間歇日記

世界Aの始末書


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97年6月上旬

【6月10日(火)】
▼危ない目に会った。朝、駅へ向かって歩いていると、うしろから警笛も鳴らさず猛スピードで走ってきたバイクに接触した。幅2メートルほどの道で、歩行者はほかにもいっぱいいるというのに、まったくなにを考えてやがるんだろう。右手に提げていた鞄と右手首に一瞬衝撃を感じ、後方から走ってきたバイクはおれの鞄を前方に跳ね飛ばそうとしたのだが、しっかり持っていたため鞄は落とさなかった。ライダーはと見ると中高生くらいのガキで、ヘルメットもかぶらず脱色した髪を振り乱して走り去って行った。ばかやろう。もし激しく接触して貴様のほうがバイクから落ちていたら、貴様のちっぽけな脳髄が飛び散って、ボーナス払いで買ったおれの背広が汚れるじゃないか。ヘルメットくらいかぶらんか。
 接触した当初はなんともなかったのだが、夜になって手首が少ししくしくと痛む。思ったより急激なGがかかっていたようだ。腫れはないから大したことはなかろう。なにしろおれは、会社でキーボードを叩き、裏仕事でもキーボードを叩き、趣味でもこうやってキーボードを叩き、なんだかんだで一日通算十時間くらいはキーボードを叩いている。脚を折ったとてさほど支障はないが、手は大事にせにゃならんのだ。
 それにしても、あのガキ、今度同じようなことをしやがったら許さん。ハードカバーの詰まったアタッシェケースをハンマー投げの要領で相対速度にして80km/時くらいで喉元に叩き込み、ケツから地面に激突させてやる。ぷんぷん。
 しかし、バイクに当てられたあとで「あ、書くネタができた」と思ったわが身の性を、呪うべきか、喜ぶべきか。

【6月9日(月)】
▼そろそろSFオンラインの原稿に本腰を入れねばと思いつつ、衝動買いした『日本特撮・幻想映画全集』(勁文社)を拾い読みしてしまう。こういう本は曲者だ。テレビの“懐かしの○○”と同じで、ちょっとだけのつもりが止まらなくなってしまう。『春爛漫狸祭』(1948年、観てねーよ)から『モスラ』(1996年、なんだか観る気起こらねーよ)までが載っていて、写真もふんだんに使ってある。3250円+税ならお得かも。あっ、『宇宙貨物船レムナント6』もあるぞ。観たいとは思っているのだが、まだ観る機会に恵まれないのだ。なになに、「特に、航行中の宇宙船の重力移動で、人が静止していても胸に下げているペンダントだけが動くといった細かい部分まで描写した、科学考証・SF設定担当の堺三保のこだわりが、作品をリアルなものにしている」とある。2046年の話で“宇宙船の重力移動”ってのはよくわからん解説だが、おそらく“速度変化”のことだろうな。船の速さか方向かが変わるシーンなのだろう。うーん、ますます観たくなってきたな。なにしろ、ペンダントと言えば、『さよならジュピター』の大きな瑕のひとつとして有名である(映画はともかくとして、おれは小説のほうはけっこう好きなのだが)。瑕になり得る部分というのは、当然、裏を返せばこだわりの見せどころともなるわけで、さすがは堺先生、確かな歴史認識に基づいたニクイ仕事をなさっている。まだ観てなくてすみませんね。
 余談だが、SFオンラインのおれ担当は、堺三保編集者である。いや、べつに他意はございません。ちゃんと締切までに入れますから。

【6月8日(日)】
▼“たまごっち福袋商法”とやらがあって、問題になっているそうである。たまごっちと人気のないほかの商品とを抱き合わせにした福袋を五千円とか一万円とかで売るらしいのだが、買ってゆく人は覚悟の上で買うのだろうから、自由市場制の下でなにがどう問題なのかわからない。あとで怒るんなら、そんなもの買わなければいいだけの話である。手前の欲得ずくでマルチ商法に引っかかり、あとで被害者面する阿呆を思わせるものがある。人を疑うことを知らぬ世間知らずの老人などには多少同情もしないことはないが、二十代や三十代であの手のものに引っかかるやつを見ると、こいつらほんとうに現代日本人かと呆れる気持ちが先に立つ。運動会の徒競走に順位をつけないとか、試験の成績優秀者を貼り出すと人権侵害だとか、くだらない似非平等主義教育をしているから、世間の人は善人ばかりだと思ってるようなボンクラどもが育つのだ。悪の存在を教えなくては、免疫もできないではないか。数学の先生がどういうわけか無理数の存在をひた隠しにしていたら、生徒はふだん買い物に使っている数が有理数であることすら知らずに卒業してゆくだろう。同様に、悪を知らない子供は正義も知らないということである。ましてや、悪と正義はじつは属性がそっくりの粒子/反粒子の関係にあることなど気づきもしないだろう。悪も正義もない世界に生きる者にあるのはただただ日常だけであって、そういう人々はフィクションや幻想の力に容易に振り回される。たまたま社会的に容認されているフィクションに捉まった場合は運がいいが、そうでないこともある。それが悪だと気づかぬままに悪を偶像化して、無邪気に行動に及ぶことすらあるだろう。

