間歇日記

世界Aの始末書


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97年5月下旬

【5月31日(土)】
▼またもやスナック菓子の話である。かっぱえびせんの「青じそ風味」というのが出ていたので、さっそく試してみた。さっぱりしてなかなかいける。マヨネーズ味ほどの傑作だとは思われない。それにしても、最近やたらいろいろなかっぱえびせんが出る。老舗のカルビーとしても、珍奇な新参者のスナック菓子に負けまいと研鑚をしているのがよくわかる。元祖の基本形式を頑固に守り抜いたスタンダードかっぱえびせんもいいが、さらなるワイルドな試みをしてスナック菓子ファンを楽しませてほしいものである。
 うちの母がたまに菓子を買ってくることがあるが、かっぱえびせんもスタンダード版、ポテトチップスもスタンダード版、じつに保守的なのである。スーパーにもコンビニにも、あれだけさまざまな菓子が並んでいるというのに、二十年前以上からあるような菓子ばかり買ってくる。で、自分では滅多に食わないのだ。おれが食ったり、たまに遊びに来る妹一家が食ったりする。母に言わせると、「いろいろあってわからへんから、自分で食べたことあるやつを買うてくる」ということになる。定番ブランドは安売りをしていることが多いというのも一因だ。同じ金を使うなら“当たりはずれ”のあるものには手を出さず、まずまず味が保証されているものを買ってしまうというのは、決して裕福ではないわが家の家風である。おれの新しもの好きは、その家風に反動形成されたものだ。してみると、不況のときには、なんによらず中身を味わってみないとわからないものは、“安全牌”的製品がよく売れるのではなかろうか。むろん、それも一過性のことにすぎないのだろうが……。

【5月30日(金)】
▼会社の帰りに、曾根崎の旭屋書店と阪急梅田の紀伊國屋書店をはしごする。洋書を日本で買うと高くつくが、ものによってはアメリカの書店に注文するよりも早く入手できるため、チェックはしておかねばならない。紀伊國屋はSFの新刊に関してはろくなものがないのが常だが、気まぐれにいいものが入っていることもある。今日はどちらにもおれの食指が動くような本はなかった。紀伊國屋で洋書のバーゲンをやっていたので、持っていても損はないだろうという程度のものを5冊ほど見繕って買う。先日日記で触れたオルドリン&バーンズの Encounter with Tiber (Warner Books, 1996)のペーパーバック版が、なぜかバーゲンのほうに紛れ込んでいて、ちゃんと500円の値札が貼ってある。同じものが旭屋では新刊の値段で売られていたのだ。表紙がちょっとだけ破れていたから、安売りしたのだろう。まあ、この作品ならこれで十分である。
 Prozac and Other Psychiatric Drugs (Pocket Books, 1996)なんてのがあって、参考書として便利そうだから買ってしまう。アメリカで入手できる脳内薬品や向精神薬の特徴を一般向けに整理した本である。日本で認可されていないものでもアンダーグラウンドではけっこう入ってきているようで、インターネット上でもそういう薬を売っているやばいサイトを見かけたりする。おっと、おれは法を犯してまではヤってないよ。神経系の持病があるため医者に処方してもらったりすることがあり、無関心ではいられないのだ。それにSSRIなどは日本にもやがて入ってくるから、いずれ濫用が社会問題化するに決まっている。人格を意図的にコントロールできる薬品の存在は、それ自体が自分の意識のありかたに意識的に手を加えるという自己言及的な構造を持っており、現代小説のガジェットとしては非常に興味深いものだ。日本のSFにもそのうち出てくるだろう。趣味と実益を兼ねた500円はお得かもしれない。
 旭屋では『古書狩り』(横田順彌、ジャストシステム)『吉行淳之介 心に残る言葉 三七六のアフォリズム』(遠藤知子、ネスコ/文藝春秋)を買う。前者はどのみち買うつもりだったが、後者は完全な衝動買いである。この手のアフォリズム集というのは、はなはだ小賢しい感じがして、ふつうならまず買うことなどない。ふと、吉行淳之介の光るフレーズを読み返してみたくなったのだ。ぱらぱらと拾い読みしてみると、ぼんやり記憶にある断片がほとんどである。
 じつはおれは吉行淳之介にトチ狂っていた時代があって、高校から大学にかけてのころなど絨毯爆撃のように繰り返し読んでいた。初めて吉行淳之介を読んだのは中学校の国語の教科書に出ていた「童謡」だった。概しておれは、国語の教科書が好きではなかったが、病弱な子供だったせいか、この作品が妙に心に残った。やがてほかの作品を読みはじめると、気味が悪いほどによくわかる。おれは夢中になった。いま思えば、おれの文学的感受性が優れていたのではなく、単に吉行淳之介がうまいだけの話なのだが、そのころはほんとうに「自分の居場所があった」という思いだったのである。その後、坂口安吾日野啓三ディックティプトリーにハマったりしたときも、吉行淳之介の感覚に通じるものを感じ(話が逆で、安吾の精神が吉行にも連なっているのだが)、不思議な感慨を覚えた。結局、人は自分の生理に合う作家・作品を呼び寄せてしまうものらしい。超科学的なことは好まないおれだが、本選びに関してだけは、じつは自分の無意識の声を最優先している。理屈で切り刻むのはそのあとである。

