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97年9月下旬 |
【9月29日(月)】
▼ゾルタン・コダーイと聞いてピンとくるだろうか。「ハンガリーの作曲家でしょ」とピンと来た人は、ただの音楽好きな人。「あっ、『未知との遭遇』のアレね」とピンと来た人はおれと同類(笑)。コダーイは音楽教育の分野にユニークな業績を残した人でもあり、『未知との遭遇』でフランソワ・トリュフォーが下手な英語で説明していた手の形で音を表す方法は、彼の音楽教育理論が土台になっている。
じつは、ちょっと思い立ってネットをサーチしてみたら、 Zoltan Kodaly Homepage (文字コードを中欧に切り替えて見てね)なるものに遭遇したのだった。べつにおれはコダーイに詳しいわけでもなんでもなく、テレビの音楽番組で一度だけ曲を聞いたことがある程度である。やはりSFファンとしては、あの“レミドドソ〜”の手振りをちゃんと身につけたいじゃないか。で、捜してみると、あったよ、ありました。ちゃんと図解してある。あの映画では、聾唖児童の音楽教育のためにコダーイが手振りを開発したかのようなことを言っていたと記憶しているが、このページによると必ずしもそうではないようだ。手振りをつけたのはコダーイの協力者となっている。さあ、図を見ながらやってみよう。レ・ミ・ド・ド・ソ〜。高いほうのドから低いほうのドに移るときは、そのまま移行してはわかりにくいので、いったんちょっと手を開いてから握り直すのがコツである(映画ではそうやっていた)。
これを実際にやってみると、あの五音動機を作曲した過程がわかるような気がする。最後のドからソに移行するときの手つきは、まるで友好的に握手を求めるかのような動きになる。トリュフォー演じる科学者がラスト近くで異星人に向け“レミドドソ”の手振りを返して微笑むシーンの絶妙なカメラワークは、スピルバーグがそのことをあきらかに意識していたことを示しているだろう。つまり、あの五音動機は、音を先に作って手振りを充てたのではなく、手振りから発想して作曲されたものだと、おれは推察するのだ。最後がソで終わってくれなくては、映画として絵にならないのである。ソで終わることが視覚効果上の前提としてあって、そこからド・ド・ミ・レと遡って動機を組み立てたのではなかろうか。当たっているかどうかはわからないが、なかなか説得力のある説だと思いませんか?
【9月28日(日)】
▼さて、Spa王食べくらべシリーズである。いままで見たことのないバジリコ風というやつがコンビニに並んでいたので、さっそく朝飯に食ってみる。うまい。これはいける。カルボナーラ(最近見かけなくなった)といい勝負をしている。
よく考えたら、昨日の夕食はミートソース・スパゲッティだった。家でも外でもスパゲッティばかり食ってよく飽きないものだ。だって、飽きないんだもん。パスタが好きというよりも、やはり麺の形をした食いものが好きなのだ。淀川長治風に言えば、おれは嫌いな麺類に出会ったことがない。どちらかというと、味よりも喉ごしを楽しんでいるようなところがある。麺のようなものがずるずるずるっと食道を駆け降りてゆく感触がなんとも言えず快いのだ。きっと口唇期にリビドーの固着があるにちがいない。うどんを食ったことがない(と思う)フロイトは知らなかったのかもしれないが、口唇期のちょっとあと、流動物を食わされる時期に“食道期”というのがあるはずだとおれは勝手に決めている。おれはたぶん離乳食に軟らかく煮たラーメンをしばしば食わされたことがあるのだろう。
麺類が消化管の中を通るのが快感だとすると、当然、もう一方の末端を麺類が通るときも気持ちいいはずだ。腹具合の悪いときなど、未消化の糸コンニャクを肛門からずるずると引きずり出した経験はどなたもお持ちのことと思う。なるほど、あれも妙な快感があることはある。となると、消化できない素材で作った麺だけを大量に食えば“一本で二度おいしい”わけで、ローマ人がこれに気づかなかったのは不思議である。わざわざ吐き戻すのなら、血糖値が上がらないものを食ったほうが食欲を維持できるし、自然に出てくる終端部で快楽を貪れば一石二鳥で合理的だ。さらに合理的なのは、どうせ消化されないのだから、そうした食材を再利用することであるが、心理的抵抗は残る。もっとも、心理的抵抗などは時代や場所によっていくらでも変化するので、“ソイレント・グリーン”を食うような時代が来れば、快楽の追求におれのアイディアがそのまま採用されてもおかしくはない。でも、あんな時代になったら、快楽の追求どころじゃないかもな。
【9月27日(土)】
