかなかいいシナリオだが、おれはもっと素敵な想像をしたりするのだよ。遠い未来、宇宙のどこかで、ほかならぬ地球人が、君と再びめぐり合うかもしれないのだ。そのころ、どういうものがSFと呼ばれているだろうね? それを想像すると、まだまだおれはわくわくするのだよ。

【3月2日(日)】
▼ふと思い出して、Yahoo! Japan に登録内容の変更依頼を出す。前から気になってはいたのだが、おれの肩書きが“評論家”になってるのだ。そんな大それたものになった憶えはない。それに、マスコミの世界ではちゃんとした職業だが、ふつうサラリーマンの世界で“評論家”といえば、犬以下の蔑称なのだ。サラリーマンの方はご存じだろうが、“自分の手を汚さず、他人のやったことにはごちゃごちゃ文句をつける輩”の意である。
 Yahoo!は、こちらが登録しようとするページをいちいちちゃんと見て、コメントを人間が編集し手入力するのが売りである。すごい労力だ。肩書きを考えてる暇などなかろうから、こっちが精一杯おこがましく“レヴュアー”と申請してるのに、「こいつはどうやらたまに雑誌にものを書いたりするらしく、麗々しくペンネームまでついてるから、評論家にしておけ」ということになったのだろう。あのねー、筒井康隆『俗物図鑑』じゃないんだから。まあ、俗物であることは否定しないけれども……。あそこで検索したら、“吐瀉物評論家”なんてのがほんとに出てきたりするんじゃないかと不安なので、まだ実験はしていない。いっそ、堺三保さんみたいに“おたく”という肩書きにでもしようか。いや、それもなんだかおこがましい。おれは“おたく”を名のるにはあまりに淡白である。堺さんの現在の肩書きはたしか“SFなんでも屋”だが、おれはあんなに藝達者でも博覧強記でもない。結局、“書評家”で手を打ったのだが、これもすげーおこがましい。一家をなすほどの藝風を以てして、初めて“家”と名のれるんだろうからなあ。英語の気楽さが羨ましくなる。少なくとも、言葉の上では達人とヒヨッコの区別がない。猫踏んじゃったしか弾けなくても pianist、ホロヴィッツでも中村紘子でも pianist である。
 以前、ファミリー・レストランの貼り紙に「ディッシュ・ウォッシャー募集」とあって目を剥いたことがある。皿洗いと言わんか、皿洗いと。待てよ。“皿洗い”というのは、“歌うたい”とか“もの書き”とかと同じで、自分で言うぶんにはいいが、他人が言っては失礼な表現なのだろうか。ううむ、日本語は難しい。
▼早川書房にレジュメを電子メール入稿。気に入った作品はつい売り込みたくなってレジュメが長くなってしまうのがおれの悪い癖である。海の向こうの見知らぬ作家を売り込んだところで、それがおれの得になるわけでもないのだが、まるで自分が書いたもののように肩入れしたくなる。いかんなあ。平常心、平常心。

【3月1日(土)】
▼暇なとき読もうと買ってきた『ファンダメンタル』(内田春菊、新潮文庫)をつい読みはじめたら面白くてやめられず、全部読んでしまう。月曜入稿予定のレジュメがあるというのに、なにが“暇なとき”だ。マンガというのは怖い。
 おれにとって内田春菊は、是が非でもフォローしようと心に決めているわけではないのに、いつのまにか本が増えてゆくというタイプの作家である。「新刊は金のあるときには買うことが多い作家」とか「文庫になったら必ず買う作家」とか「そのときほかにいいものがなければ安全牌として買う作家」とか、本好きな人は作家の扱いを自分なりにぼんやりと決めているものだ。けっして厳格な義務を自分に課しているわけではない。ところが本好きが昂じてくると、「この作家はとにかく読まなきゃ」といった義務感、使命感みたいなものが次第に纏わりつきはじめ、いつしか“一般人”の本との関わりかたを忘れてしまうのじゃないかと怖れることがある。「音楽は仕事にするもんじゃない。疲れを癒そうと聴く曲でも、気がつくと仕事の耳で聴いている」という話がある。本も同じかもしれない。あなたは、ふつーの人はどういう動機で本を買うものなのか、頭で分析しないとわからないということはありませんか? それが実感としてわからなくなったら、本というものを見る目が歪んできているのだ。多くの人にとって、本とは本であって、それ以上でもそれ以下でもない。にわかに信じ難いことではあるが、本がなくても生きていける人は大多数らしい。おれが文字を読みはじめるまで、わが家には電話帳以外の本はなかったのである。初めて自分の意志で買ってもらった本は、『鉄人28号』の絵本だった。三つ子の魂なんとやら。
 閑話休題(って、全部閑話なのだが)。そういう意味で、ある作家の本が“いつのまにか増えてゆく”というのは、おれの理想とする本との関わりかたである。内田春菊作品のような自然体でつきあえる存在は、おれにとっては大切なものなのだ。


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