間歇日記

世界Aの始末書


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97年6月下旬

【6月30日(月)】
「分裂病による建築の諸相」(筒井康隆、『新潮』97年7月号)を読む。大笑い。バカSFである。句読点が非常に少ないながらすっきりと読みやすく、意味が曖昧になっている箇所が微塵もない。読んでいるとこちらの頭がよくなってくるかのような快感がある文体だ。それでいて、のたうち回って笑える。こんな文章が書ければなあ。
 むかし、こういう人を食った作品は、SF誌や中間小説誌に多く載っていたものである。声を立てて大笑いできる作品がひさびさに読めたと思ったら、それは純文学誌であったってのは、いったいなにを示唆するものでありましょうや。

【6月29日(日)】
▼仮想現実と現実の区別がつかないだの、ゲーム感覚だのと、聞いたふうなことをほざく識者が多くてげんなりする。もちろん、須磨の殺人事件の話だ。あのなー、そんなもん、むかしから珍しくもなんともないことでしょうが。おれたちの子供のころだって、仮面ライダーの真似して高所から飛び降りて怪我したりなんて事件は山ほどあったのだ。いいガッコ出て、いい会社入って、会社に尽くしていれば会社も自分を守ってくれると無邪気に信じていて、会社のためなら悪事もなんのその、なんて精神構造になってしまった野村証券だの第一勧銀だののロートルさんたちは、仮想現実と現実の区別がついていなかったのではないのか? 自分で珊瑚礁に落書きして記事にしてみたり、テロリスト宗教団体とつるんで番組を作ってみたりするのは、最近のあんたらが箸の上げ下ろしに言う、ヴァーチャル・リアリティーとやらではないのか、マスコミさんよ? わからないものはわからないと言ったらどうなんだろうね、まったく。仮想現実云々なんてのは、な〜んの説明にもなっていない。だいたい人間ってのは、誰でも仮想現実で動くものだ。もしもナマの現実の総体なんてものに対峙したら、人間はきっと発狂する。記号という仮想現実を操ることでこそ、人間は人間になれたのだからあたりまえだ。あたりまえのことをもっともらしく言って、いったいなんの意味があるのだろう。大東亜共栄圏――「いやあ、あのころの日本人は、仮想現実と現実の区別がついていなかったんですねえ」 東西冷戦――「お互いに仮想現実の敵を怖れていたんですねえ」 いやあ、仮想現実ってのは、とりあえずなんか言うときのワイルドカードですなあ。
 などと言いつつ、彼らに倣って、仮想現実で無理にアホな解釈をしてみるとすると、おれヴァージョンはこうなる――A少年は、学校という仮想現実を唯一の強固な現実だと思い込んでしまったのではあるまいか。子供たちをもっともっと多種多様の仮想現実に触れさせる教育が望まれる。

【6月28日(土)】
▼さて、そろそろ腰を据えて仕事をしようと思っていたら、須磨の殺人事件容疑者逮捕の報が入ってきた。幼稚だ幼稚だとは思っていたが、なんだ、子供だったのなら幼稚なのはあたりまえだ。大人にも信じられないくらい幼稚なやつはたくさんいるから始末が悪いのだけれども。
 それにしても、テレビのどのチャンネルを観ても、自供したと伝えられる容疑者が中学三年生だということについて異口同音に「ショックだ」「驚いた」と言っているけど、おいおい、嘘つくなよ。その可能性があるとは、みなが薄々思っていたはずだぞ。中学生ともなれば大人並みにでかいし、知識も知能も(知性ではない)大人のそれを凌ぐやつだって少なくない。少年少女が人を殺しても、もはやそれほど珍しいとは誰も思ってないでしょうが。今回の事件だって、犯人が子供である可能性が高いとは思っていなかったにしても、そのオプションを完全に排除していた人は少ないでしょう。子供が犯人だと言われて、もしほんとうに心底驚いたというのなら、そういう大人の認識にこそ問題がある。商店街の福引でまずたわしが当たるだろうと思っていたところ、蓋を開けてみたら洗剤が当たったという程度の驚きしか、おれは感じなかったけどなあ。もっと正直になってくださいよ、テレビの人たち。“ショック”だったんじゃなくて、“やや意外”だったくらいが本音なんじゃないすか?
 いやしかし、日本の警察はやっぱり優秀だ。子供は人を殺さないなどとはさらさら思っていないからこそ、これだけのスピード逮捕ができたのだろう。なんの道によらず、それで飯食ってる人間を侮ってはいかんよ、A少年。
 もっとも、彼が単独犯の真犯人であるかどうかはまだまだわからないから、須磨近辺にお住まいの方々はほんとうに気が重いでしょうけれど、詳細が解明されるまでは、いまこそくれぐれもご用心を。模倣犯が出る可能性だってあるし、また、A少年であるかもしれない酒鬼薔薇と名告る者の声明文を信じるとすれば、酒鬼薔薇には彼が殺人好きなことを知っている友人が少なくとも一人はいることになってるのだ。一人が捕まったことによる油断に乗じて犯行を重ねるという、カミカゼ作戦である可能性だって残っている。疎外された者同士の結束にはすさまじいものがあるから、もしも複数犯だったら、それくらいのことをやりかねないだろう。事実関係の迅速な解明が望まれる――ってのは紋切り型の結びで厭だけど、周辺住民の方々の安眠のためにも、ほんとに望まれるよ。