▼9月18日(木)の日記で触れた「○○と××くらいちがう」遊びに、なんと2名もの方が作品をお寄せくださった。その中から、独断と偏見で全作品を選出して発表する。
まず、喜多哲士さん(書評家・教員)の作品。「小野不由美と白石冬美くらいちがう」(冬樹評:白石冬美と白石まるみよりは近い気もする)、「池澤夏樹と池上冬樹くらいちがう」(冬樹評:夏と冬の対照の妙がすばらしい)、「唐沢俊一と唐沢なをきくらいちがう」(冬樹評:あまりちがわないと思う)。
次、高嶺真次さん(ゲームデザイナー)の作品。「岡田斗司夫と坂田利夫くらいちがう」(冬樹評:漢字にごまかされて、音がこんなに近かったとは気づかなかった)、「坂東英二とバンドエイドくらいちがう」(冬樹評:うまい。この遊びの真髄をよく掴んだ作品)、「ルーズソックスとエキノコックスくらいちがう」(冬樹評:医学方面の方か『ブラック・ジャック』を熟読している方にはわかる)、「アンクルトムとジャングルジムくらいちがう」(冬樹評:素朴な味がある)、「カルボナーラとサルモネラくらいちがう」(冬樹評:ちがいすぎまんがな)。
というわけで、第一回「○○と××くらいちがう」大賞(いつコンテストにした、いつ)は、喜多哲士さんの「池澤夏樹と池上冬樹くらいちがう」、優秀賞は、高嶺真次さんの「坂東英二とバンドエイドくらいちがう」に決定いたしました!
【9月26日(金)】
▼会社に帰りにCD屋に寄る。原田知世の『Flowers』を遅れ馳せながら買う。よく考えたら、おれが今年三十五歳になるということは、原田知世はその二日前に三十になるんだよなあ。原田知世が三十ですぜ、三十! いつの日か「おや、安達祐実ももう四十か……」と感慨に耽ることになるのであろう。たいていの人は手前だけは歳を取らないと思っているようなところがあるが、アイドルの年齢を意識すると自分がおじさんになったのを感じますなあ。それはともかく、やっぱり女性は三十からである。最近の原田知世を見ていると、つくづくそう思うのであった。いやあ、じつにいい歳の取りかたしてるよね。清楚な大人の色気にますます磨きがかかり、歌に芝居にじつにいい味を出しておられます。もう“知世ちゃん”などとは、口が割けても呼べません、はい。
先日ラジオで「高校教師」を聴いてしまったため、発作的にポリスが聴きたくなって適当なベストものを見繕って買う。なんだか最近80年代ポップスばかり買い直しているような気がするぞ。やっぱり爺いか。でも、いいものはいいのだ。テレビのCM曲はと言えば、フィル・コリンズの Against All Odds (Take a Look at Me Now) まで登場し、さながら80年代ヒットパレードの様相を呈している。世紀末的現象なのか、それとも最近は愛着が持てない曲が増えたのか。商品としての回転があまりにも速すぎるのはたしかだ。昨日は知らないとバカにされたヒット曲が、明日はなにごともなかったかのように別の似たような曲に置き替わってゆく。工業製品のようだ。「上を向いて歩こう」みたいな曲の出現を、ほんとはみんなが待ち焦がれているんだと思うんだけどね。
原田知世とポリスをレジに持って行ったら、大量に入荷したエルトン・ジョンの Candle in the Wind (ダイアナさんバージョンね)にCD屋のおやじがホッチキスみたいな道具でばしばしと値札を貼っているところだった。エルトン・ジョンがこれで1000円なら安いかと、募金のつもりで買う。
▼なんだか今日は音楽の話ばかりになってしまうが、ゼルダの非公式サイト「ゼルダ Dancing Days」というのができていて、懐かしいのでじっくり楽しむ。SFファンには案外ゼルダのファンが少なくないんじゃあるまいか。「Ashu-Lah」「うめたて」「スローターハウス」などが気に入って、おれもむかしは愛聴していた。そのうち、『SHOUT SISTER SHOUT』あたりから方向性が変わってしまったので、それほど熱心にはフォローしなくなった。病的な危うさが失われてきて、早い話が、踊れそうな曲でメジャーになっちゃったのだ。『D.R.O.P.』まではCDで揃えているけど、個人的には『空色帽子の日』から『C-ROCK WORK』あたりがゼルダの全盛期だと思っている。映画『ビリィ・ザ・キッドの新しい夜明け』(監督・山川直人)に出演したころね。この映画、評価は別として、おれにはすごく愛着のある映画である。三上博史若かった、室井滋も若かった、真行寺君枝きれいだった、原田芳雄、石橋蓮司、戸浦六宏、北林谷栄渋かった。神戸浩ヘンだった。ほかにも、よくもおれの好きな役者(以外の人も多かったが)ばかりこれだけ集めてくれたもんだと、呆れたことに劇場で三回も観てしまったものだ。大傑作ってわけでもないのに妙に好きな映画って、誰にでもあるじゃないすか。