【6月7日(土)】
▼Spa王食べ比べシリーズである。今日は「たらこ」に挑戦。うまいことはうまいが、少しオイルが足りないような気がする。カルボナーラのうまさには遠く及ばない。おれがカルボナーラが好きだという点を差し引いても、イマイチの感は否めない。
 そもそもおれは、たいていのものはうまいうまいと言って食う。ちがいがわからないのではなく、許容範囲がめちゃめちゃに広いのだ。こんなやつの食いもの評は当てにならないのだが、おれがまずいと言ったものをうまいと言う人はまずいないから、その点だけは当てにしてもらっていい。うちの母やら妹やらが、よく「A社のカレーとB社のカレーとどっちがおいしい?」などとよく訊く。そのたびにおれは、「A社のカレーはA社なりの味がしておいしいし、B社のカレーはB社なりの味がしておいしい」と答える。こんなやりとりを二十数年来は続けているはずだが、いまだに彼女らは懲りずにおれにそのようなことを訊くのである。論理が通じていないようだ。彼女らは味の許容範囲が非常に狭く、自分に馴染みのないものは「まずい」のひとことで一蹴してしまう。うまくないものは、すなわち、まずいという論理なのである。おれの場合は、「うまい」と「まずい」のあいだにかなり広いスペクトルがあり、それゆえ彼女らとまったく話が通じないことも多い。多少まずいと思ったものでも、我慢強く二度、三度と食っているうちに、嗜虐的なうまさが出てきたり、ほんとうにうまく思えてきたりすることもあるというのに、彼女らはなんともったいない人生を送っていることかと身内ながら気の毒に思ってしまう。
 その代わりと言ってはなんだが、彼女らは非常に経済的なのである。なぜなら、彼女らは世間一般に高級食材・高級料理と言われているものが苦手だからだ。馴染みが薄いものは、彼女らにとっては「まずい」のである。おれはと言えば、「高価なものは高価なものなりにうまいし、庶民的なものは庶民的なものなりにうまい」などと思いながら、なんでもばくばく食う。要するに、この男はなんであろうが食うのだから、味などわからないのだと思われているにちがいない。はなはだ心外である。
▼『キューティー・ハニーF』(テレビ朝日系)が、突如“大きいお友だち”向けになって面食らう。レズまがいのシーンまであって、早くもセーラームーン化してきたようである。視聴率が落ちたのだろうか。あるいは、製作側の当初からの作戦かもしれぬ。おれはこのほうが嬉しいが、CMのおもちゃとのギャップが激しいのは面妖だ。まあ、せっかく全寮制の女子校というおいしい舞台設定があるのだから、それなりにそれなりのことをしたほうがかえって自然でよいかもしれない。ただ、むかしとちがって、今度のハニーは小さいお友だちにとっても女の子のアイドルなのだから、お色気度をアップするにしても、男性の幻想に媚びるよりも女性の性的幻想をターゲットにするのが今風というものだろう。女の子向けのお色気アニメとして妖しい飛躍を期待したい。だいたい、永井豪作品をやるのなら、親や先生に顰蹙を買うくらいでなくてはつまらない。「あなたの人生変わるわよ」ってのを一発ぶちかまして、だらだら続けず惜しまれて終わるというのがいいな。