【5月29日(木)】
▼なになに、Speed2 - Cruise Control では、5万トンの豪華客船が止まらなくなるんだって? じゃあ、『スピード3』のネタはもう読めたも同然だ。バサード・エンジンの恒星船が止まらなくなるにちがいない。サンドラ・ブロックは、レオノーラ・クリスティーネ号のリンドグレン副長だな。

【5月28日(水)】
▼須磨の小学生殺害事件が気になり、ついついテレビのニュースのはしごをしてしまう。警察が“情報”を求めているというのに、自分の推理(?)とやらを話すためにわざわざ電話してくるやつが多いというのには、開いた口が塞がらない。今回の犯人は、大胆不敵なパフォーマンスからも、相当自我の肥大したやつであることは想像に難くない。自分を天才犯罪者かなにかと思い込み、警察にかまってほしくてしかたがないが、自分が捕まるという想定は最初から頭の中にはないのだろう。なぜなら、警察は“こういう設定の話”では無能なものだと相場が決まっているからだ。そう犯人が思い込むのは勝手だが、彼(ら)あるいは彼女(ら)の虚構に、こちらがつきあってやる必要があるものか。自分の推理を警察に“教えてやろう”と電話したりする阿呆は、警察は無能であるという前提でそういうことをするわけで、最初から犯人の掌の上で踊らされている、つまり、犯人と虚構世界を共有してしまっているのだ。これだから虚構に耐性のないやつは困る。あのなあ、報道でしか情報を得られない凡人のあんたらが考えつくようなことを、あんたらよりはるかに多くの情報を手にしている優秀な日本の警察が考えつかんとでも思っているのか? あんたらは、隅の老人か、ヴァン・ドゥーゼン教授か、ネロ・ウルフか? ただでさえ忙しい警察の手を煩わせるんじゃないわい。探偵ごっこは友だち同士でやれ。こういう輩は、自我が肥大しているという点では犯人と五十歩百歩で、時と場合によっては、容易に犯人にもなり得るやつにちがいない。
 もちろん、それが“推理”ではなく“事実”であるなら、どんなに些細なことでも通報すべきであるのは言うまでもない。

