間歇日記

世界Aの始末書


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97年6月中旬

【6月20日(金)】
▼郵政省の「通信・放送の融合と展開を考える懇談会中間とりまとめ」という文書を読んでいると、ウィリアム・ギブスンの名が出てきた。お役所の文書でSF作家が言及されるとは、珍しいこともあるものだ。“サイバー社会”なる言葉を用いているため、その言葉の説明に出てくるわけである。『作家のウィリアム・ギブスンが1984年に書いたSF小説「ニューロマンサー」で「サイバースペース」という言葉を使ったのが最初と言われている』とあるのだが、すでにまちがいに気がついておられる方々も、この日記の読者には少なくないだろう。cyberspace なる語をギブスンが造ったことはまちがいないが、最初に登場するのは、82年の短篇「クローム襲撃」Burning Chrome(浅倉久志・他訳『クローム襲撃』ハヤカワ文庫SF所収)である。セガ=バンダイ、じゃない、“オノ=センダイ・サイバースペース7”Ono-Sendai VII, the "Cyberspace Seven")というコンピュータ・デッキの名として登場する。84年の『ニューロマンサー』(ハヤカワ文庫SF)が黒丸尚の訳で出版されたのが86年で、この年、“電脳空間”という名訳のルビとして“サイバースペース”なる言葉が日本に上陸するのだ。「クローム襲撃」のはコンピュータの商標だから、『ニューロマンサー』を以てサイバースペースという語の誕生とすべきだという理屈もあるかもしれないが、やはり言葉の初出となると、82年とするのが妥当だろう。ブルース・スターリングも、『ハッカーを追え!』The Hacker Crackdown(今岡清訳、アスキー)の年表で、1982 William Gibson coins term cyberspace. と認定(?)している。
 それにしても、この郵政省の文書、ちょっとすごい。「サイバー社会とは、情報通信ネットワークの高度な利用により、距離・時間の制約を取り払い、現実社会の活動を補完、さらには代替し、全体として新しい社会経済活動が実現している社会である。つまり、サイバー社会とは、人類が初めて手にする、距離と時間の制約から解放された21世紀のフロンティアである」のだそうだ。なんだか、三十年前のSFを読んでいるかのようである。

【6月19日(木)】
▼団地の掲示板に一瞬ぎくりとする。「SF商法にご用心!」などというビラが貼ってあるのである。かなり歴史のある悪徳商法だから、ご存じの方も多いと思うのだが、けっして「旦那、いい銀背入りましたぜ。山野浩一の初版、二十万でどうすか?」という商法ではない。いわゆる“催眠商法”のことなのだ。路上でクジなどを引かせて当たった人を(たいてい当たるらしい)閉所になっている即売会場に集め、当て馬の商品をタダ同然で売っては人々を熱狂的な状態に追い込んでから、お目当ての商品を法外な値段で売りつけるというやつである。興奮と群集心理をうまく利用した手口で、ナチスが演説会場で使った方法の応用みたいなものだ。それにしても、まだやってる業者がいるのかね。
 もはや古典とも言える悪徳商法だが、これをなぜ“SF商法”と呼ぶのか? まさか世間一般の人々が「SF=悪徳・いかがわしい」と思っているからというわけではあるまい(思っていないわけでもないかもしれないが)。かねてから語源を知りたいと思っていたのだけど、こういうのは調べにくい。待てよ、いまはインターネットという便利なものがあるじゃないか――と思い立って調べてみたら、SF商法を説明しているサイトはたくさんあるのだが、語源がきちんと書いてあるところは意外と少なかった。なんでも、この商法をはじめた業者“新製品普及会”の頭文字を取って、SF商法と呼ぶのだそうだ。詳しくは、宮崎市のページ内にある宮崎日日新聞の生活情報「もうダマされないぞ 悪質商法」をご覧ください。いや、勉強になった。
 とはいえ、じつに紛らわしい名称である。おれの親類縁者や近所の人が、「ねねね、あそこのご長男、SFなんですって」「んまーーっ、コワイ。人は見かけによらないわね」などと噂しているのではないかと思うと、いまさらという気がしないでもないが、はなはだ心外であるのはたしかだ。ハッカーとクラッカーを一緒にするどころのまちがいではない。みなさんのまわりに妙なかんちがいをしている人がいたら、ぜひとも正しい語源を教えてあげていただきたい。

