間歇日記

世界Aの始末書


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97年4月下旬

【4月30日(水)】
▼散髪に行ったら、3,700円だった料金がいきなり4,000円に値上がりしていた。いままであまり値上げをしない店だっただけに、店の兄ちゃんもすまなさそうにしている。髪が伸びるのも5パーセント遅くなればいいのに。
『邪眼鳥』(筒井康隆、新潮社)を読みはじめる。掲載誌を買ったくせに、結局、読まないうちに単行本が出てしまった。どうして雑誌というのはついつい積読になってしまうのだろう。
▼書評コーナーを軽くするために、ホームページの工事をする。まだ量が少ないうちに多くを収録できるインタフェースにしておかないと、あとがやっかいだ。明日あたりには建て増しできるだろう。容れもの作るのもたいへんだが、そろそろ中身も更新しなくては。

【4月29日(火)】
▼あっ、なんてことだ。が〜ん。風呂上がりに体重を測ってみたら、59キロしかないではないか。せっかく60キロを超えたのに、また転落してしまった。やはり連休が悪いのだろう。会社にいれば昼飯を食う時間というのが決まっているから食い忘れたりすることはないのだが、家にいるとどうしても忘れることがある。「あっ、よく考えたら朝飯を食ってないが、まあ、もうすぐ昼だからいいか」とか、「しまった。昼飯も食い忘れたが、すぐに晩飯だからいいか」とか、どうもものぐさになっていけない。さすがに晩飯を食い忘れることはない。拒食症というわけではなく、食欲が湧くときには狂ったようにものが食いたくなる。肉食獣的だ。そもそも朝昼晩と三度の飯を食うという習慣はあくまで文化的なものである。なにも仕事のように律義に三度の飯を食わずとも、食いたくなったときに食いたいものを適当に食えばよいではないか。というわけで、今夜はうす焼き煎餅を食いながら黒ビールでも飲むことにしよう。もう一度60キロを目指すのだ。
▼サダム・フセインが自分のクローンを作りたがっているとか。影武者にするらしいのだが、クローンの成長加速技術を同時に開発せんと役に立たんぞ。それにしても、あの顔が次から次へと何人も出てきたら、まさにスーパーマリオ・ブラザーズだ。

【4月28日(月)】
▼SFスキャナーに思ったより手がかかってしまい、朝9時ころ入稿。なぜ手がかかったかというと、まあそれはその、SFマガジン・6月号のクズSF論争の続きを読んで、スキャナーの場を利用したくなったからである。べつに正面きって意見を述べたわけではなく、日本ではあり得ないにちがいない位置づけの作家を取り上げてみただけ。クズSF論争が勃発する前からやるつもりだったのだが、時期的にちょうどよかったかも。
▼ほっとひと息ついて、今日は“なかった日”((C)めるへんめーかー)にすることに決める。うだうだと過ごし、夕食後、友人にもらった筒井康隆のビデオを観ているうち寝てしまう。『最高級有機質肥料』の舞台、全体としてはいまいちだったが、糞便のおいしさをこれでもかこれでもかと描写するミトラヴァルナ星人役の俳優は、嬉々としてやっているように見えた。あれは気持ちよさそうだ。あの役なら、おれもやってみたい。ファミリー・レストランかどこかで、大声で台詞の練習をしてやったら痛快にちがいない(張り倒されるだろうけども)。

【4月27日(日)】
▼最近、日曜日は『こどものおもちゃ』で目覚めることにしている(ここいらでは、KBS京都がネットしております。毎週日曜・12:00〜12:30)。篠原ともえのテーマソングと、あの異様なテンポのよさは寝呆けた頭をはっきりさせるのにちょうどよい。いやしかし、こいつは面白いなあ。存在は知っていたけれども、真面目に観はじめたのは最近なのだ。『きんぎょ注意報!』にこのくらいのテンポがあればよかったのに(おれ、あれ好きなのだ)。“こどちゃ”と同じスタッフで、『マカロニほうれん荘』をアニメ化してくれないかな。
 なんでこんなに面白いのかと、今日は襟を正して観てみたら、「おや、アニメを観ている感じじゃないな、これは……」と、おれの細胞が囁いた。これだけよく動きよく喋るのに、おれの脳はこれをアニメと認知していないらしいのだ。そうだ。こいつは“印刷媒体のマンガを速読しているあの感じ”にきわめて近い。要するに『こどものおもちゃ』は、テレビ画面を使って読むマンガなのではないか。高速紙芝居と言ってもよい。べつにどうということのない設定とストーリーだけど、おれの脳が無意識に“新しい見せられかた”に反応している。これが麻薬的に心地よいわけだ。こういう手もあったんだなあ。
▼SFスキャナーの原稿を仕上げにかかる。月曜朝までには入稿しよう。