【5月27日(火)】
▼一度聴いたが最後なかなか耳から離れず、頭の中で永久ループを続ける曲というのがときたま出現する。駅でぼーっと看板など見るともなしに見ていると、いつのまにか頭の中で鳴っている。冷やした茶を飲もうと冷蔵庫の扉を開けるとき、気がつくと口ずさんでいる。風呂上がりにタオルで股間など拭っていると、知らずしらずおちんちんでリズムを取っている――そういう曲を、おれは“メビウス・ミュージック”と呼んで怖れている。本を読んでいる最中にまで、だしぬけに思い出してしまい集中力を削がれるからだ。あたかもコンピュータ・ウィルスのようである。最近、ひさびさに感染した。「おどるポンポコリン」以来のことだ。篠原ともえの「ウルトラリラックス」である。あ、いかん、また思い出してしまった。ひいいい。
 それにしても、あんな歌よく唄えるよな。いや、褒めているのだ。声量、滑舌、リズム感ともに優れていなくては、とても唄える歌ではない。あの色気の片鱗も感じさせない奇ッ怪なキャラクターの娘は、気息奄々で早口言葉のような歌詞をなぞるのが精一杯の華原朋美などより、よほど優れた歌手なのではあるまいか。
▼NIFTY-Serve の誹謗中傷事件訴訟に判決が出た。結局、通信事業法よりも人格権を優先したわけだが、誹謗中傷と正当な批判との区別をいかにつけるかという、現場の運営面ではきわめて難しい問題を通信事業者とその業務を委託される者とに改めて突きつけたことになる。個人的な楽しみか怨恨かで誹謗中傷だ誹謗中傷だと騒ぎ立てる阿呆をどう捌くか、通信事業者の哲学とシスオペの手腕が問われるところである。
 個別事例としての今回の判決は、これでよかっただろうと思う。おれもあの会議室は事件前にはけっこう覗いていたころがあって、ほかならぬ原告の方とも何度かチャットでお話したことがある。会議室での書き込みからも、真摯な姿勢のフェミニストという印象を持った(ご本人は自身については“ふぇみにすと”という表記をなさるようだが)。その後次第に時間がなくなってきて覗かなくなってしまい、おれ自身は誹謗中傷事件そのものを目撃はしていないが、マスコミ報道の中傷発言から察するに、この事件は単にパソコン通信に於ける名誉毀損という側面だけに留まるものではなかろうと思っている。フェミニズムにも千差万別の思想があって、同じ名前で括るのも難しいものがあるが(まるで“SF”のようだ)、とりあえずフェミニストと見ると十把一絡に蛇蠍の如く嫌悪する輩がおるのは事実である。そういう輩にかぎって、“女々しく”ヒステリックに振る舞い、“男の風上にも置けない”人品の卑しさを露呈することが多いのは、じつに皮肉な現象と言える。
▼おれがもし英語の先生になっていたら――
「先生、ここんとこの as far as I'm concerned って、どう訳せばいいでしょう?」
「そうだな。“オレ的には”((C)水玉螢之丞)がよかろう」

【5月26日(月)】
▼締切間際にいつもあわてるので、今月こそSFオンラインの原稿を早めに仕上げてしまおうと、さっそくSFマガジンを読みはじめるも、小説には手がつかず「てれぽーと」欄や論争ばかり熟読してしまう。これでは本末転倒ではないか。
 それはともかく、今月は大原まり子氏と喜多哲士氏が、おれも思っていることをほとんど言葉にしてくれたので気持ちがいい。巽孝之氏の文章は、書いてある言語は理解できるが、おれの関心事からどんどん離れてゆくのであまり共感できない。梅原克文氏はあいかわらずである。この人の“原理主義”とやらは、主張そのものはたいへんわかりやすく心情的に共感できる部分も多いのだが、如何せん、肩に力が入りすぎて未消化な論やら法則やらを展開するからどんどん眉唾になってゆくのだ。以前にもここに書いたように、“私の創作に於ける心構え”として発表するのであれば、それもひとつの私的な創作論として立派に通る。彼の言っていることは簡単だ。思想界に於ける西部邁と同じことを言っているのである。だから、説得力は雲泥の差だけれども、言いたいことはわかるし、けっして全面的には与しないが、おれにも共感できるものを持っている。だが、他人を説得するための論としては、もう少し詰めてほしい。
「元祖が生んだ基本形式を頑固に守り抜いた」「短歌、俳句、ミステリー、ハードボイルド、冒険小説」は繁栄しており、だから元祖の基本形式の固持は文化が繁栄するための一般法則だと彼は言う。ならば、現時点での梅原理論(?)を失効させるのは、ひとことですむ。「じゃあ、演劇は?」と言えばいいのだ。ついでに、「じゃあ、マンガは?」と言ってもよい。梅原氏は一般法則化を焦るあまりに、ふたつの事実を故意に無視している。ひとつは、あたかもそこに動かぬ杭が一本立っているかのような意味で彼が安易に用いる“元祖”という言葉が、どの分野に於いてもじつはきわめてファジーなものにすぎないこと。もうひとつは、彼が挙げる文藝分野はもとより、絵画・音楽・演劇・思想・科学・経済・政治・宗教等々々の人間のあらゆる文化活動・社会活動が、常に相互交配・作用・反作用を繰り返して、その形を造り、保ち、変化させ続けてきたことである。梅原氏はきっと、五十音順じゃなく分野別に分かれている百科事典を使ってきたのだろう(じつは、おれの家にあるのもそうだ)。言わずもがなのことだが、人間の文化は分野別百科事典じゃない。豊かなインターテクスチュアリティーに編まれた、表紙も裏表紙もないハイパーテキストなのだ。梅原克文氏には、先日のSFセミナーにも参加していただいて、ぜひ横田順彌氏のお話を聴いてもらいたかったものである。
 あーあ、みんな腹の中で思っていて面倒くさいので言わないのだろうことを、とうとう言っちまったなあ。おれはお人よしなのである。あたら才能ある作家が、つまらないプロパガンダの吹聴に労力を割いているのはもったいないと思うのだ。