【6月6日(金)】
▼あっ、ちくしょう、やられた。十数年来愛用しているパルコの御教訓カレンダーをめくったら、6月6日〜8日の“格言”は、田村淳一さんという方の作品「友達異常、恋人肥満。」だ。おれもトップページの「今月の言葉」用のストックとして、SFファン向けに「人間以上、恋人未満」というのを考えていたのに。まあ、どこかで誰かが必ず言っていそうなフレーズだから、採用は見合わせたかもしれないな。アホらしいことおびただしい「今月の言葉」コーナーであるが、あれが好きだという方もいて(西山ゆり子さん、ありがとう)、おれも老化防止のつもりでけっこう頭を絞っている。さっぱり意味がわからないなりにどことなくおかしい微妙なフレーズというのを目標にしており、無意識の混沌からひょいと浮上してきた狂気の端っこを日夜とっ捕まえては、たくさんメモしてある。こういうくだらないことをしている自分がとても可愛い(うふ)。その中から精選して(あれでもしてるのだ)月にひとつをお送りしているのだが、どう考えてもマニアックなものや不謹慎すぎるものは没にしている。もったいないので、ここに書けるものをちょっと発表しよう――「ブルー・はんぺん」「天ののらくろ」「ヴァーミリオンざんす」「宇宙の乳繰り人形」「いつか下戸になる日まで」
 ここを読んでくださってる方のうち、おそらく五十人くらいしか笑ってくれないだろうなあ。今年おれは、四捨五入して四十になる。

【6月5日(木)】
▼どひー、えらい目にあった。メールサーバが復旧したせいかどうか知らないが、サーバに溜まっていたメールが大挙して落ちてきた。うっかりAL-Mailを「受信したメールをサーバから削除しない」設定にしていたため、910通ものメールがどどどどとやってきたのだ。用心深すぎるのも考えものか。サーバにも負担をかけることであるし、みなさんも受信したメールはサーバから削除するようにしてあるか確認しておこう。
▼謎のメールがやってきた。サブジェクトには、「for your information」とだけ書いてあり、中身はURLが書いてあるだけである。そこに行ってみると、SFアートのサイトらしく、まだよく見ていないが、やたらに重い作りであった(おれのが軽すぎるのかもしれないけど)。このメール、よく見ると同報メールで、ブラインド指定でないために、ほかの人のアドレスも丸見えだ。知ったアドレスがいくつかあり、どうやらこのガイジンさんは、SF関係のページを作っている日本人に自分のページを見てほしいらしい。そうこうしていると、セミプロ作家の六高寺弦さんから、妙な同報メールが来たがそちらはもしかしてSF関係のページを作っておられまいかとのお問い合わせメールが届いた。いやあ、こういう方、好きだなあ。同じヘンなメールを受け取った人々がSF者らしいので連絡を取ってみようなんて、転んでもただは起きないというか、インターネットの活用法を心得ておられる。おれもパソ通含めてネット生活は長い。こういう妙な繋がりこそネットの醍醐味とばかりに、さっそくお返事を出した。六高寺さんのページは何度か拝見したことがあったけれど、面識はないしサイバースペースでお話したこともない(ひょっとしたら、NIFTY-Serveのどこかで遭遇しているのかもしれないが)。まこと、縁は異なものである。