【6月18日(水)】
▼電車の中で中学生が騒いでいる。ひょろひょろとおれより背が高いようなやつらが、幼稚園児のように“いちびり”騒ぐ光景は異様だ。まったく、なに食ったらそんなに身体ばっか育つんだよ。
 それはともかく、他愛のないやりとりをしている彼らのひとりが、仲間に向かってふざけて言った――「おまえなんか、おれの視界から消えろ」 最近の子供はずいぶんとバタ臭い言い回しをするものだなあと思った。「視界から消えろ」などというのは、どう考えても自然な日本語の会話表現ではなく、"Get out of my sight."の直訳である。たしかに英語を習いはじめのころは、おれたちも「あいつはキュウリのように冷静だ」とか面白がって言っていたものだが、どうもこの中学生たちはそうではなさそうだ。なんの影響なんだろうな? そういえば『パタリロ!』に、「たしかに死んでいます。薫製のニシンよりも死んでいます」とかいったギャグがあったやに記憶しているが、そんなに教養のある中学生には見えなかったぞ(すごい偏見)。みんながこんなふうに喋るようになったら、最初のうちは新鮮かもしれないが、気色悪いことおびただしい。『永遠のジャック&ベティ』(清水義範)のようだ。
 なんでこんなことにこだわってるかというと、例の須磨の殺人犯が“野菜”を侮蔑語として使っていたのが引っかかってるのだ。自然な日本語では、侮蔑する相手を“野菜”とはまず呼ばないぞ。でも、英語だったらごくごくふつうの侮蔑語だ。“主体的にものを考える力もない没個性的で愚鈍な人間”とでもいった意味である。最初に“挑戦状”を見たとき、さっきのニシンのギャグを思い出したくらい奇異な感じがした。ギャグでやってるのか、よほど直訳調表現が気に入っているのか、それとも、この中学生たちのように、どこかで聞いた直訳調を最初から日本語として身につけてしまったのか、あるいは、こいつは中途半端なバイリンガルなのか――謎は深まるばかりである。

【6月17日(火)】
▼臓器移植法の内容には首を傾げるばかり。施行してみたら、結果的に提供者が減るんじゃないかなあ。だって、そうでしょ。「家族の同意がある場合」ということは、脳死状態にある肉親を法的に“死体”にする重責を担うのは家族であるということになる。自分が「はい」と言わなければ、脳死状態の身内はまだ死体ではないのだ。「この人は死んでるんですよ」といくら他人に言われたって、家族にはなかなか納得が行かないのが常であるのに、これではその家族に、身内を正式な死体にするべく心臓に杭を打ち込めと言っているようなものである。権威のある(ことになっている)人に、「この人はもう死んでいますから、ご家族のお気持ちよりもご本人の生前の意志を尊重して、臓器を摘出させていただかねばなりません」とでもはっきり宣言してもらったほうが、まだ優しさというものがあるのではないか。
▼電話機がひとりでにいちばん安い市外電話を選んでくれるというDDIのαLCRとやらのCM、なんだかおかしいよね。小泉今日子が子供たちを集めて怪談をしている――「そのとき、電話がひとりでに……ひとーりでに――!」などとKYON^2は脅すのだが、電話というものは、受けるほうにしてみればたいていひとりでに鳴るものである。「いまから鳴りますよ〜」などと宣言してから鳴る電話など見たことがない。よしんばそんなものがあったとしても、「いまから鳴りますよ〜」という音声は、やっぱりひとりでに出るのである。結局、あの子供たちはなにをそんなに怖がっているのか、さっぱりわからない。