【5月25日(日)】
▼どうも腹具合が悪く、出すものを出すと無性に腹が減る。で、たまらずなにか食うとまた出るという、シジフォスみたいな週末である。胃腸が弱いから(どこか強いところがあるのか)こんなことはしょっちゅうで、自分なりの治療法もある。ビオフェルミンとキューピー・ゴールドを貪り食い、少し症状が緩和されたところで酒を飲む。むちゃくちゃであるが、効くのだからしかたがない。酒が効くのだから、結局、心身症の一種なのかもしれないな。というわけで、いまから酒を飲もう。
▼それにしても、日曜洋画劇場はいったい何回『ザ・フライ2 二世誕生』をやったら気がすむのだろう。日曜洋画劇場だけで、もう三、四回は観ているような気がするぞ。86年の『ザ・フライ』は全然やらないのに。2がよほどテレビで好評なのか、単に淀川さんの好みなのか。ああいう因果応報ものって、淀川さん、けっこう好きそうだよね。おれもおれで、さすがに丁寧に観ている暇はないが、ついついBGM代わりに流してしまう。
 いやしかし、ジェフ・ゴールドブラムという人も、蠅と合体したり恐竜に追い回されたりパワーブックで異星人に立ち向かったり、つくづく忙しい人である。怪優という言葉がふさわしい独特の雰囲気とギョロ目がいいよね。ハリウッドの嶋田久作とでも言おうか(笑)。もし『羊たちの沈黙』をリメークすることがあったら、ゴールドブラムにドクター・レクターをやってほしいんだけどな。アンソニー・ホプキンズは大好きだけど、役者としてあまりにも正統的に巧すぎて、いかがわしさに欠けるのだ。