【4月26日(土)】
▼ひさびさに「朝まで生テレビ!」を観る。「激論!ペルー事件の教訓とニッポン!」というタイトルだ。例によって、それぞれの立場でいろいろな論が出て、いろいろ考えさせられた――というのじゃ小学生の作文だが、あまりにも目についたのが、鈴木宗男・自民党衆議院議員の阿呆さ加減である。この男、ただ声がでかいだけで、論理はむちゃくちゃ、まともな日本語のセンテンスも組み立てられず、ただただ自民党への忠誠心と橋本首相への心酔をものに憑かれたようにがなり立てるだけ。“アホの坂田”に似ているというハンディキャップを差し引いて考えても、その発言の幼児性は、視聴者をして坂田利夫氏のほうがよほど国政を預けるに相応しい人品の持ち主だと思わしめるに十分であった。今回の事件で日本が実質的に“子供扱い”されたように、鈴木議員のみが番組の中ですっかり子供扱いされており、そういうカリカチュアを効果として狙った人選だとしたら、テレビ朝日もなかなか大したものだ。効果抜群である。このおやじ、それにも気づかず、ひたすら公共の電波を用いて自民党の恥さらしを続けるばかり。観ていてこちらが赤面してしまい、自民党がだんだん気の毒になってきた。彼の選挙区に住んでいなくて、ほんとうによかったと思う。おれが票を入れたと思われたら、迷惑なことおびただしい。ただ熱心にやっているというポーズを大声で押し出しさえすれば、なんとなく有能であるかに見えるという心理的効果はたしかにあり、この男はそれだけを利用して衆議院にまでたどり着いたのだなと、ひたすら納得した。こういう人物は団地の自治会の世話役かなにかにはけっこうありがたいのだが、国政に携わる器ではない。こんな激動の時代に、熱心なだけで政治をされては困るのである。熱心でなくてもいいから、有能であってほしい。熱心で有能なら言うことないけれども。