【6月16日(月)】
▼夢の話というのは往々にして本人にしか面白くないから、できるだけ書かないようにしていたのだが、さすがに今日は書く。子供を産む夢を見たのである。いやあ、特異な体験であった。腹の中で子供が暴れると、オカルト映画のように腹壁が激しく波打ち、見かねた医者が帝王切開をしようとする。ところがこれが妙な帝王切開で、医者はおれの右尻の頬肉の皺に沿ってメスを入れた(なぜか見えるのだ)。すると、髪の毛の生え揃ったニ、三歳の子供くらいの巨大な胎児が、おれの尻の中からまろび出てきた。毎度のことながら、おれの夢はカラーもしくはパートカラーである。いやあ、気持ち悪かったなあ。
▼ZIPドライブを買う。いままではフロッピイでバックアップを取っていたのだが、さすがに面倒くさい。なにしろ、うちはいまだにWindows3.1のノートパソコンだから、あまり上等なデバイスを買ってもしかたがない。そろそろ新しいパソコンとMOかPDくらい欲しいものだが、先立つものがない。そこで、次のパソコンまでの繋ぎのつもりで手頃なZIPを導入した。まだまだこのパソコンを使い倒してやるぞ〜。それにしても、ソーテックのマシンはしっかりできている。いままで深刻なトラブルに遭遇したことがないのだ。ノートはソーテックですぜ。
▼京都iNETのアクセス・ログを見てみると、ここ二日ほど、『迷子から二番目の真実』の12番、「冷蔵庫」のアクセスが妙に多い。なにが原因なのだろう?

【6月15日(日)】
▼一日原稿書き。どうもおれは、ル・グィンというのが嫌いじゃないにしても苦手だ。理知的に書くという点ではスターリングみたいなところがあって(スターリングよりはるかに名文家だけど)、書評する場合は切り刻み易いのだが、ワイルドな驚きがないから書いていてあまり面白くないのである。評論家としての才能もある作家って、こういう人が多いよね。
 で、ようやく仕上げて入稿。やっぱり締切ぎりぎりになってしまった。意志が弱いよなあ。〈SFマガジン〉(7月号)は、牧野修がとても面白かった。どう面白いかと言うと――6月18日更新予定の〈SFオンライン〉を読もう! と、宣伝したところで、今日は寝よう。

【6月14日(土)】
〈SFオンライン〉の原稿を書く。どうも風邪の引きはじめのようで体調が悪く、しかたなく早めに風邪薬を飲むが、眠くなると困るので非常用のカフェイン錠を飲む。カフェインは風邪薬の成分にも含まれているのだから、あまり飲みすぎると身体に悪い。コーヒーを控えよう。
『ザ・スクープ』(テレビ朝日系)で、子供の早期英才教育を取り上げていた。最近の子供ってたいへんなのね。なにがたいへんかと言って、親に放っておいてもらえないのがいちばんたいへんだ。他人に始終気を配られているなんてのは、それが好きなやつもいるかもしれないが、人によってはものすごいストレスになると思う。おれがいまの世に子供だったら、きっと発狂しているだろう。ひとりでぼけーと遊んでいるのが好きな子供だったからだ。毎日なにかの習い事に行っている子供なんてのが出てきたが、いやあ、怖ろしい。「うちの子は好きでやっているから」と親が思い込んでいるのかもしれん。もしほんとうに子供が自分の意志でそんな生活をしているというのなら、親がやめさせろよ。ぼけーと夢想する時間は絶対に必要だ。ぼけーと夢想していたらおれみたいになったわけだから、全然説得力のない意見かもしれないが、やっぱりそういう時間は必要だ。だいたい、ふつうの家庭だったら、あんなに習い事をさせる経済力がないはずなのだが、いったいどうなっているんだろう。
 そりゃまあ、小さいころからいろんな刺激を与えてやることは脳の発達にもいいに決まっている。しかし、頭がよかったらしあわせだと思い込んでいるかのような親の価値観が非常に気にかかる。おれは独身で子供もないから実感としてはよくわからないので、人の親である方々に率直に問いたいのだが、親というものは、子供に頭がよくなってほしいのか、しあわせになってほしいのか、どっちなのだろう? おれが親だったら、自分の子供にモーツァルトゴッホニーチェガロアゲーデルのような生涯を望まない(自分があんなだったらすがすがしいだろうと思うことはあるが)。もっと頭がよければあんなことができたのに、あんなものになれたのに、という思いは大人なら誰でもあるだろうけれど、頭のよさと本人が主観的に感じるしあわせとはな〜んの相関関係もないんじゃないかとおれは思っている。頭がよすぎりゃよすぎたで、いろいろ高尚な抽象的幸福を感じる能力も高いかもしれないが、凡夫の想像も及ばぬ余計な不幸を抱える確率も同様に高いんじゃあるまいか。畢竟、しあわせってのは、個々人ですべてちがう主観的なものなのだ。生まれつき脚の短い子供の脚を、まだ骨が軟らかいうちはなんとかなるなどとウィンチで引っ張っているような図というのは、どう見てもあまり本人のしあわせとは関係がない。
 前にエッセイにも書いたけれど、これはクローン人間問題の本質に関わってくることだと思う。他者の過剰な目的意識によってありかたを規定される人間は、みなクローン人間だ。“自主性を養う教育”などという言葉は“黒い白馬”なんじゃないのか? なぜなら、教育されているかぎりに於いて発揮される自主性は、括弧付きの自主性だからだ。創造性にも同様のことが言える。まあ、番組で取り上げていたような早期英才教育を受けた子供の中からほんものの天才が出てくるやもしれないが、出てきたところで、英才教育が天才を造ったのか、天才に英才教育を施していただけなのかは証明する術がなかろう。どっちにしても、業者は儲かるようにはできているのである。十年、二十年後にゾロゾロ天才が出現するかどうか楽しみだ。「一度だけ受験させてやるから、大学に受からなかったら家の商売を継げ」などと親に言われた時代と、天才の出現率はさして変わらないだろうとおれは踏んでいる。ちなみに、親にこう言われたとあちこちで述懐しているのは、広中平祐である。