【6月4日(水)】
▼昨日、急にメールの量が減ったなあと首を傾げていたら、案の定、京都iNETのメールサーバにトラブルがあったとのこと。6月3日の18:15から21:00までのあいだメールを受信できない状態だったそうで、その付近の時間帯にくださったメールは配送経路の途中で保留されているか、送信者に返送されてしまっているはずである。急ぎのメールを出したのに返事がないぞという方、アドレスが正しいのに出したメールが帰ってきてしまったぞという方は、お手数ですが再度送信してくださいますようお願いします。
「ハッカーとクラッカーはちがう」と憤激している人々のことが、しばしば話題に上るようになってきた。主張自体はまことにごもっともで、不断の啓蒙活動を続けていってほしいものである。が、世間を無知扱いしてはならない。マスコミが“ハッカー”“悪意を持って電子データの窃盗・改竄行為、もしくはシステムの破壊行為に及ぶ者”という意味で使うのは、不勉強であるケースもあるし、「多くの人にわからなくては意味がない」というプラグマティックなポリシーでやっている場合とがあるだろう。
 おれが思うに、この問題には三つの異なった側面がある。
 ひとつは、クラッカーはハッカーの真部分集合だというのは事実にちがいないから、広義にすべてをハッカーと呼んだとて、必ずしも完全な誤用とは言えない面があるということだ。例えば、縁なき衆生であるおれにとっては、宗教を信じている人は大きく“宗教者”というカテゴリーに入るのだが、この中にはオウム信者も入っているのである。オウム真理教徒の一部が“テロリスト”という別の集合との“交わり”に位置するからといって、彼らが宗教者であるということは一応の事実である(教祖だけが宗教者じゃないのかもしれないが)。どんな分野に於いても、思い入れと豊富な知識を持っている人の認識と世間の認識とのあいだにはズレがあって当然で、ほかの宗教者が「あんなのと一緒にするな」と主張してみたところで、少なくとも宗教に興味のない人にとっては、仏教だろうがキリスト教だろうがオウム真理教だろうがボコノン教だろうが、基本的に“同じようなもの”とカテゴライズされてもいたしかたない。マスコミというのは最大公約数を相手にするものだから(だからマスコミというのだ)、マスコミに細かいカテゴライズを求めるのは八百屋に魚を求めるようなものである。世間から二歩進んだマスコミなどというものはない。それではマスコミとして成立しないからだ。○・六歩くらい進んでいるからこそ、マス相手のメディアとして成り立つのだ。
 第二の問題は、そうしたマスコミの性質からすれば当然のことだが、アメリカのマスコミだって、いまだに多くは hacker を悪者の意味で使っている点である。あっちでも、それほど啓蒙が進んでいるわけじゃないのだ。「こういうのは、アメリカじゃ、みんなクラッカーって言ってるんだって」などという伝聞体で話す人はあまり信用してはいけない。自分で読めばわかる話ではないか。アメリカのマスコミにも簡単に触れることのできるご時世だ。ホームページだってうようよある。多少英語が苦手でもそれくらいのリサーチはできようし、まったく英語が読めないのなら、アメリカのことを盾に取って人の言葉遣いにごちゃごちゃ文句をつけぬがよろしい。それに、その“みんな”というのは、どの“みんな”だ? サイバースペースの“みんな”というのは、最初からスクリーニングがかかっている集団だから、ここで言う“みんな”ではないぞ。こういう場合は、やはりマスを相手にしている媒体での言葉遣いを見るのが筋というものである。
 第三の問題は、“片仮名で表記されているものは日本語だ”という点だ。日本語なのだから、その時々の社会認識で日本語特有の意味が生じてしまっても不思議はない。「車のバックミラーは、アメリカではリアヴューミラーと言っている」などと主張して、ひとりそのように表記してもわかってもらえないだけである。これだって、車に詳しい人は日本語でもリアヴューミラーと言ったりするのだが、まずうちの年寄りにはわかるまい。結局、言葉というのは、緩やかな多数決原理で徐々に変化してゆくものだから、一朝一夕には変えられない。ある言葉を多くの人が使っているのであれば、それが厳密には誤用であっても誤用している人を責めるべきではないだろう。いわゆる“原音主義”にだって同じ問題があり、エジソンは決してエディスンとは表記されないし、「電子メールじゃなくて電子メイルだ」などと主張している人が“データ”“ダタ”“デイタ”と表記しているのは見たことがない。おれ自身は、二重母音や三重母音を日本語の母音に分解して表記するのはかえって原音から離れると考えるので、なるべく長音記号を使うことにしているけれども。まあ、片仮名は日本語だと割り切っておれば、“ワーニング”じゃなくて“ウォァニング”だとか“シーケンシャル”じゃなくて“シクゥエンシャル”だとか“クエリー”じゃなくて“クワィァリィ”だとか主張して無駄な労力を使う愚を犯すこともないだろう。SFにだって、むかしからある問題だよね。アシモフアジモフか、ヴォークトヴォートか、スタニスラフ・レムスタニスワフ・レムか、ワープ航法ウォァプ航法(なんて表記する人いるのかな?)か(笑)。
 話が逸れた。と、これだけ「ハッカーを誤用してもいたしかたない」という主張を展開してきたおれであるが、けっして日本語にも「クラッカー」を定着させようとしている人に反対しているのではない。むしろ、彼らを応援する。時間と紙幅が許される場合には、おれも「これらはホントはこうちがうんだよ」と説明することにしている。“サイバースペース”という、日本のSFファンにとっては1986年にはすでにあたりまえだった言葉が、会社のおじさんたちに通じるようになるのに十年かかったのだ。気長にやりましょうぜ、愛すべき“ハッカー”の人たちよ。

