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97年5月中旬 |
【5月19日(月)】
▼十年前の今日、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアが自殺した。もう十年なのだ。ティプトリーというのは、ディックと並んで、おれの頭の中では別格の引き出しに入っている。ディックはまだナマの自我をぽろぽろこぼして、ときに叩きつけていた部分があるが、ティプトリーの徹底した自己相対化ときたら寒気がするほどである。それがゆえに、凍りつくほどにせつない。氷の刃で己が胸を切り裂き、滴り落ちる熱い血潮が冷えてゆくのをじっと凝視めているようなせつなさだ――などと、ちょっとセンチになってみる今日なのであった。
▼おっと、コマーシャルを忘れていた。SFオンライン(5月18日号)は絶賛公開中。SFセミナーのオープニングで行なわれたクイズが、完全WEB対応になっているのには驚いた。好きだなあ、スタッフも。われと思わん方は、クイズに挑戦しよう。特集は、先月に引き続き、『スター・ウォーズ』である。
率直なところ、おれ自身は『スター・ウォーズ』に対してそれほど熱烈な想いはない。もちろん立派なSFだし、とにかく面白い。しかし、あれはおれを決定的に惹きつけたSFの魅力とはちがう。遊園地の乗りものに例えれば、『スター・ウォーズ』はジェット・コースターだ。絶叫マシーンだ。あれが面白くない人は、人間として先天的になにかが欠けているとすら思う(ほんものの絶叫マシーンはおれは苦手なのだが)。
一方、おれがより惹かれるSFの魅力というのは、同じ遊園地にある地味な“ビックリ・ハウス”のそれなのである。ビックリ・ハウスったって、最近あまり見かけないから若い人は知らないかもしれないので、一応説明しておく。小屋に入ると貧相な家財道具が具わったバスの待合室のようなドラム状の空間があり、壁や天上にも家財道具の絵が描かれている。家の居間を模してあるわけだ。その怪しげな空間で、客は長椅子にかけて待つ。やがて、客を乗せた床はゆっくりと左右に揺れはじめる。それがどうしたとお思いになるだろう。ところが、家財道具の描かれた壁や天上は床とはまったく独立した大きな振動をはじめるため、客は床がでんぐり返りそうな錯覚に襲われて、立っているのはおろか、椅子に座っていることすらできなくなるのである。リアクションのいい人など、きゃあきゃあ叫びながらへなへなと床にへたり込んでしまうくらいのすさまじい錯覚だ。自分が乗っている床は、ただ鞦韆(ぶらんこ)のようにゆっくり左右に揺れているだけだと頭では理解しながらも、どうしても恐怖に抗うことができない。そのめくるめく不思議な感覚は、体験したものにしかわからないだろう。ジェット・コースターの面白さと重なる部分もあるが、やはりちがった面白さである。
ひとつ確かなのは、ジェット・コースターにせよビックリ・ハウスにせよ、目を開けていたほうが絶対に面白いということだ。
【5月18日(日)】
▼最近、ありがたいことにちょくちょくファンレターをいただく。先日いただいたメールは、鈍感なおれにもすぐファンレターだとわかる配慮がなされており(なにしろ「ファンレターです」というサブジェクトだったのだ)、「間歇日記、毎日楽しみにしてます」と書かれてあった。だが、待てよ。よくよく考えてみると、考えなくてもそうなのだが、毎日楽しみにしていただいたのではちっとも間歇日記ではないではないか。看板に偽りありである。最初に日記のタイトルをつけるとき、おそらく毎日は書けないだろうと思ってこういう名にしたものの、気がつくとほとんど毎日書いている。おれの生涯でこれほどまめに日記をつけたことはかつてなかった。これだ。これが日記を続ける秘訣にちがいない。日記は、人に見せるために書けば、けっこう続くのだ。なんか矛盾してるような気もするが。
そういえば、同人誌に海外SFレヴューを書いていたときも、とても毎号載せられまいと思い“不定期連載”ということにしてもらいながら、蓋を開けてみると毎号書いていた時期があった。しまいには“不不定期連載”などと、わけのわからないタイトルをつけられてしまったものである。まあ、間歇日記だの不定期連載だのということにしておくと、精神的に楽だ。面白いので、あえてタイトルは変えないでおこう。
【5月17日(土)】