【6月27日(金)】
▼アメリカ連邦最高裁判所が通信品位法(the Communications Decency Act)に違憲判決を下したとのこと。まあ、当然でしょう。だいたい、名前からして、こうなることが目に見えていた。decency などという曖昧な概念が、明解であるべき法律の名称に入っていることに最初から違和感があったのだ。
“品位”と訳してしまうと、ちょっとdecency のニュアンスからこぼれるものがあるような気がする。decent というのは、「いくらなんでも、それはちょっとねえ、と言われないくらいであるさま」をぼんやりとカバーしている語である。自分に関して使うと「おかげさまでなんとか人並みにこういう状態でいられます」みたいな下向きのベクトルがあるが、他人に関して使うと「中庸をわきまえた大人」といった上向きのベクトルを孕む。とくにイギリス人は decency を大きな美徳として尊ぶため、米語よりもずっと賞賛に近い意味でこの語を使う。だが、アメリカのような美的・倫理的規範の帯域が非常に広い国となると、decency が意味する領域の境界線はきわめてファジーなものになってしまうのだ。要は、Aさんが decent と思うものが、Bさんにとってはまったくそうでないことがざらにあり得る。そんな曖昧な概念と法律とは、もともと相容れないものだろう。万人の共通コードとしての decency をアメリカみたいな国で無理に画然と定義しようとすれば、それは必然的に思想・言論統制にならざるを得ない。そして、アメリカ人にとっての言論の自由は、イギリス人にとっての decency に負けず劣らず、世界に誇る冒すべからざる美徳なのだ。こんな法律を最高裁が認めたら、アメリカがアメリカでなくなってしまう。
 だからといって、日本がアメリカの真似をする必要はまったくない。こっちにはこっちの文化があり、事情があるのだ。「子供にポルノを見せたくなけりゃ、そんなもの、親や学校や地域社会のほうでガードせんかい!」と考えるのがアメリカ人に馴染みの発想なのだろうが、「自分の子供を自分で護らにゃならんようではおちおち仕事もしてられんから、ぜひ法律で取り締まってくれ」という発想のほうが日本では人気があるだろうと思う。おれ個人の意見としては、アメリカ最高裁を支持するけれども。