【6月13日(金)】
『探偵!ナイトスクープ』(朝日放送)を観ていたら、タガメを捜してほしいという少年が出てきた。いやあ、そうだよなあ。タガメなどというものは、おれも実物を手に取ったことは一度しかない。それも泳いでいるやつではなく、街灯の下でひっくり返っているのを捕まえたのだ。ドライブに連れていってもらい、用便のため休憩所で停車したときだったかと思う。虫籠もなにもないし、持って帰ったところで肉食昆虫は飼うのがたいへんだ。これがタガメなのだとしっかり目に焼き付け、しぶしぶ逃がしてやった。おれの子供のころですら、それくらい珍しい昆虫だった。タイコウチは近所でも時折捕まったものだが、やっぱりあれはひょろひょろと頼りなげで、タガメの一種凶悪な面構えや力強さと比べると、いかにも三下という感じである。
 それにしても、まだあんな昆虫少年がいるのかと思うと、なんだか嬉しい。おれが子供時代を過ごしたのは、田んぼの中にだしぬけに団地が立っているようなところで、周囲は虫だらけだった。とくに昆虫好きでなくとも、たいていの子供は昆虫採集を日常の遊びとして楽しんでいたものだ。春になれば咲き乱れるレンゲの中をミツバチが飛び交い、夏には窓など開けているとセミが飛び込んできた。秋ともなるとアカトンボが空を埋め、冬はゴキブリが部屋の中を飛び回る。こういうことを言い出すと爺いになった証拠かもしれないが、子供というのはいつの世も昆虫が好きだ。まるで宇宙からやってきたかのような(実際にそういう説もあるが)精巧なメカを思わせる姿や生態が子供を魅了するのであろうか。いまの子供たちは、いったいどこで虫と戯れているのだろう?
 思えば、子供のころは、ずいぶんと生きものを殺した。それも子供の娯楽のひとつであった。カエルの脚を持って地面に叩きつけるとか尻にストロー突っ込んで膨らませるとか爆竹突っ込んで破裂させるとか、トンボの羽を二枚だけにして飛ばしてみるとか、カマキリと一緒にチョウやバッタを虫籠に入れて食うところを観察するとか、トカゲを缶の中に入れてそれでサッカーするとか、まあ、いろいろほかにも方法はあろうが、いま思えばよくもあんなことをしたものである。大人は顔を顰めてお説教をしたが、そうした生きものを生きものとも思わぬ所業は、やるだけやらせておけば、そのうちぱたりと止むものだ。不思議なもので、子供のころは生きものを殺しても平気かというと、そうでもないのである。やっぱり後味の悪さはちゃんと感じている。こういうことをすれば死ぬだろうなと理解しており、一方では良心の呵責を感じながら、一方では殺す行為を楽しんでいるといったアンビバレントな心の動きがある。よく言われるように、攻撃性を自分より弱いものに向けているというのは、ちょっと安易な分析かもしれないと最近思うようになった。あれはたぶん、オナニーやなんかと同じように、正常な精神の発達のためにはある段階でやらなくてはならんことなのかもしれない。「生きものは殺せば死んで生き返らないし、殺すのは結局あまり気持ちのいいことではない」というのは、理屈ではなく体験で学習しなくてはならないことなのだろう。だとすると、昆虫がどんどん減ってくるに従って……あんまり想像したくない事態だな。