▼頭が疲れているときには他愛のない時代劇を観る。『遠山の金さんVS女ねずみ』(テレビ朝日系)をぼーっと観ていると、松方弘樹の金さんが、「賽は投げられた」などと言うので驚く。いくらなんでも時代考証がむちゃくちゃではあるまいか。遠山の金さんがジュリアス・シーザーの存在を知っていたとは思えない。ことによると長崎帰りのインテリに聞いたかなにかしたのかもしれないが、これは単に脚本家の不注意であろう。あるいは、この脚本家は一枚上手で、江戸時代にも同様の日本語表現が存在したことを文献で確認して書いたのかもしれぬ。賽ころが存在したのだから、あり得ないことではない。「すでにことがはじまって引き返せぬ状況」を指す表現として「賽は投げられた」という言い回しが江戸時代に存在したかどうか、ご存じの方は、ぜひご教示いただきたい。あー、ちっとも頭の休憩にならんな。
そういえば、同じようなことを思い出した。元宇宙飛行士のバズ・オルドリンとジョン・バーンズが共著で出したSFに Encounter with Tiber (Warner, 1996)というのがある。この中で、恒星間宇宙船で地球にやってくる途中のエイリアンが、「しょせん言葉の上だけのことだ」「机上の空論だ」という意味で、“Words, words, words.”という台詞を吐く。むろんこれはハムレットの台詞だが、さすがシェイクスピアはエイリアンにも知られているのかと思うのはまだ早い。このエイリアンが地球に向かって飛んでいるのは、紀元前七十三世紀の出来事なのである。おいおい。
“Words, words, words.”という台詞を、ハムレットは必ずしも机上の空論という意味で発してはいない。頻繁に引用されているうちに、そういう用法があとから日常英語として定着したのだ。よって、原典を知らずにこの台詞を使っているネイティヴ・スピーカーも少なくないと思われる。これだからシェイクスピアとマザーグースと聖書は怖いのだ。知らないこと自体は怖くない。調べればいい。怖いのは、それと知らずに使ってしまうことなのである。常套句というのは、まったくもって怖ろしい。ビシリと決まればかっこいいが、生半可な知識で使うととんだ恥を晒す。油断しているとつるつるつるっと出てきてしまうので、あまり調子よく書けてしまった文章は“常套句病”に陥っていないかチェックすることにしている。己のオリジナルの表現で勝負できれば、それに越したことはないのだ。
しかし、オルドリンならともかく、バーンズがハムレットの最も有名なフレーズのひとつを知らないとは考えにくい。上記のエイリアンの台詞は、エイリアンの文献を現代英語に翻訳したと考えてもよい部分に出てくるのはたしかで、百歩譲って意図的なものだとしても、やっぱり遠山の金さんがシーザーの台詞を吐くくらいには気色が悪い。この作品、プルーフで読ませてもらったので、ひょっとしたら市販本では当該箇所にチェックが入っているかもしれませんけどね。
【5月16日(金)】
▼『ヴィクトリア朝の性と結婚』(度会好一著、中公新書)を読みはじめる。現代日本人にも笑えないエピソードが盛りだくさんでなかなか面白い。概して、人間社会に於いてなにかが過剰に抑圧されると、もの哀しいばかりの怪現象が噴出するものである。カンブリア爆発のようだ。逆に、社会現象の影になにかの抑圧を捜してみるというのも、思考の柔軟体操にいいかもしれない。
【5月15日(木)】
▼昨日その存在可能性を云々した水玉螢之丞自画像フィギュアであるが、さっそくご本人からメールでご教示があった。“ドーブツバージョン”のほうは実在するのだそうである。人間バージョンの出現が待たれる。こんなこと言ってると、すぐ“1:1”とか出たりするんだよなあ。
▼風呂に入っていると、突如、戸外からウルトラマンの雄叫びが聞こえてきて仰天する。なにごとかと耳をすましていると、もう一度。どこかのオヤジが、くしゃみをしていたのだった。団地というのは音が建物に乱反射して残響を曳くうえ、風呂の中だとさらにエコーがかかるのだ。それにしてもそっくりだった。
▼十代のころはアイドルタレントなどを仮想の性的対象として見ている。これが二十代になると多少の客観的審美眼が入ってくるが、まだ性的対象として見てはいる。さらに三十代になると、「女は三十すぎなきゃだめだね」などと心底思いはじめる――いや、じつは、さっきたまたまテレビで広末涼子を観て愕然としたのだ。「こんな子が娘だったらいいかもしれんなあ」と反射的に思ってしまったのだった。おれはおじさんになってしまったのだろうか。それとも、偏に彼女のキャラクターによるものなのであろうか。考えてみれば、おれが高校を出てすぐ結婚してすぐ子供を持っていたとしたら、あれくらいの娘になっていてもおかしくはないのである。ううーむ。ま、とにかく、同年輩の高木美保には頑張ってほしい。
それにしても、援助交際とかやってるオヤジは、自分の娘くらいのいかにも頭の弱そうな子とつきあって、ほんとうに面白いのだろうか。そりゃまあ、いろいろ気持ちいいことはあるのかもしれないが、精神的には孤独感が弥増すんじゃあるまいか。あれはじつは援助してもらっているのはオヤジのほうなのであるから、それに気づけばますます寂しくなると思うのだが……。