【6月26日(木)】
Infectress(Tom Cool, Baen)を読了。ちょっとB級風味のジェットコースター・ノベル。やたら面白いので、SFスキャナーでやることになっている。ここでは詳しくは書かないでおこう。
▼教科書検定ってのは、あいかわらずお堅い。いつも思うのだが、子供たちの日常にこれほどの量の情報が飛び交っていた時代はかつてなかったはずで、教科書に書いてあることが絶対正しいと信じているようなナイーヴかつアホな子供なんてものが、はたしてまだ棲息しているのだろうか? いっそ、地球は円盤だとか、人間は最初から人間として造られたとか、日本語はむかし英語だったとか、猫はじつは宇宙生物エルバッキーなのだとか、元祖の基本形式の固持は文化が繁栄するための一般法則だとかの記述に溢れた教科書をばんばん合格させ、子供に嘘を見破らせる教育をしたほうが、実社会ではるかに役立つと思うのだがどうか。いまの時代に教科書のみを以て子供の思想に影響を及ぼせるなどとは、お上自身が信じていないはずである。万が一そう信じているのだとしたら救い難い。西の空を向いたパラボラアンテナがあちこちに立ち、学生たちはモデムを隠し持っているというのに、いつまでも嘘が通ると思っていた(思わざるを得なかった)東欧の官僚のようだ。
 思うに、教科書というものが存在する主目的は、もはや子供の教育にはない。あれは、「日本政府は断固としてこういう見解を支持しているのだぞ」ということを外国に知らしめるための、一種の広報出版物なのである。
 文部省にしてみれば、ほんとうはインターネットなんて物騒なものを子供に触らせたくはないのだろうな。子供をさまざまな価値観に触れさせてしまうという、文部省が最も怖れるだろうことを、なんの因果か彼らはみずから推進せねばならぬ羽目になってしまったのだ。これも時代の流れだろう。

【6月25日(水)】
▼SFマガジン編集部から、通巻500号(98年2月号・12月25日発売)のためのオールタイム・ベストSFアンケートが送られてきた。回答させていただけるのは光栄であるが、うーむ、これは悩むなあ。毎年のベスト5どころの騒ぎではない。SFファンたる者、やはりこういうのは、ふだんから考えておかなくてはいけないのだろうなあ。順不同のベスト10くらいなら気軽に挙げられるだろうけど、順位をつけるとなるとのたうち回りそうだ。おまけに和モノと洋モノの両方である。こいつは締切ぎりぎりまで、じっくり選ぼう。たまのお祭りに、こうやってきちんと順位をつけてみるのも、自分のSF観を整理するための一助になることだろう。発売中のSFマガジン8月号に回答用葉書が付いているので、一般読者のみなさまも、ぜひ選んでみてください。なにしろオールタイムベストだから、むかしはよくSF読んだけど最近ご無沙汰で……という方でも、なんの気後れもなく回答できる。『宇宙戦争』だっていいんですよ。詳しくは、発売中のSFマガジン8月号か、おなじみSFオンラインSFマガジン '98オールタイム・ベストSFアンケート募集のお知らせをご覧ください。
▼“おはぎ”のことを英語でなんと言えばいいのか、かねてから考えていたのだが、突如名訳を思いついた――“餡ライス”ってのは、どうでしょう? わ、石投げないで、血ィ吸わないで。

【6月24日(火)】
「ワイアード」をちょっと読む。「午前零時のシンデレラたち BBSで繰り広げられる男と女の恋愛遊戯」という記事があり、またこの手のやつかと思いつつ、興味津々で活字を追っているおれっていったい……ま、ミーハーなんでありましょう。おれもパソ通ジャンキーだから、こういう記事がけっして誇張ではなく、ありふれた日常風景ですらあることは知っているのだが、BBSで繰り広げられているはずの男と女の恋愛遊戯とやらは、なぜかおれのところまでは繰り広がって来ないのだった。もっとも、女漁りが目的でパソ通したことなんてないけどね。
 どうもこの歳まで独身でいると、なにかと不思議がられることが多くて煩わしい。女嫌いだと思われているフシもあるが、まったくそんなことはなく、むしろ大好きである。ただ、ほかにそれよりさらに好きなことやら、やりたいことやら、やらねばならんことやらが多すぎて、そっち方面の活動は常に積読になってしまうのであった。結局これは、女嫌いということになってしまうのであろうか? たとえば、目の前にディックとティプトリーと日野啓三の未読本が置いてあったとして、たまたま日野啓三から読みはじめたとしても、べつにディックやティプトリーが嫌いだというわけではない。日野啓三を読み終えて、とりあえずディックを読んでいるあいだに、たまたま十二国記の新刊が出たりした場合、やはりそっちを先に読むだろう。十二国を読み終え、読みかけのディックを読んでいるあいだに、またまた敵は海賊シリーズの新刊が出たりしてしまったとしたら、ここはどうしてもそれを先に読まずばなるまい。いつになったらティプトリーが読めるのかさっぱりわからないが、ともかくおれはティプトリーが大好きだ――とまあ、こういう状態がずうっと続いているわけで、おそらく一生続くだろうという予感がある。だから、おれはべつに女嫌いなのではないのだ。なんとなく例が悪いような気もするが、おわかりいただけたと確信する。