【4月25日(金)】
▼会社帰りの電車に中学生らしき男の子が乗ってくる。見ると、マーカーで線を引いた英語の参考書に色のついたアクリル版のようなものを当てがって、一心不乱に勉強している。マークした部分が見えなくなって、穴あき問題ができるおなじみの仕掛けだ。いつごろからか、あんな板がマーカーとセットで売ってたりするんだよな。おれが学生のころには、ああいう仕掛けはみな知っていたが、商品として出回ってはいなかったように思う。うちが田舎だっただけなのかな。
 勉強熱心な中高生諸君には水を注すようだが、中学・高校レベルの英語は、そんなふうに見えなくしてクイズにしてしまうよりも、全文憶えちまったほうがいいよ。せいぜいひと息かふた息程度で読めるセンテンスだ。穴あきクイズ形式の最大の欠点は、穴が埋まった途端にわかったような気になってしまい、文章そのものを理解しようとしなくなることである。おれもいろんなやりかたを試してみたうえで陳腐なことを言うのだが、結局、近道というのはない。きわめて効果的だと経験的に確信している方法を強いて挙げれば、意味をしっかり把握した基本的文章を、バカのように何度も音読することだけである。日本語で考えてはならない。“I love you.”なんてのを、いちいち「私はあなたを愛しています」などと頭の中で日本語にして、「おお、そういう意味か」などとはじめて納得するなんて人はもはやあまりいないはずだ。教科書の文章程度は、すべてこのレベルになるまで脳に叩き込む。意味を把握するまでは、いろいろ辞書を引いてもかまわないが、一度理解したら、とにかく英語が英語のままで納得されるようになるまで、ひたすら音読する。“語学”だなんて言葉をよく使うが、外国語の練習そのものはちっとも“学”なんかじゃない。水泳や楽器の練習とまったく同じだ。中学・高校くらいのうちにこれを徹底的にやっておけば、あとの人生楽しいよ。なにしろ、洋書を読んだり映画を観たりしているだけで、辞書なんか引かなくてもみるみる語彙が増えてくるのだ。「はてな、おれ、こんな言葉どこで憶えたんだろう? なぜだか意味がわかっている」とか「おれはこの事柄をどこかで聞いたか読んだかしたが、はて、日本語で仕入れたか英語で仕入れたか記憶にない」とかいった体験が必ずどこかでやってくる。そいつが来ればしめたもんだ。インターネットなんて宝の山になる(クズの山でもあるけども)。
 なんだか英語の先生じみてきたが、「どうやったら英語のSF読めるようになるんですか」なんてことを訊いてきたりする人もたまにいるので、ついでにも少し続けよう。そりゃあなた、もう、わからない言葉はわからないままで頭をフル回転させ、宙ぶらりんのまま読み続けるだけですよ。0か1をはっきりさせないと気がすまない人は、この宙ぶらりんの状態に精神的に耐えられないらしく、たいてい外国語が苦手みたいだ。「0でも1でもないとしたら、0.73なのか? 0.29なのか?」と言われたって困る。その言葉はまだ頭の中では、「0でもあるし1でもある」という、量子力学的状態(笑)にあるのだ。で、どんどん読んでゆけばいろんな手がかりが得られて、そのうちそいつはかなり狭い意味の範囲にまで収束してくる。が、専門用語でもないかぎり、その言葉がカバーする意味の境界線はずっとファジーなままである。それでいいのだ。母国語だってそうじゃないか。
 具体例を挙げよう。あなたはがんばって英語のSFを読んでいる。ほほー、そうか、このジャックなる人物はジルという女性がどうも苦手らしい。おや、ジャックはジルとの会合を procrastinate しようとしているぞ。なんだろう、これは? まあ、よかろう、先に進もう――と、20ページほど読んでいると――あれれ、ジルとの会合は15日だったはずだが、ジャックの工作によって18日になってしまっているぞ。ははあ、さては、先ほどの procrastinate というのは、なんかしらんが厭なことを先に延ばすといったような意味であるのかもしれないと推察されるぞ――てな調子で、ひたすら推理と想像力と語感のみに頼って読んでゆく。そんなこんなで100冊も読むころには、 procrastinate やら postpone やら prolong やら put off やらの、どうしても重ならない部分や、相互に代替可能な重なり合いや、えも言われぬ響きのちがいなんかが、ポラロイド写真がじわじわと浮き上がってくるかのようにかなりわかってくるという寸法である。いかがだろうか、中高生諸君。しんどいかもしれないが、ちっとも難しくなんかない。
 こうして英語でSFが読めるようになったからといって、それはただ英語でSFが読めるようになっただけのことである。まちがっても、翻訳家になれるなどと思ってはいけない。英語の書物の翻訳家が英語が読めるのはあたりまえのことであって、それはただスタートラインに立っているだけだ。翻訳家のよしあしは、ひとえに日本語の表現能力で決まるのだ。まあ、おれは翻訳家じゃないから体験に基いた説得力のある話はできないので、ここから先の話は、翻訳家志望の中高生諸君、大森先生や古沢先生に訊いてみよう!