おっと、ゼルダの話だった。あまり人に言ってみたことがなかったのだが、『C-ROCK WORK』に収録されている「風の景 -Mind Sketch-」の歌詞などは、もろに日野啓三の影響下にあるとしか思えない。高橋佐代子はいかにも読んでいそうな感じだ。粗削りだけどサヨコの詞は面白かった。曲は概ね小澤亜子のがおれの好みだ。
去年解散していたとは、この非公式サイトを見て初めて知った。16年間のゼルダの軌跡がコンパクトにまとめられていて、解散について小嶋さちほ姐御(笑)が直接メッセージを寄せたりもしている。ゼルダが好きだった方は、ぜひ一度ご覧あれ。
【9月25日(木)】
▼佐藤晃一郎さんの「れとろ看板写真館」を久々に見に行ったら、「医薬品系れとろ看板(全国編)」のコーナーに、「くすりはホシ」という看板の貴重な写真が新しく追加されていた。旭川市で撮影したものだそうだ。おれは実物を見たことがないから懐かしいという感慨は湧かないのだが、これぞ星新一氏のお父上、星一氏が創業なさった星製薬の宣伝看板であるに相違ない。そもそも星製薬なる有名な製薬会社が存在したこと自体、おれは中学生くらいのときに初めて知った。年配の人に訊いてみるとさすがに知っていたけれども、おれの親類縁者には本を読む習慣のある人間がほとんどいないためか、父母くらいの年齢でもすでに知らない人のほうが多かったものだ。それにしても、こういう珍しいものがまだ残っているとは驚きだ。地道に収集整理なさっている佐藤さんのお仕事もすばらしい。
思い立ったが吉日とWWWを漁ってみると、北海道大学大学院理学研究科科学史研究室(杉山滋郎教授)のページにある「小説で読む日本の科学史・技術史」というコーナーにも取り込み画像資料があった。『人民は弱し官吏は強し』(星新一、新潮文庫)の紹介の中に、1918年12月26日の『北海タイムス』に載った星製薬の新聞広告が画像データで置いてある。新しいものには著作権上の問題も多いけれど、消えゆくものがいろいろな人の手で電子的に保存されて手軽にアクセスできるようになるのはすばらしいことだ。ちなみに、星薬科大学のサイトでは、創立者星一先生の胸像を拝むこともできる。ひとつの看板をきっかけにたちまち面白い関連データが集まってしまうのだから、百科事典を読みはじめたら止まらなくなる人がネットサーフィンをはじめると、時間がいくらあっても足りないよなあ。
【9月24日(水)】
▼「ワイアード」では、あいかわらず爆笑問題が飛ばしている。今月のはとくに出来がいい。
「月面着陸大論争!!」という記事には大笑い。ほら、むかしから繰り返し話題になるやつね。「月着陸はNASAが特撮を駆使してでっちあげたものだ」って信じている人がたーくさんいるって話。そう疑ってみる精神は大事だが、なんとも根拠が薄弱だ。まあ、娯楽を提供してくれているんだから、こういう人たちも滅びてしまったら寂しいよな。
▼やれやれ、やっとSFマガジン・ティプトリー特集用の原稿が上がりそうだ。伊藤典夫氏監修ということだから、さぞや濃密な内容になるんだろうが、ほんとにおれなんかが書いちゃってよかったのかな。もそっと推敲してから入稿しよっと。読めば読むほど、恋文みたいになっちまったなあ。
【9月23日(火)】
▼げげ、目が覚めたら夕方だった。疲れているな。跳び石連休というのは、こういうことがあるからかなわん。これだけ寝たからには、今晩は寝ないことにしよう。どのみち夜のほうが集中して仕事できるし。
▼ふとコンビニで見かけて先日発作的に買ってきた梅干しを食ってみたら、これがいくらでも食えてしまう。梅干しと言っても、お菓子として売ってる湿り気のないやつだけどね。こうした“発作的に食いたくなる”という感覚をおれは大事にしている。身体か心が欲しがっているという、選択的飢餓であろうと思うからだ(単に包装や広告に惑わされてるだけのこともあるが)。それにしても、これはハマリそうだ。あっというまにひと袋の梅干しがなくなってしまった。食事のときにはあまり食わないのに、スナック菓子として食うと梅干しってこんなにうまかったのか。
思えば、むかしは歴とした食事を菓子として与えられることが多かったよね。おれの母には妙なちりめんじゃこ信仰があって、子供のころなど「なんかお菓子ないか?」とねだると、「ちりめんじゃこ食べとき」などと紙袋ごとくれた。おれが子供のころから身体が弱いものだから、身につくものを食わせようという配慮である。目刺しとかトマト一個とか、これらはわが家では“お菓子”でもあったのだが、こんなのはうちだけだったのだろうか?