【6月3日(火)】
▼あっ、なんてことだ。昨日の日記にひどい誤字があるぞ。余談を禁物にしてどうする。予断じゃ、予断。余談が禁物だったら、このホームページの存在意義が危殆に瀕するではないか。ゾディアックの誤綴りの話をしている文章に誤変換があったのでは洒落にならない。キーボードってのはこれだから怖い。文章が速く書けすぎるのだ。ハイになってくるとキーボードを叩いているという感覚がなくなり、視線を用いてディスプレイ上にリアルタイムで考えを念写しているかの如き状態になる。これは麻薬のように気持ちいいけれど(麻薬をやったことはないが)、そうなってきたら、いったんキーボードから指を離して頭を冷やしたほうがいい。とんでもないまちがいをしていることがよくある。キーボード・ハイになったほうがいいものが書けるという天才もいるらしいが、凡人はあまり速く書きすぎてはいけないと思う。
▼大阪の電車に乗る方はご存じだと思うが、大阪府警鉄道警察隊の痴漢行為防止を呼びかける吊り広告はすごい。「痴漢は犯罪!」と、あたかも驚天動地の新事実であるかのように書いてある。これを見て、さては痴漢は犯罪であったか、これはよい勉強をしたと膝を打つ輩が意外と多いのだとすればそれはそれで怖いものがあるが、改めて正面切って言われるとなかなか斬新な感じがする。かと思うと、某私鉄の切符売り場の電光掲示板には、「チカンはアカン チカンはアカン」などという文字が明滅していて度肝を抜かれる。大阪ローカルの広告コピーは、やたら直截的な表現か、ベタベタだとわかり切っているギャグ(?)が多い。「ベタベタのギャグだなあ」などと顔を顰めてはならない。「なんやこれ、ベぇタベタやがなァ〜」などと笑いながら、パロディのひとつもその場で作ってみせるくらいでなくては、あなたの大阪弁はほんものではないのだ。
 この手のコピー、京阪神の人間は慣れているからなんともないのだが、東京の人などは面食らうにちがいない。広告代理店とクライアントの打ち合わせ風景などを想像してみるに、代理店が当て馬として持って行った広告案を前に、東京なら「もうひとひねりほしいねえ」などとクライアントの宣伝部長あたりが言うところを、大阪では、「お、おもろいな。これで行こ」「もう一方の案ですと、もう少しオーソドックスな感じになると思うんですが――」「いや、そっちはつまらん。こっちのほうがおもろい」などと、物事が進行しているような気さえする。少々過激であろうが御正道を無視していようが、“おもろい”ということですべてが正当化されるようなところがあり、SF作家がたくさん出るのも無理はない。

【6月2日(月)】
▼なるほどね。須磨の殺人犯は、関西弁で言うところの“真似しィ”であるのかもしれないわけか。言われてみれば、ゾディアック事件というのはどこかで聞きかじったような気もするが、まったく思い当たらなかった。この機に勉強しておこうと、ちょっとネットサーフィンしてみたら、ゾディアックのページってけっこうあるんだね。これだからインターネットというやつは便利だ。世界のどこかで誰かがなにかは書いている。それが信頼できる情報かどうかは別にしても。
 いくつか見てまわったうちでは、Jackson Garland さんという人が作っている The Zodiac Homepage というのが、興味本位でなくよく整理されていて(読んでるおれが興味本位だ)、関連サイトへのリンクも充実している。いくつもあるゾディアックの犯行声明文も、全文が公開されていた。ざっと目を通してみると、なるほど須磨の文書にトーンが酷似しているうえ、似たフレーズも散見される。無教養なのか意図的なものか、綴りのまちがいも多い。余談は禁物だが、報道されているように、おそらくこれを真似たものなのであろう。とすれば、SHOOLLなる妙な綴りもゾディアック狂の犯人が意図したのかもしれない。もっとも、ゾディアックの声明文は school をちゃんと綴っているし、誤った綴りも発音を正直になぞったようなまちがいかたをしている。『アルジャーノンに花束を』の最初のほうの「けえかほうこく」みたいな感じね。どうせ真似るなら、SKOOLといったような綴りにすればもっとゾディアックらしいのだが、そこらは須磨の犯人は不徹底である。要するに、真似かた自体が幼稚だ。
 このサイトにはゾディアックの心理的プロフィールが箇条書きにされていて、その中に Zodiac is an imitative person, not inventive. Everything he has done he has seen or found written down somewhere. とあるのは皮肉である。ゾディアック自身が“真似しィ”だったのだ。これでは殺人鬼の再生産ではないか。せめて拡大再生産でないことを祈る。

【6月1日(日)】
▼書き捨てのつもりではじめたこの日記だが、日記とは名ばかり、エッセイのページに入れるまでもない半端な随想の集積になってきてしまった。半年やっているうちにけっこうな量になったので、以後、十日毎にファイルを分け読み込みの軽減を図り、簡単なメモ程度のインデックスをつけることにした。わざわざ検索して読むほどのものでもないのだが、それなりに世紀末の小市民生活を窺う手がかりとして、いつか誰かの暇潰しの種にでもなるだろう。せせこましいことばかり書いてある一御畳奉行の日記ですら、三百年近くを経て読めばけっこう面白いのだ。
 WWWを見る環境がないお友だちに定期的にプリントアウトして回しているという約二名の読者の方、ファイルを分割するとお手間が増えてしまいますが、なにとぞご了承ください。


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