間歇日記

世界Aの始末書


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97年3月下旬

【3月31日(月)】
▼明日つくための嘘をいろいろ考えるも、なかなかエレガントな傑作が生まれない。おれは根が善良で正直なものだから、こうした舶来の風習にはなかなか馴染むことができないのだ。みなさんに注意しておきますが、明日一日は、ホームページやメーリングリストで得た情報はくれぐれも真に受けてはいけない。なにしろ、インターネットは、エイプリル・フールのためにあるような媒体である。英国王室ホームページのように実現してしまった嘘もあるが、たいてい嘘は嘘のままだ。だが、ちょっと考えると、普段インターネットで得ている情報が嘘でないという保証はどこにもなく、個人で発信している情報など、むしろ嘘である可能性はどちらかと言えば高い。“空っぽの洞窟”どころか、嘘だらけの媒体であることは肝に命じておかねばならないだろう。それでもおれはインターネットを使い、その多くの情報をとりあえず利用する。嘘だらけということは、それだけ実社会を忠実に反映しているということの証左であり、その点ではインターネットは信頼できるからだ。あれあれ?

【3月30日(日)】
▼今日は特別な日である。新谷のり子の『フランシーヌの場合』が正しく歌える日なのだ。だからどうしたと言われると困るのだが、朝から気がつくと歌っている。さんがーつ、さんじゅうにちのぉ――。
▼期末はなにかと忙しい。裾直しを頼んであったスーツを取りにゆく。行きのバスでどこかの中学校の野球部の一団と乗り合わせ、えらい目に会った。うるさいのなんの、本なんか読めたもんじゃない。ぼろぼろこぼしながら飲み食いはするわ、いつ息継ぎしているのかわからんほど喋るわ、バスは貸し切り状態である。運動部が礼儀正しいなどというのは嘘っぱちだ。先輩に対してだけは礼儀正しいのであろう。関わりのない外部に対しては掌を返したように無礼に振る舞うやつはサラリーマンにもたくさんいるから、偉そうなことは言えないが。

【3月29日(土)】
▼夕飯のあと、バウムクーヘンを食って、さらにわらび餅を食う。いかん。今日計ってみたら、体重が60キロを切りそうなのだ。

【3月28日(金)】
周防正行監督の『Shall we ダンス?』をテレビで観る。もうテレビ放映とは、早いなあ。知らずしらずのうちに、ダンスをSFに置き換えて観ている自分に気がつき苦笑する。がむしゃらに生きてきて、ほっとひと息ついた中年男が、ある日ふとSFが読みたくなり……なんてことは、まず起こりそうにないか。欧米では四十代〜五十代でデビューする作家だって珍しくないんだけどなあ。
 おれが思うに、日本では大人のための文化がマーケットとして成立しにくい風土がある。なぜなら、この国では、多くの大人にはほんとうの意味での趣味がないからだ。大人が「趣味です」とアンケートに書いたりするようなものは、よくよく見ると、多くは単なる仕事の延長だったりする。「あんた、ほんとうに心の底からゴルフを愛してやっているか?」と訊いてやりたいことはよくある。その結果、強力な購買力はお子様に集中し、経済が十代のお子様を中心に動いてゆく。その部分が過剰に拡大され、あたかも全文化状況を代表するかのように見えてしまう。音楽なんかその最たる分野だ。もちろん、それはまやかしにすぎないのだが、じゃあ、大人の世界に強力な文化的購買動機があるかというと、そこはすぽんと抜けているのである。たしかに、社交ダンスにかぎらず、写真にも油絵にも俳句にもちぎり絵にもドライフラワーにも折り紙にも模型にもなんだのかんだのにも、それぞれに映画にできるくらいの豊かな独自の世界があるのだろう。が、それぞれのパイがあまりに小さすぎ、新規参入してもペイしないのだ。要するに、趣味がない人が多すぎるとしか考えようがない。
『Shall we ダンス?』で役所広司が演じた四十代あたりのサラリーマンの多くは、“若いころの趣味というのは就職とともに卒業するもの”と思って育ってきている。ましてや、やってみたこともないものに四十代になってから手を染めるなどというのは、なぜか“恥ずかしいこと”と思われているようなのだ。おれたち三十代には不思議としか思えない感覚だ。好きなことを“卒業する”必要などまったくないし、やりたいことがあれば、すぐにでもやればいいではないか。「そうしていいんだよ」ということを、おじさん・おばさん層に面と向かって言ってみたのが『Shall we ダンス?』だろう。この映画があれだけ支持されたというのは、やりたいことがなくて困っている世代の心の空隙をピタリと突いたからなのだろう。おれには、主人公のサラリーマンは、ただあたりまえのことをしているようにしか見えないのだ。おそらく、周防監督にもそう見えているだろう。そして、ただあたりまえのことをしているおれたちを、自分はなにをしたいのかもわからない人々が、“おたく”という一語で括って安心しようとするのである。役所広司のサラリーマンが二十代だったとしたら、単に“社交ダンスおたく”と呼ばれているにちがいない。
 趣味なんてものは、一朝一夕にできるものではない。苦労するのが楽しいのが趣味であるからだ。趣味を仕事にしている、あるいは、仕事を趣味にしている幸福かつ不幸な人々は別として、人口の大多数を占める勤め人がほんとうの趣味を持たないかぎり、日本の文化はお子様文化に支配され続けるだろう。なぜなら、文化をビジネスにしているプロたちは、コスト意識というものがあるから、食うためにはお子様を相手にせざるを得ないからだ。それ自体は、志が低いなどと非難されるべきことではない。志で飯は食えない。むしろ、大人の消費者が「おれたち大人はこういうのが欲しいのだ」と、提供者に対して声を挙げてゆかねばならない。「最近の○○はお子様向けばかりで」というのは、なんの世界でもよく聞く台詞だが、それはお子様が悪いのではない。自分たちがなにが欲しいのかも表現できない大人の消費者が不甲斐ないだけの話である。
 もっとも、おれはいまさらおじさん・おばさんたちには期待しない。むこう十年のあいだに、心の底からの購買動機を持つ“おたく”たちが、提供者側でも消費者側でも日本経済を救ってゆくだろう。作るばかり売るばかりで、なにも欲しがる能力のない人間など、資本主義社会には不要なのだ。成熟した資本主義では、消費者にも修行が要るのである。「いちいち、あられを一個一個包装するんじぇねえ。ただ袋に詰めただけのやつをよこせ」とか「曲がってたってキュウリはキュウリじゃ、そっちが安いならおれに売れ」とか「大人向けのデザインのたまごっちを作れ」とか「日本のバカSFが読みてえ」とか「いや、堀晃の情報サイボーグを読ませろ」とか「駄作でもいいからディックの残りものを出せ」とか「小松左京が本屋にないのはけしからん」とか「ダグラス・アダムズがないのはどういうわけだ」とか「首に縄をつけてでも水見稜に書かせろ」とか、どんどん公の場所で発言してゆけばよい。企業だって伊達にホームページを出しているわけではない(伊達に出しているところもあるが)。電話では言いにくいことでも、どんどんメールを出せばよい。なにが欲しいのかも詳らかにせず、提供されているものに文句をつけるだけ、与えられるものを口を開けて待っているだけというのでは、消費者失格である。