【5月24日(土)】
大原まり子『処女少女マンガ家の念力』(ハヤカワ文庫JA)を読了。十二年前にKADOKAWA NOVELSで出たものが、ようやくハヤカワ文庫で蘇った。おれはノベルズ版を買い損ねていて、そのうち古本屋で見つけたら買おうと思っているうち十ニ年経ってしまったのだ。いやあ、ギャグが懐かしいねえ。この本で新たにファンになった若い読者(にはわからんギャグが多すぎるよな)が『ハイブリッド・チャイルド』『吸血鬼エフェメラ』を読むかというと、たぶん読まんと思う。出してもらっておれはありがたいけど、結局コアな大原ファンが買う(買い直す)だけに留まるような気がする。
 あ、そういえば、おれはいつも“マンガ家”という表記を使うけど、これは自身“マンガ家”と表記していた手塚治虫のダンディズムに倣ってのことで、軽く見ているからでは決してないから、誤解なさらぬよう。むしろ敬意を込めて“マンガ家”と表記しているのだ。おれは、子供のころはマンガ家になりたかったのである。“漫画家”という字面のほうが高級に見えることはたしかだが、なんかちがうものを指しているようで気色が悪い。新聞の時事漫画を描いてる人みたいに感じるのだ。
▼夕食後、腹が減ったため、日清のSpa王(カルボナーラ)を食ってみる。スパ王は、発売されたころ試しにミートソースを食ったがあまりうまいと思わず、以来ご無沙汰だったのである。おお、カルボナーラはいける。これくらいのものを出してくる大衆食堂は少ないぞ。しかも、こっちは数分で調理できるのだ。Spa王もレベルが上がっていたのだなあ。しばらくほかのSpa王も食い比べてみなくてはなるまい。
 日清食品のえらいところは、インスタントでホンモノの味を出そうなどとはしていないところである。ホンモノには決して真似のできないインスタントのうまさを出しているのだ。長期保存が可能で簡単に調理できるよう加工した食材が、ホンモノの味と同じ土俵で勝負して勝てるわけがない。オーディオ機器は完全にそうしたコンセプトで設計されている。ミニコンポや携帯ステレオは、“音の出しかた”ではコンサートホールに最初からかなわない。しかし、“音の受け止められかた”のほうを研究した結果、ホンモノとはちがう土俵でホンモノに勝ったのだ。オーディオ機器は、すべてヴァーチャル・リアリティー機器なのである。日清食品は、インスタント食品もそうだということを早くから見抜いている。インスタント食品は“非ホンモノ”なのではなく、それ自体が別種のホンモノなのだ。おれの世代くらいだと、食いものによっては、ホンモノよりもインスタント食品の味が好きだという人も多いはずだ。ジャン・ボードリヤールが日本人だったら、きっとインスタント食品論を書いていたにちがいない。

【5月23日(金)】
▼最近話題になっている社団法人テレコムサービス協会事業者倫理研究会が先日発表した「電気通信事業における「公然性を有する通信」サービスに関するガイドライン(案)」と、サービス提供上の運用指針としての「運用マニュアル(案)」というやつに目を通してみたが、つまるところ「業界の利益を考えるとこのままではいかんような気がするが、じつのところどうしたものかわしらも困っているのだ」と言っているだけに読める。プロバイダの団体が自主規制のためのガイドラインを出したということには、パフォーマンスとして、また抑止力としての意義があるだろう。だが、これには、電気通信事業者、つまり単なる設備賃貸業者が、出版社や放送局としての義務と責任を負うべきか否かという問題を押しつけられ苦渋しているありさまが見て取れるのだ。
 多少なりとも出版や放送に関心を持つ者であれば、自主規制なるものが、ある意味で法規制以上にタチの悪いものだということはよくご存じのはずである。文化の一翼を担う自覚ある出版社や放送局であれば、法に触れぬかぎり、否、ときには法に触れてでも自己の覚悟と責任に於いて、公にする価値のある言論を流通させることになにがしかの矜持なり使命感なりがあるはずだ。が、その出版社や放送局にしてからが、偏にトラブルを避けようとするあまり過剰な自主規制をしてきた事実がある。プロバイダに出版社や放送局と同等の見識と覚悟を持てと言っても、それはないものねだりだし、また、おれはプロバイダはそこまでやる必要はないと考えている。
 このガイドラインはあくまでガイドラインにすぎないから、各々のプロバイダにはよほどしっかりとしたそれぞれの哲学を持ってもらわないと、出版や放送など目じゃないほどの臆病と事なかれ主義に取り憑かれることにならないか心配だ。「有害情報の流通が規制されるんだからいいじゃないか」などと能天気に喜んでいる人がいたとしたら、それはあまりに想像力を欠いている。そういう人は、自分が流している情報がどこかの誰かにとってはまぎれもない有害情報でありうる、いや、そうであるにちがいないなどとは夢にも思わない育ちのいい人なのであろう。ある日、あなたのホームページの一節が、チビクロサンボのように、手塚治虫のように、あるいは筒井康隆のように、原告適格も疑わしいごくごく少数の“善意の第三者”の“正義感”に基く“苦情”によって、プロバイダに取り締まられる(!)かもしれないのだ。あなた自身が大いに不当だと感じる苦情に対して、電気通信事業者にすぎないプロバイダが、あなたの言論の自由を守るため一緒に闘ってくれると信じることができるだろうか? 自分が被害者になる想像は誰でもする。しかし、加害者になる、あるいは、祭り上げられる可能性は、被害者になるのと変わらぬくらいあるのだ。通り魔事件の報道などを見ていればよくわかる。「ああ、被害者じゃなくてよかった」と思うのと同じくらい「ああ、加害者じゃなくてよかった」と想像してみるべきだろう。おれもあなたも、大久保清に永山則夫に宮崎勤になっていた可能性は十分あるだろう。あるいは、麻原彰晃に帰依していたかもしれない。
 とにもかくにも、この動きには注目しておかなくてはなるまい。