【6月23日(月)】
『ターミナル・エクスペリメント』(ロバート・J・ソウヤー著、内田昌之訳、ハヤカワ文庫SF)を読了。いやあ、面白い、面白い。魂波騒動の筋と殺人事件の筋との噛み合わせに、ちょっとバリの取れてないプラモデルみたいな印象はあったけども、これはたぶん確信犯だろうな。今年はこれを読んでおかないと、除夜の鐘を聴いても98年は来ないとだけは言っておこう。あれ、そういえば、去年『さよならダイノサウルス』読んだときも、同じようなことを書いたっけな。
 それはそうと、瀬名秀明氏の解説は、文庫の解説としてはとてもいいと思う。とにかく面白いと言いたいんだということが素朴に伝わってくる。これを例えば真正面から小SF論として読んだ場合、森下一仁さんが引っかかっておられるような感想が当然出てくるだろうけれど、おれはむしろこういう解説は新鮮だと思う。SFを難しい難しいと言われるのは、SFファンとしてはいささか抵抗があるが、概して、SFは難しいんだからしかたがない。瀬名氏は正直である。難しいというのに語弊があれば、蔗を嚼む境に入るのに訓練が要るとでも言おうか。糸井重里流に言えば、“おもつらい(おもしろ+つらい)”とでも言おうか。「あー、今日は仕事でへとへとに疲れた。帰りの電車で“おもつらい”ものなんか読みたくないよ。面白いだけのものが読みたい」というサラリーマンに、無理矢理SFをお薦めしたくはない。これはべつに、そのサラリーマンが知的に劣っているというわけではなく、単なる好みと生活習慣の問題である。パソコンのCMじゃないけど、明日飛ばそうと思っている人力飛行機のための空力計算を電車の中でやるのが趣味であるサラリーマンだっているかもしれない。そう、結局、真の趣味とは“おもつらい”ものである。なんだかしらんが時間が余ったので退屈を紛らわせるためにやることは、hobby ではなく pastime だ。「pastime になるSFが少ないように思うので、も少し増やしてほしい」という話なら、大いに肯けるところである。
▼今日は書くことが多いぞ。『たけしのTVタックル』(テレビ朝日系)がひさびさに“超常現象嵐の大ゲンカスペシャル”をやるというので、ログの整理をしながら観る。要するに、ときどき超常現象の肯定派と否定派のゲストを呼んで、軍鶏のようにケンカをさせるだけという企画なのだ。肯定派とやらのゲストがぶっ飛んだことを大真面目に言って笑わせてくれるので、おれはけっこう好きである。きっと多くの『トンデモ本の世界』のファンが観ていることだろう。いや、しかし、毎度出てくる大槻教授だって、知識は科学的だが、論争という場に於ける論理展開はあまり科学的じゃない。最初から現象そのものをあり得ないと決めてかかっている様子は、肯定派と符号がちがうだけに見える。いちばんまともなことを言っているのは、例によって、大竹まことなのである。
 それにしても、ひどいパフォーマンスがあった。気功の達人とやらが出てきて、気の力を見せるという。一万円札を長辺が指と平行になるよう掌に乗せ、やおら気を込めると、お札の長辺側が掌から離れるようにめくれ上がりU字型に曲がってくる。害虫にやられた葉っぱみたいな感じだ。これが気の力だというのだが、あほか、気は気でも、それは水蒸気の力なんじゃないか? まあ、達人もそれなりに修行はしているのだろうが、彼が会得したのは、おそらくバイオフィードバックによって掌の発汗をある程度随意に制御できる能力にすぎないのであろう。もともと掌は汗をかきやすい部位だ。紙幣というのは複雑な製紙と印刷が施されているから、おのずと多層構造になっている。片面だけを湿度の高い環境に晒せば、その面側が伸張して曲がる(というより、丸まる)に決まっている。点滅電球やサーモスタットに入っているバイメタルみたいなもんだ。テレビ見てるだけでも、それくらいの推理はできよう。大槻教授は「その一万札をこんなふうに四つ折りにして見せてくれるのなら感心もする」などと反撃していたが、そんなややこしいことさせなくたっていい。「お札の真ん中が掌から離れてトンネルのような形になるように、ちょうどその逆の状態に曲げてくれませんか?」と言えばいいのに。もしできたら、ほんとに感心してあげよう。
 気功の研究家とやらが、パフォーマンスの前に大槻教授たちに紙幣を改めさせていたが、これもテクニックである。これから達人が何をするかはまったく言わなかったからだ。「このお札をこれこれこういうふうにして見せるから、札を改めろ」と言ったのでは、手品にならない。それがわかっておれば、おれなら札を両手に挟んで「はあ〜〜〜っ」と丹念に両面に息を吹きかけてから返す。これではテレビにならないのである。このインチキだけを以て、気功なるもののすべてがインチキであると断ずることはできないが、こういう馬鹿なことを大真面目にテレビでやっているからには、そう思われてもいたしかたないだろうな。大槻教授も大槻教授である。どうせ遊び企画なんだから、「それは気の力ではない。プラズマだ」くらいのギャグを飛ばして欲しかったものである。