【4月24日(木)】
▼今日はたしか筒井康隆『邪眼鳥』(新潮社)が出る予定だったはずだが、会社のそばの本屋にはまだ入っていなかったので、ちょうど目についた『ホーキングとペンローズが語る時空の本質 ブラックホールから量子宇宙論へ』(スティーヴン・ホーキング/ロジャー・ペンローズ、林一訳、早川書房)というやたら長いタイトルの本を買う。帰りの電車で読みはじめたら、これがやたら難しい。ケンブリッジ大学アイザック・ニュートン数理科学研究所が主催したプログラムの講義録なのだから、易しいわけがない。二次方程式の解の公式で停まっているおれの文科系頭脳では、数式にはさっぱりついてゆけない。とはいえ、おれも一応SF読みのはしくれであるから、この二人がなにを問題にしているかのおぼろげな予備知識はある。「はあ、そうですか」と、すっかり受け身状態でアウトラインを辿ってゆくくらいなら、なんとかできそうだ。こういうネタはいかにもバクスターあたりが料理しそうであり、目ぐらい通しておかずばなるまい。一介のサラリーマンであるおれが時空の本質とやらに思いを馳せたところで給料の一円も上がるわけではない。こういうわけのわからない努力を強いるところにSFが敬遠される一因があるのだろうか? でも、一文にもならんことを考えるのって、時間をとてつもなく贅沢に使っているような気がして、なんだか気味がよい。仕事に役立てるつもり(??)で小説を読んでいると思しきおじさんがたまにいたりするのだが、ああいうのはおれの美意識に照らすと、ものすごく意地汚く思えてならない。仕事に役立てようというのなら、小説なんて役に立たないものじゃなく、パソコン雑誌でも読んでさっさと使えるようになればいいのに。

【4月23日(水)】
▼毎年思うんだけども、今日はシェイクスピアの死んだ日、セルバンテスも死んだ日、で、なによりあのサン・ジョルディの日という奇ッ怪な日である。
 最初のころは、ヴァレンタインデーの柳の下の鰌という感じで、「好きな人、大切な人に本を贈りましょう」といった宣伝を盛んにしていたものだが、さすがに最近そういうことを声高には言わなくなったようだ。チョコレートを食うのにさしたる時間も努力も要らないが、愛情の表現として本なぞもらったら読まないわけにはいかず、それがくそ面白くもなかったとしたら最悪である。
 帰り道にだしぬけに現れた女性が、「前からあなたのこと好きだったんです」などと頬を染めながら『存在と時間』を押しつけて走り去ったら、その場に茫然と立ちすくむであろう。それが『リルケ詩集』であった場合、薄気味悪くなって投げ捨ててしまうやもしれぬ。『パラサイト・イヴ』だったら、まあ持って帰っても困りはしない。『SFバカ本』であったら、追いかけて行ってお茶くらいには誘うかもしれない。『故郷から10000光年』だったら、そのままホテルへでも――それはともかく、本なんてものは、それそのものに意味がありすぎて、愛情表現のツールにはなり得ないであろう。だいたい、贈るほうの身になってもはなはだ困る。たぶん例によって、『アルジャーノンに花束を』でお茶を濁し、早川書房さんに喜んでいただくことになるにちがいない。『アインシュタイン交点』をプレゼントしようと考えるやつは、まあ、おらんでしょう。いずれにせよ、チョコレートみたいなわけにはいかないのである。
▼それにしても、MRTAの連中、人を4か月も監禁しておいて、サッカーしてるんじゃねーよ。「真面目にやらんか」とヘンテコな義憤(?)を感じてしまった。まあ、あんな状況でも娯楽がないと生きていけないのが人間の哀しい性なのでありましょう。あのテロリストたちが日本人だったとしたら、やっぱり相撲をはじめたのであろうか。なにはともあれ、犠牲が少なくてよかったことだ。