▼「SFメーリングリスト」というのができた。個々の作家について語るメーリングリストはたくさんあるが、SF全般というのは国内では珍しいんじゃなかろうか(初かどうかは知らない)。活動内容としては、「新刊の情報交換、感想」「読書会」「SFファン同士のコミュニケーション」を考えているそうである。参加希望者は、「sf-ml-ctl@y7.com」宛で本文一行めに「# guide」と記入したメール(Subjectは無視される)を出せばガイドが自動返送されるから、詳しくはそちらを参照のこと。非商用で参加無料。
【9月22日(月)】
▼「ら抜き言葉撲滅委員会」に入会して日本語の美しさに目覚めたせいか、以前から気になっている言葉遣いがやたら気にかかる(なんて言葉遣いだ)。一部の公共事業はさておくとして、営利企業に勤めておられるサラリーマンの方はよく“費用対効果”という言葉を耳にし、また口にすると思う。しかし、これはどうも妙な言葉だ。「費用対効果を考えると、その案はあまりよくない」という場合にはまったく問題ないのだが、「その案は、費用対効果が小さい」などと言う人がいると、非常に気色が悪い。後者の例では“対費用効果”が正しいはずだ。ダイアナさんが撲滅しようとしていたのは“人対地雷”ではない。カバーガラスを砕くために顕微鏡に付いているのは“物対レンズ”ではない。“潜対哨戒機AWACS”なんてものは飛んでいない(しつこいな)。なのに、なぜかサラリーマン十人のうち九人までは“費用対効果”をそのまま名詞として使うのである。不思議なことだ。おそらくこれは、学生時代には費用だの効果だのと口にすることもさほどなかった人が、会社に入って上司や先輩のサラリーマンらしい語彙に触れて、それをそのまま継承するからではあるまいか。「おや、妙だな」と気づく注意力と国語力のある新人がいても、上司が妙な言葉を使っている会話で、自分だけ正しい言いかたをするのは日本の会社ではよろしくない。訂正するなどもってのほかである。相手が身内であれば、誰でも「それちがうよ」と気軽に注意できるはずだ。してみると、日本の会社は家族的だなどと言うが、じつのところそうでもないんじゃないかという気がする。
そこで経営者の方々に提案。あなたが作る通達の文書に、わざと妙な言葉を紛れ込ませてみてはどうか。草稿を読んだ重役が直裁に訂正してくれたり、「こうなさったほうがよろしいのでは?」などと提案するふりをして直させようとしてくれたら、あなたの地位はまだまだ安泰だ。誰もまちがいに気づかず(気づいていても知らぬふりをして)通達が末端にまで届いてしまうようなら、ちょっと気をつけたほうがいいと思う――いや、これくらいの実験では、まだ不十分かもしれない。たまたま誰もほんとうに気づかなかっただけなのかもしれないじゃないか。ここはもう少しわかりやすく、一日の取り引きがすべて終わってから、重役を呼び止めてこう言ってみよう。「この儲かった分、総会屋さんの儲けだったことにしてコンピュータに入力しておいてくれないか?」
【9月21日(日)】
▼本好きの方のお宅では同じようなことが起こっていることだろうが、このところ、積んである本が部屋のあちこちでよく崩れる。季節の変わり目や台風の襲来などで気圧や気温や湿度が急激に変化すると、本が含んでいる水分や空気の塩梅に乱れが生じ、ふだんかろうじてバランスを保っている本の山がピサの斜塔のように傾きはじめるのだ。湿度の変化に最も敏感に反応するようだ。
ちなみに、平積みした本の山は(縦に積む人はあまりいないだろうけど)地震には意外と強く、わが家の状態であれば、通常震度3程度の横揺れでも崩れないことが多い。揺れているところを観察すると、平積みの本の山は図らずも制震構造になっていることがわかる。すなわち、背−前小口方向の横揺れの場合、一メートルほど積んである山であれば、下層にある本の揺れが上層に伝わるのに適度な遅延が生じ、下層の本が逆方向に揺れ返しはじめるころには上層の本がその揺れを打ち消す方向に揺れるのである。一冊一冊の本の構造を見てみると、背は固定されているが前小口と天地は開放されている(あたりまえだ)。