【6月22日(日)】
▼ふらりと近所の小さな本屋に入ると、昨年出て買おう買おうと思って忘れていた『栞と紙魚子の生首事件』(諸星大二郎、朝日ソノラマ)がなぜか入っていたため、あまりにもタイミングが悪いタイトルではあるまいかと思いつつ、小野不由美『緑の我が家』(講談社X文庫)と併せて買う。なんとなく本屋のおやじが変な目で見ていたような気もするが、まあ、いまにはじまったことではない。
 ほかに山ほど読む本があるというのに、マンガというやつはどうしても買ったその日に読んでしまうんだよな。諸星大二郎はいいよねえ。全然怖くないし絵は下手なのだが、おれはむしろこの作家の異様なギャグセンスを買っている。シリアスな作品よりも、コメディタッチのSFやホラーのほうがおれは好きなくらいで、ギャグマンガ家としては過小評価されてるんじゃないかと思っている。『栞と紙魚子……』も、のたうち回って笑ってしまった。ホラーというのは、ちょっと回路をひねるとたちまち無性におかしいギャグになってしまうのだ。人間の感性はまことに不思議なものである。このシリーズ、まだ連載中だそうだから、次が出るのが楽しみだ。

【6月21日(土)】
▼偏頭痛がひどく、日中寝て過ごす。目が覚めると夕食の時間で、朦朧とした頭でしばらく『ザ・スクープ』(テレビ朝日系)を見ていると、突然、特殊翻訳家の柳下毅一郎さんが、SFセミナーのときバラードを語っていたのと同じ顔で出てきてのけぞった。今日の肩書きは“凶悪犯罪研究家”であった。おれは観ていないが、フジテレビに出演なさったときは、“海外の猟奇犯罪に詳しい人”だったのだそうだ。柳下さんが多藝多才であるからということもあるけれど、現代はもはや人間の肩書きがきわめてつけにくい時代である。専門分野が極度に細分化してきているうえ、人と人との関わりかたもどんどん多元化しつつある。「○○商事の田中です」が、いついかなる状況でも通るような時代は終わったのだ。もっとも、銀行と総会屋を兼ねてもらっては困るが。
▼さてさて、おなじみSpa王食べ比べシリーズ、今日はナポリタンである。和田勉と西村知美があれほど奇ッ怪なCMをやっているからには、さぞやすさまじい味がするのだろうと(?)期待して食べた。うーん、おれの好みじゃない。ソースが甘すぎる。もともとナポリタンはそんなに好きじゃないから、好きな人が食うとそれなりなのかもしれない。


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