【4月22日(火)】
▼ちょっと前から話題になっていたが、ジーン・ロッデンベリーやティモシー・リアリーほか22名分の遺灰を載せたロケットが、今日放たれたそうだ(飛行機で高空まで持ち上げて……というのは、やっぱり“打ち上げた”とは言わないよね)。宇宙葬ってのは、SFファンにとってはなかなかロマンのあるものだが、はっきり言って、資源の無駄という気もしないでもない。今回だって、スペイン製観測衛星を軌道に乗せるというちゃんとしたミッションがメインのロケットだから、いわば“ついでに葬式をした”のである。今後宇宙葬を望む人がどんどん増えてくれば、葬式だけを目的にしたロケットだって打ち上げられるようになることだろう。なんだかなあ。
 おれのイメージでは、宇宙葬なるものは、宇宙で死んだ人間をまるごとカプセルかなにかに入れて放擲するというところにロマンがあるわけで、地上で死んだ人間の、それも灰だけをわざわざ膨大なエネルギーを消費して周回軌道に乗せるというのは、どうもいただけない。他人の葬式にケチをつけるわけじゃないが、おれはここまで大層なのはごめんだな。宗教色がないという点では、たいへん好ましいのだが。そういえば、手塚治虫の『火の鳥・未来編』では、猿田博士が自分の遺体を周回軌道に打ち上げていたっけ。「いつの日かあなたは復活するでしょう」とかなんとか、火の鳥が猿田博士の遺体に言っていたけれど、ついにその話は描かれないままになってしまった。
 リアリーは宇宙葬を希望していたらしいが、結局、葬式ってのは、生きている人が気持ちの整理をつけるためにやる儀式であって、どんなに凝った演出をしようが本人は絶対にそれを楽しむことはできないのだ。葬式に於いて最も疎外されているのは、死んだ本人である。自分の葬式のことを考えると、なんだかくやしい。敬虔な無神論者(不可知論者)のおれであるから、宗教色は出してほしくない。といっても、おれがいま死んだら、葬式のときだけ仏教徒に早変わりする母親が喪主をやるだろうから、おれの希望が通るわけがない。まあ、日本では仏式の葬式をやったところで、「あ、故人は仏教徒だったのか」と思う人はまずいないから、無宗教の葬式とさして変わるところはない。妥協することにしよう。戒名は短く「蜻蛉居士」とでもしてもらえば、金であの世の地位とやらを販売している寺にボラれることもなかろう。もし、おれの葬式に参列してくださる方がいらしたら、くれぐれもおれは仏教徒だったなどと誤解してくださらぬよう。身内が理解してくれるのであれば、おれの死骸なんぞ、一寸刻み五分だめし、使えるところはすべて使っていただいて、残った屑はそこらに捨て置くのも不衛生だから、アンデス山中にでも投げ棄ててコンドルに啄ばませてくれればよい(なんだか、このほうが金がかかりそうだな)。なんなら、食ってもらったってかまわない。首から下はろくに食うところもなかろうが、人一倍喋りたがり書きたがりのやつだから、ブロカ中枢やらウェルニッケ野やらといったあたりは、けっこううまいんじゃないかと思う。わさび醤油なんか合いそうだ。いや、胡麻ダレか酢味噌もいいな。あとの肉塊は適当に緑色のビスケットにでも加工して、飢餓に苦しむ地域に送ってもらえれば、SFファン冥利に尽きるというものだ。

【4月21日(月)】
▼夜中に無性に腹が減り、マルちゃんのワンタンを作って食っているとき、ふとかねてからの疑問を思い出した。突然だが、キスというやつは、本能的な行動なのだろうか、文化的な行動なのだろうか? たしかにそういうシチュエーションに置かれたとき、相手の唇に自分の唇を押しつけて舌など絡めてみたいという衝動が襲ってくることは事実であるが、あの衝動は、腹が減ったからなにか食いたいという衝動に類するものか、面白いSFが読みたいという衝動に近いのか、どっちだろう? あのような考えようによってはひどく非衛生的な行為が愛情表現の一形態であり得るという知識をまったく欠いていた場合、人間はキスをするものであろうか? 白状すると、最近ご無沙汰ではあるが、おれはいつも頭の隅でそういう不謹慎なことを考えながらやっている。幼いころ無人島に置き去りにされた男女が、やがて成長し――などという定番の映画を観るたび、いつも思うのが「ほんとにこいつらできるのか?」ということである。本能がぶっ壊れているホモ・サピエンスのことであるから、ひょっとしたら、全然やりかたがわからず、爺婆になるまでおままごとをし続けるのではあるまいか。こればかりは実験というやつができないので、いっそう科学が進んでも、案外大きな謎として残るんじゃないかな。


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