よって、表紙と背表紙は背を支点にある程度の平行移動が可能である。また、少し緩めにカバーがかけてある本だと、本体とカバー折り返しとのあいだにわずかな空隙が存在し、これによりカバーは本体と独立してわずかながら動くことができる。こうしたことどもが複合的に作用して、本の山に加わった横揺れのエネルギーは、本の山がおのずから持つ弾性および本の自重により大きくなっている本−本間(また、本−カバー間)の摩擦力のため、かなりの部分が熱エネルギーに変換され空中に放散すると考えられる。さらに、かかる構造で吸収し切れぬ揺れが加わった際にも、本−本間の摩擦の少ないところで適度な横ずれ断層が生じて応力を劇的に吸収してくれることがある。ただし、横揺れが長時間に及んだ場合には、こうした制震構造が裏目に出て振動が増幅されてしまい、やがて山の中ほどで急激に大きな断層が生じて折れるように倒壊する例が報告されている。弱震であれば、揺れている最中よりも、揺れが止まったまさにそのときに倒壊することが多いのも、制震構造のゆえであろう。これらの知見から、本を平積みするときには、何冊かおきに背の方向を変えながら積み上げ(弾性の調節および湿度による前小口の膨張の相殺)、また、適度な間隔で材質の異なる(すなわち、摩擦係数の異なる)本を挟む(断層の意図的誘発による応力解放)のがよいと考えられる。背の方向を揃える冊数や異種の本を挟む間隔などは、経験によって得られるであろう。
NIFTY-Serve・SFファンタジー・フォーラムの友人たちのあいだでは、こうした山の倒壊による本の雪崩を“書籍流”あるいは“書砕(書斎)流”と呼び習わしている。火砕流を pyroclastic flow (pyro-=火の、-clastic=「破壊する」の意の形容詞連結形)と呼ぶところから、おれは“書籍流”を biblioclastic flow と勝手に英訳した(インテリの英語国民になら、洒落としては通じると思う)。残念ながら、まだそこいらの辞書には載っていないようだ。biblioclast (書籍破壊主義者、なるものがあるそうな)という語は存在するので、誤解されるおそれはなきにしもあらずだが……。書籍破壊主義者とやらがおれの蔵書に石油をかけて燃やそうと大挙して押し寄せてきたら、たしかに biblioclastic flow にはちがいない。そういうことはSFの中だけにしてほしいものだ。
▼携帯電話にまちがい電話がかかってきた。じつは買ってから何度かかかってきていて、そのたびに相手はちがう名前を呼び出す。先日など、なんと大津市の交番からだった。駐車違反のまま置き去りになっている車に残されていた資料から「カワセ」という人物の番号にかけたら、おれにかかったのだとおまわりさんはのたまう。今日は今日で、「ヤマモトさんですか?」と聞き覚えのない声が問う。さて、いったい私は誰でしょう? 携帯電話というのは、解約された番号の使い回しがけっこうあるらしく、以前の持ち主の知り合いからかかってくることも、そう珍しくはないらしい。また、番号が長いうえに、030と080局番が混在しているため、単純なダイアルまちがい(プッシュボタンまちがいと言うべきか)も少なくない。殺し屋・スパイ・政治家など、特殊な職業の方の携帯電話におかけになる際は、くれぐれもよくお確かめを。聞いてはならないことを聞いて命を狙われるのはまっぴらだ。なんか、このネタ、ミステリにありそうだよな。
ひとつ困ったことがある。「冬樹さんですか?」というまちがい電話がかかってきたらどう答えればいいのだろう? おれは名字もペンネームだ。「ペンネームはたしかに冬樹ですが、本名の冬樹さんにおかけですか?」とでも言えばいいのだろうか。文字で書くぶんには気に入っているけれども、おれはペンネームを口に出すのがどうも恥ずかしい。ペンネームの方々は、電話口で「はい、水玉ですが」「めるへんめーかーですが」「ソルボンヌですが」「水鏡子ですが」「夢枕ですが」とかおっしゃっているのだろうか?
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