【6月12日(木)】
▼じつに不謹慎なことを思いついてしまったが、誰かに言いたくてたまらないので書く。バカ売れして在庫がないという携帯用防犯ブザー、あれってなにかに似てませんか? そう、たまごっちに防犯ブザー機能を付ければ一石二鳥ではあるまいか。バッテリーの問題はあるが、ひとまわり大きくすれば問題ないだろう。子供も持ち歩くのを厭がらない。たまぴっちを作ったほどのバンダイのことだから、もう企画しているやもしれぬ。もっとも、このネタ自体が新聞の四コママンガには持ってこいのネタで、ひょっとしたらおれが知らないだけで、すでにどこかに掲載されているのかもしれない。笑いごとじゃないと言われるかもしれないが、推理ゲームを楽しんでいるだけに見える一部のマスコミの装われた深刻ぶりっこよりは、実際にこういうものを発売してみせるくらいの商魂のほうがおれは好きだ。チェルノブイリ原発事故のとき、大阪で“放射能よけうどん”を出したうどん屋のことが思い出される。ただのわかめうどんなのだが、放射性沃素がジェット気流に乗って飛んでくる前に、わかめをしこたま食ってふつうの沃素で甲状腺を飽和させておけば大丈夫という理屈であった。呆れるより先に、さすが大阪人とはなはだ感心したものだ。
 たしかに、近隣住民の方々の心労は察するに余りあるものがある。これを笑いものにしてはいけない。が、人間、極度の緊張状態は絶対に長くは続かない。おれはもちろん戦争体験はないが、体験者によれば、戦争中だって命の危険に常に晒されながらも、みんなおれたちが想像するほどにはぎすぎすしたばかりの日常を送っていたわけではないようだ。それでは精神が保たないのである。今の状態では、人々の緊張のためにかえって妙なことが起きやしないかと心配だ。子供たちにも必要以上のトラウマとなるだろう。警戒は怠ってはならないけれども、あのようなことをする狂人のために、多くの人の生活や精神が陰鬱な影に支配されてしまったのでは重ねて忌々しいではないか。昭和天皇の死去までの数か月、人々は自粛とやらをやりすぎて、日本国中の“ふつうの生活”がおかしくなっていた。あの時期は、おれには厭な思い出としてしか残っていない。

【6月11日(水)】
『火星転移(上・下)』(グレッグ・ベア著、小野田和子訳、ハヤカワ文庫SF)をようやく読了。うん、面白い。小説としての首尾結構には首を傾げる部分はあれど、そういうものをふっ飛ばす喉ごしのよさがある。おれは『女王天使』より評価するな。“ベル連続体理論”の人を食ったもっともらしさは、『禅銃(ゼン・ガン)』(バリントン・J・ベイリー)の“後退理論”に優るとも劣らない。有無を言わさずぶっ飛んだ理屈を導入し、その適用に関してはその理屈なりの論理性を保持するというのは、おれの好きな作法である。狂気の中にも道理があるのだ。もっとも、ベル連続体理論はそれほどぶっ飛んでいるわけでもなく、神秘学や仏教から似た考えかたを持ってきて、SF風に宇宙論として料理したのではないかという気もしないではない。ベアの言う“記述子”やら“ベル連続体”やらってのは、素粒子のアカシック・レコードというか阿梨耶識というか、そんなようなもんなんじゃないの? “宇宙のFAT(ファイル・アロケーション・テーブル)”とでも考えたほうが、おれにはわかりやすい喩えだけれども。よし、この作品はちゃんとレヴューのコーナーに入れなくちゃな。
▼帰宅すると、やたら軽くて大きい袋がおれ宛に送られてきていて、一瞬、鬼とか薔薇とか書いてないかと疑った。なんと、北海道の友人が亀田製菓の「ほたてっぷり」を送ってくれたのだった。以前この日記にも書いたように、関西では売ってないのである。いやあ、耽美な小説書いてる明院鼎さん(笑)、ありがとう。で、もちろん、「ほたてっぷり」を食いながらこれを書いている。なかなかいけますが、やっぱりシリーズ最高傑作は「いかっぷり」ですなあ。
▼気に入ったアニメ素材があったので、トップページをちょっと模様がえ。少し押しが強すぎるかなあ。


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