【5月14日(水)】
▼おれの最近のお気に入り、Catherine Asaro の資料を、山岸真さんが送ってくださった。写真を見ると、けっして飛び切りの美人ではないが、ファニーフェースの可愛いおばさんである。いたずらっぽい大きな目が、若いころのベティ・デイヴィスにちょっと似ている。カメラマン次第では、すごく美人に写り得る顔だ。著書にも近影を載せればいいのに。べつにあんなもの、同じ写真を二十年くらい使ってたって誰も文句言わないんだし、若いうちの顔で売ってしまったほうがいい。
作品第一であることは言うまでもないけれど、やっぱり作家も人気商売にはちがいなく、読者としては著者の顔が見たいと思うのが人情である。川上弘美や柳美里を著者近影で買った人は、じつはけっこう多いと思うぞ。まあ、あまりにも人相の悪い作家だと、「顔が怖いから買うのやめた」などということもないとは言えないが、ミステリやホラーなら「この顔で書いたら怖そうだ」となるやもしれず、著者近影の効果は一概に評価できない。その点マンガ家というのは便利で、デフォルメした自画像をキャラクターとして浸透させる戦法が取れる。水玉さんのフィギュアとかあったら(あるかもなあ)、買ってしまいそうだ。いっそトマス・ピンチョンみたいに隠遁する手もあるが、日本でこれをやるのはほぼ不可能。謎の作家として話題になったが最後、次の週には薬局でコンドーム買ってる姿が写真週刊誌に載るだろう。
じつは、おれの写真はSFマガジンに載ったことがある。もちろん、スキャナーに書くようになる前の話だ。この日記を続けて読んでくださっている論理的な方は、こう推理するにちがいない――冬樹は京都に住んでいる。出不精であるとのことだ。近年までファンダムに縁がなかったらしい。一般人の写真がたくさん載るのは、日本SF大会レポートだろう。すると、DAICON6がいちばん怪しい――ご明察。あそこに虫のような写真が出ているのだが、どれかは教えないもんね。
【5月13日(火)】
▼トップページのカウンタが、ようやく10000を突破。実用的な内容などなにもないページであるにも関わらず、これほどSF話やバカ話につきあってくださる方がいらっしゃるとは、まことにありがたいことである。これを機に世のため人のため万人の役に立つページにしてゆこう――などという気はまったくなく、より一層、手前の都合で好き勝手を書き散らしてゆこうと決意を新たにしている。ホームページというのは、つまるところ最も元手のかからない同人誌、あるいは商業的なものなら雑誌なのであって、この時代、総合雑誌ほど面白くないものはないからだ。ひとりで作ってるんだから、雑誌で悪けりゃ“純誌”((C)筒井康隆「カメロイド文部省」)と呼んでもよい。いろんな方が面白がってくださったり賛同してくださったりするのはもちろん嬉しいのだが、おれの書いたものを読んで不愉快に思う人もまたいてくれなければ、人前で発言する意味などないのである。人様に金を使わせて読んでもらうのだから、なにがしかの快なり不快なりを持って帰っていただかなくては申しわけない。
というわけで、これからも万人に愛されるページなど糞食らえという心構えで、おれにしか作れないページを目指してまいりますので、よろしくおつきあいください。
【5月12日(月)】
▼会社から帰ると、今日もひたすら原稿書き。つまらん日記だなあ。そのぶん原稿を面白くしなくては。
▼おお、ついにコンピュータがチェス王に勝ったか。まあ、一応記念すべき快挙ではあるが、どのみちソフト作ったのは人間だしね。やはり、自発的に棋譜を学習しては新手を考案し、どんどんと強くなってゆくようなものが出てこないと、まだまだコンピュータが勝ったなどとは言えない。敗れたチェス王はおれと同い年だが、年齢不詳のおれに比べてずいぶんと老けて見える。頭使うと老化が激しいんだろうな。わははははははは、はは。
【5月11日(日)】
▼ひたすら原稿書き。土日で目鼻をつけておかないと、平日は細切れにしか(下手すると、まったく)仕事ができないのが二足草鞋のしんどいところだ。堺三保編集者殿、いま少しお待ちを。
▼あらら、可愛かずみが自殺しちゃったのか。飾らないそこいらのふつーのねーちゃんという感じで、おれはけっこう好きだったのだが。関西ローカルの番組にも一時はよく出ていて、清水圭との掛け合いなんかはなかなか面白かった。自殺したと聞いたとき、「あんなに明るい人が……」と思っちゃったのだから、テレビってのは怖いよね。
彼女は早すぎた飯島愛だったのかもしれない。
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