【5月22日(木)】
▼今月のSFオンラインの「蛍雪ジェダイ」コーナーにある妹尾ゆふ子さんの四コママンガ「STAR WARS が好きやねん」に、じつはおれが出演していることがあきらかになった。ご本人に訊いたところ、三コマめの不気味な眼鏡の男は、おれがモデルなのだそうである。たしかに、あの台詞のネタをチャットで提供したのはおれなのだった。もっとも、妹尾さんとはもう何年も会ってないせいか相当美化してくださっていて、実物よりはるかに上品な絵になっている。妹尾さんの美化手腕というのは、それはもう、ものすごいものがあって、かつて「Oh!PC」に載った風見潤氏の似顔絵など、キャプションがなければ誰だかわからないくらいである(失礼)。他人は美化して描いてくださるのだが、ご本人の自画像はいつもあの“うさぎ”なのだ。水玉さんには“人間バージョン”があるが、妹尾さんの人間版自画像は見たことがない。あのうさぎ自画像はじつに高度な自画像で、まったく似ていないのになぜか似ているのだ。表面上は似ていないのだが、ご本人の醸し出す“雰囲気”を具象化しているという点では、ほんとうにそっくりなのである。ぬいぐるみにしたら絶対売れると思うのだが。

【5月21日(水)】
▼最近、最寄り駅のホームにある回転式次発列車種別表示板(あれの正式名称はなんと言うのだ?)が、ずっと“調整中”である。「これは故障ではありませんからね。いえ、故障ではないのです。故障じゃないっ!」とでも言いたげに、“調整中”と大書した紙が貼りつけてあるのだ。いったい、いつごろからこういう便利な言葉を使うようになったのだろう。むかしは、壊れた機械には潔く“故障”という貼り紙がしてあったものだが、すっかり“調整中”が定着してしまった感がある。原発やら核再処理工場やらに“調整中”という貼り紙がしてあるブラックな絵が浮かんでしまった。
 ついでに言うと、同じ駅の壁広告スペースには、ずっと“意匠作製中”のところがあったりする。少なくともここ二年ばかりは意匠作製中であり、横尾忠則にでも発注しているのか、はたまた関西のことだからジミー大西か、いつの日かさぞや感動的な意匠が出現するにちがいないと毎朝見ている。が、どうやら構想二年、製作五年くらいの大作になりそうな気配がしてくるばかりだ。
 こういう言い換えには、いったいどのくらいの効果があるものなのであろうか。たいていの受け手は、ちゃんと「あ、故障だな」「あ、広告主がつかないな」と翻訳して読んでいるはずであるから、この手の表現は専ら送り手の負い目を軽減するためのものなのだろう。借金をローンと言ってみたり、陰毛をヘアと言ってみたり、少女売春を援助交際と言ってみたりするのと五十歩百歩だ。まあ、たしかに“○○中”とあれば、なにやら鋭意前向きに善処すべく対策が検討されつつあるかのような、かすかな希望が感じられないでもないが……。
 よし。ここはひとつ、おれも半永久的に“雌伏中”もしくは“充電中”ということにしておき、このホームページもトップに“製作中”とでも書いておこう――と思ったものの、アホらしいのでやめた。


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