【3月26日(水)】
▼会社の帰りに駅からタクシーに乗った。某京阪電車というのは、某駅に於いて某京阪バスとの時間合わせがむちゃくちゃで、運が悪いと三十分以上待たねばならなくなっているのだ。ふつうは歩いて帰るのだが、体調が悪く疲れていたため、腹立ちと自律神経失調でむかむかしながらタクシーを拾った。家までは初乗り金額程度だが、おれの一回の昼飯代より高い。安い本なら一冊買える。むかむかむか。家のそばまで来て、タクシーが最後の数メートルを進んだとき、メーターが630円から710円に変わった。おれはキレそうになった。以前にも同じような状況下で、710円取られたことがあったのだ。一度某京阪バスを蹴飛ばしてやらねば気がすまない。ところが、今日のタクシーの運転手氏は、千円札を出したおれに、黙って370円のおつりをくれた。気持ちがいい。男は黙って370円だ。なんでも、前に別の運転手に聞いた話では、ここらを流すタクシーの運転手は某京阪バスの悪口を客からさんざん聞かされているのだそうだ。もしも某京阪バスの関係者でこれを読んで気になる方がいたら、メールをください。どの駅か教えて差し上げますから。
▼“京都人”というのは妙な言葉である。京都府に住んでいる人全般を指してもよさそうなものなのだが、なぜか京都市内の、しかも中央のほうの、由緒正しい京都弁を駆使する人々をのみ指すかのようなニュアンスがある。おれは“京都人”という言葉で、いつも京都府民全般を指しているつもりなのだが、こっちがいくらそのつもりでも、たまに人と話が合わないこともある。綾部市民や亀岡市民は断じて“京都人”ではないかのように思っている人というのはいるのだ。おれは自分が住んでいる京都市に愛着はあるが、仮に京都市が壊滅したとしても、綾部市民や亀岡市民を“京都人”と呼び続けるだろう。彼らだって、外国人の友人には、“I live in Kyoto.”と、なにがしかの誇りを伴って言うはずであり、博多弁に比べればあきらかに京都弁としか言えない言葉を喋っている。自分たちを京都人だと意識している人が生き続け、彼らを京都人と呼び続ける人たちがいるかぎり、京都市なんて行政区画はなくなったっていっこうに差し支えない。
 え、なんの話かって? SFの話に決まってますがな。

【3月25日(火)】
▼本屋でSFマガジンを捜すも見つからない。あっ。そうだ。今月は一日出るのが遅れると塩澤編集長がおっしゃってたのを思い出す。
 で、話は突然変わるが、「おっしゃる」なんて言葉を最近あまり耳にしなくなった。おれも含めて使う人は使うのだが、圧倒的に「言われる」に取って代わられつつあるようだ。「召し上がる」「ご覧になる」となると、もっと旗色が悪い。「食べられる」「見られる」に駆逐されるのも時間の問題かもしれぬ。となると、いわゆる“ら抜き言葉”が大嫌いなおれは、はなはだ困る。いや、すでに困っているのだ。おれが可能の意味で言っているのに、尊敬と取られるのではあるまいかと気になってしかたがない。まあ、最大公約数的関西弁であれば、「言わはる」「食べはる」「見はる・見やはる」と言ってしまえばいいので実害はないが、標準語で喋ったり書いたりするときには悩んでしまう。こればっかりは世の趨勢であって、いくら少数派が“こっちが正しい”と言い張ろうが、相手に通じなくては文字どおり話にならない。「古臭い言葉遣いをする人だなあ」と思われるのはかまわないけれど、意味を誤解されてしまうとなると、場合によっては相手に合わせてゆかざるを得ない。
 そういえば、先日から読んでる Catherine Asaro Catch the Lightning(Tor, 1996)に、こんなのが出てきた――

    "I'm sorry, but I don't know to whom you refer."
    Whom? I didn't know people existed who actually used that word.

 前者は未来からやってきた兵士。体内に埋め込まれたコンピュータの支援で現代の少女と英語で会話しているわけである。「すまんが、誰(たれ)のことを言ってるのかわからないのだ」とでも、ルビ付きで訳すしかないか(笑)。後者の少女のほうは、「こんな言葉を使う人間がほんとうにいたんだわ」と、えらくたまげている。たしかに、whom なんて言葉が現代の日常会話で使われているのをおれも聞いたことがないし、見たこともない。公式文書で正確を期す必要がある場合は、まだかなり使われてはいるが。いや、笑いますけどね、おれが中学・高校生のころは、上記のサイボーグ兵士の台詞みたいなのもマジで習ったもんだし、中学生のマイクだかジェーンだかの台詞として英作文の答案に書いても丸をもらえたはずだ。おれが先生だったらバツつけるけどね。誰が喋ってるのか意識してない作文なんてのがあるものか。先生にならなくてよかった。
 ひょっとして、おれの“ら入り言葉”も、現代の若者には奇妙な言葉遣いだと思われているのかもしれない。えーえー、どうせあたしゃサイボーグ兵士ですよ。必然性がないかぎり、“ら抜き”は死んでも使わんぞ。レベルは雲泥の差だが、最近おれは丸谷才一の気持ちがものすごくわかってきた。

【3月24日(月)】
▼自分のホームページを見ながら、かう考へた。智に働けば――じゃない、つまり、タイトルページを見ただけでは、たまたま来た人にはなんのページやらわからんのではないか、と。ひょっとしてトンボやカエルで検索した人とか、“A Ray of Hope”などというタイトルをかんちがいした宗教関係の人とかが、ひょっこりアクセスしてくれないともかぎらない。やはりここは、もう少しSF筋のページだとわかりやすくしておこう――というわけで、ちょっとトップページを変えてみた。
 SFファンでも、『世界Aの報告書』(B・W・オールディス、1968)なんてのがたちまちわかる人は、かなり濃い人だと思う。サンリオ文庫だからなあ。ヌーボー・ロマン風の実験小説で、はっきり言って、翻訳が出たとき(1984)には、すでに主流文学としても完全に時代遅れだった。いま思えば、こいつをクロス・メディアで実践したのが『朝のガスパール』(筒井康隆)だと言えないこともないが、ちょっとこじつけが過ぎるかな。まあ、古本屋で発見なさったら、買っておかれるとよいと思う。当時360円のサンリオ本がいくらになっているか、想像するだに怖ろしいものがあるが。

【3月23日(日)】
▼「写ルンです」のナツメロこじつけシリーズCM、好きだなあ。ついつい「次はどうしてくれよう」と自分で考えているのに気づく。むかしの「ボキャブラ天国」みたいなもんだものな、あれって。それにしても、沢口靖子はいい味出してる。やっぱり、あの顔は根っからの東宝怪獣映画顔だ。似合って当然。「あずさ2号」のポンコツなデザインもいい。エヴァンゲリオンっぽい出撃(?)シーンも笑える。

【3月22日(土)】
養老孟司『身体の文学史』(新潮社)をついつい読みはじめたら、これが面白くてやめられない。ほかの読書が止まってしまった。あーあ。
▼おれは焼酎&バーボン党なのだが、発作的にスコッチが飲みたくなり買ってしまう。人とわいわいやりながら飲むのも悪くはないが、やっぱり酒はひとりでゆっくり飲むのがいちばんだ。量こそ飲まないが、おれは根っからの酒好きにちがいない。酒の味そのものが好きだし、さらに“酔う”という薬理効果が身体や脳に現われるのが面白いのである。中島らもによれば、こういうやつはアル中の素質が十分にあるのだそうだ。金と暇と体力が十分にあれば、おれはきっとアル中になるだろう。もっとも、その心配は死ぬまでなさそうだが。


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